清水正・ドストエフスキーゼミ・第五回課題「もし私がソーニャだったら」


清水正ドストエフスキーゼミ・第五回課題
「もし私がソーニャだったら」



後藤 舜 
 難しい課題であると思う。ソーニャという人物は余りにも私からかけ離れている。それは性別や時代や、あるいは虚構か現実かといった問題以上に、彼女の底抜けの慈愛というものは人間離れしすぎている。
 彼女を取り巻く環境は余りにも過酷だ。家では神経質で意地の悪い継母が自分に辛くあたり、年端の行かない弟妹たちは年がら年中泣き止まずに神経を刺激し続ける。彼女は少しでも生活費を得ようと必死に内職をやるも大した稼ぎにはならず、更には仕事の報酬を渋られて門前払いを食らったりする。そうしてがっかりして帰ってくると例の継母に穀潰しだのなんだのと罵倒され、終いには身体を売れとまで言われる。
 これだけでも想像を絶するほど悲惨であり、社会のどん底を名乗るには十分であると思うのだが、このうえ彼女にはどうしようもないろくでなしの父マルメラードフがいる。彼はせっかくありついた仕事の一切を放擲して、更には家にあった僅かな金を持ち逃げして酒を飲んでいるようなどうしようもない男である。しかも、清水正先生の説を信じるのなら、ソーニャは彼に仕事を斡旋するために土地の有力者であるイワン閣下に身体まで売っているのである。その一切の身を切るような行為をマルメラードフという男は仕事を放棄し蒸発する、というかたちで無にしてしまう。おまけに僅かな家の有り金さえ盗み出して酒代に変えてしまう。
 しかし、信じがたいことにソーニャは彼女を取り巻く環境の一切、果てはろくでなしのマルメラードフさえ責めることはない。ただの一言の愚痴も批難もこぼさない。これは、優しさだの家族愛だのの言葉では到底説明できるものではない。明らかにこれほどの献身は異常であり、作中でラスコーリニコフが彼女の正気を疑ったのも当然の話だろう。 
 なら、これほどのどん底の状態に置かれ、かつこれほどのろくでなしに対して私だったらどのような態度、行動をとるか。まず、どこかに逃げてしまうというのが順当に頭に浮かんだ選択肢なのだが、実際にあの時代、しかもあの気象の国を大した路銀もなく彷徨おうなどというのは自殺行為である。仮に野垂れ死にせずにどこかに身を寄せることができたとしても、それは十中八九彼女の置かれる惨たらしい状況とそう大差はないものだろう。
 身体は売らずに今のしょうもない仕事を続け、自分を取り巻く環境には我慢する。これは確かに一番の安牌であるとは思うが、私のような人間には如何せん精神力が続かない。それこそどこかのタイミングで本当に発狂してしまうのがオチだろう。
 いっそのことろくでなしの父と意地の悪い継母を殺してしまうのはどうだろう。少なくとも彼女の生きる環境に置かれた人間にとって、小さくはない苦痛の原因となるだろうこの二人いなくなってしまえば随分と状況はすっきりする。しかしこれも根本の原因である「洗うがごとき赤貧」の解決にはならない。どのみち生きるためには身体を売るという罪をどこかで背負わなければならなくなるだろう。
 そうやって考えるうち私の胸裡に自然と浮かんできたものは、窃盗、あるいは強盗である。もしそうして金を奪い、更には上手く逃げおおせた場合にはすべての状況は好転する。すくなくともこのどうしようもない貧乏からは脱すことが出来る。しかし、この方法はもう既にラスコーリニコフが作中で試したことであり、結果はご覧のとおりである。無論出頭せずに、スヴィドリガイロフなどの手を借りて司法の手の外に逃げてしまうことも不可能ではなかったろうが、その罪の意識を永遠に引き摺って生きていくことなど不可能なように思われる。仮にラスコーリニコフのような無茶苦茶な論理を頭の中にでっち上げたとしても、それで永遠に罪悪感から守られるようには私には思えない。
 となると、これは極めて陰気などうしようもない選択であると思うのだが、いっそ死んでしまった方が楽であろう。こんな人生の中になにかの生きる気力を見出すことなど、私でなくとも世間一般の人間には不可能だ。そして、そのような環境下で、未だ他人の為に生きているソーニャは私に言わせれば人間ではない。それは、マルメラードフの言うような存在か、さもなくば人間性の欠片さえなくなってしまった狂人かのどちらかだろう。



川上真紀

もし私がソーニャなら、両親に嫌気が差し、あまり接しなくなると思う。年中、酒を飲む父と顔を会わせるたびに嫌みばかり言う母、私なら同じ空間にいるだけで苦痛に感じる。例え、マルメラードフやカチェリーナが本心では私を愛してくれていたとしても、普段の行動からそれを気づくことなんてできないだろうし、私も彼らの本心を知ろうともしないだろう。その結果、家族の関係にヒビが入ってしまうかもしれない。私は、酒を飲むことがわかっているのに、マルメラードフにわざわざ自分が稼いだ金を渡したくない。ましてや、何も言わずに金を渡すことなどできないだろう。もし渡したとしても、カチェリーナのように嫌みを言ってしまう。これまで家族の家計を支えていたマルメラードフが酒に入り浸り、勝手に仕事を辞めてしまったとなれば、カチェリーナでなくとも嫌みを言ってしまうだろう。
マルメラードフに対してでもこのような有様なのに、これがカチェリーナとなるとより深刻な事態になるだろう。顔を合わせるたびに嫌みを言ってくる人間を好きになる人などいない。カチェリーナが嫌みばかり言うのには何かしら理由があるに違いないと私が考えたとしてもそれは心の中だけのことであり、実際にカチェリーナの心を理解しようとはならないだろう。心の中ではいくらでも綺麗事が言える。しかし、現実はそうはいかない。私はカチェリーナに口もきかなくなるだろうし、それではカチェリーナの本心がわかるわけがない。そして、不満が積もり、互いが段々とすれ違っていった結果、私とカチェリーナの関係は完全に冷え切ってしまうだろう。
これまで、マルメラードフやカチェリーナについて手厳しいことを書いてきたが、私は弟や妹にも同じ意見を持っているというわけではない。私は、自分を慕ってくれている弟や妹に何の負の感情も持っていないし、幸せになってほしいと考えている。誰だって、自分を慕ってくれる人間には幸せになってほしいと考えるのではないだろうか。私は、弟や妹とは何のわだかまりもなく接したいので両親との不和により弟や妹にも気まずい思いをさせてしまうということは避けたい。しかし、これまでの流れからすると、とてもじゃないが両親と仲良くすることなどできない。マルメラードフだけならまだ良い。二人で話せば何とかなるかもしれないと思うことができる。しかし、カチェリーナはそうはいかない。冷え切った関係を元に戻すには、並大抵でない努力が必要だ。その努力をしている時に嫌みでも言われたら、言葉の応酬による更なる関係悪化という事態になりかねない。
そう考えると、弟や妹に気まずい思いをさせてしまうことは避けられないとつくづく思う。私は、従順に言うことを聞くということができないので、何か言われればすぐに反発してしまうだろう。弟や妹には申し訳ないが、両親とは一定の距離を開けつつ接することになると思う。
以上の事から、私がソーニャだったら、家族との関係が悪化してしまうと思う。しかし、「罪と罰」の中でのソーニャは、従順に家族の言う事を聞き、家族との関係も悪くはない。これは、ソーニャが相手の気持ちをちゃんと理解できていることの表れでもあるのだろうが、私はソーニャの従順という部分に、かつて親には女性は従うべきものであり、家事を行う事を強制されていた時代を見たような気がした。そして、この従順という言葉は私とソーニャの決定的な違いだと感じた。そうすると、私がソーニャだったらと考えたとき、家族との関係の悪化を思い浮かべた原因の一つに時代の違いがあるのかもしれない。他にも原因はいくつかあるだろうが、私が、本当にソーニャが生きていた時代に生まれていたらどうなっていただろうとは考えたくもないと思った。


 加藤佳子
私がソーニャだったら。酒浸りでろくでなしの父親をもち、血の繋がらない母と兄弟たちを守らなければならない立場になったとしたならば、私はどう行動していたのだろうか。実際に彼女と同じ境遇に立ってはいないから彼女の本当の気持ちは分からぬし、立場も今の私とは共通点は少ない。そんな私が、今の気持ちのまま彼女の立場に立ったとしたならば、果たしてどうしていただろうと考えてみた。
 まず初めに父親について。彼女――ソーニャにとって父親であるマルメラードフは血の繋がった唯一の肉親だ。血の繋がり、実の親という影響力がどこまで人の心に影響するかは分からぬが、少なくとも私(ソーニャ)にとっては唯一無二の存在であることには間違えない。母親を亡くしたことで、より一層父親、親、家族というものの存在が強く心に刻み込まれる。この人、マルメラードフは私のたった一人の親だ。
物語の中では酒浸りのどうしようもない父親という描写があまりにも印象的過ぎるのだが、彼は根っからの駄目人間ではない。真面目に働き、娘を愛してくれた誠実な彼の背中を見てきたのは他の誰でもない私(ソーニャ)だ。もしマルメラードフが根っからの駄目人間で、酒浸りな姿を幼少時から見続けていたら、おそらく私は何がなんでも彼にお金を渡すことはしなかっただろう。誇れる姿を見ていたからこそ、いつか踏ん切りをつけてまたあの頃のように真面目に働いてくれるかもしれないと淡い期待を胸に抱く。今は駄目でも、根は家族(私)を愛してくれている父親だから。そんな父をどうして見捨てられるだろうか。もし記憶の中に彼の誇れる姿が無かったら、私は正面切って「あなたなんて 父親じゃない!私の家族じゃない!!」と言えただろう。
 次に仕事について。いくら血の繋がりはないと言えど、新しくできた家族という存在は私にとって少なからず特別な存在となっていくであろう。ただここで特別な存在となっているのは継母のカチェリーナではなく、下の兄弟達だ。私には自分に稼ぎが少ないと再三いびる人を愛せるほどの寛大で、滑稽な心はない。嫌なことばかりしてくる人をどうして愛せるだろうか。現実の私は一人っ子なので兄弟がいたら、という想像はいまいち分からない。一人っ子だからこそ、兄弟が欲しいと思うし、大切にしたいと強く思うのかもしれない。その気持ちがどうしても抜けないので、もし私がソーニャだったなら新しくできた兄弟は喜ばしいものだ。お腹をぺこぺこに空かせている彼らの為に一生懸命働くだ ろう。少なくとも餓死はさせたくない。空腹で苦しむ彼らの姿をこれ以上みたくはないから。
では特別でもない、ましてや自分に害をなす相手であるカチェリーナから「体を売って、お金を稼いで来い」と言われたら、私だったらどうしていただろうか。家が裕福で、お金に困らぬ生活を送っていたのなら大いに困惑し、最後には拒否していただろう。しかし家の状況は極めて過酷で、家族全員が満足に食事をとれず、住む部屋一つさえ確保できないほどの窮地に立っているのだとしたら。更に自分には大切な幼い兄弟もいる。言われた瞬間は「母さんも働いて稼いできてよ!」と言いたいが、母は兄弟たちの世話を見なければならないし、失礼だが母の年齢では売春婦としては些か適齢ではないだろう。
父親はあてにならない(なっていたら、とっくに真面目に働いていただろうから)ので、残るは私だけ。もし私が家族に無関心で、自分と天秤にかけて迷わず家族を切り捨てられるような性格だったら、物語は変わっていくだろう。しかし今の私がその状況下に立たされたら、迷い考えた末にソーニャと同じ決断をするだろう。果たしてこの自己犠牲が全て家族の為なのかは分からない。自分という存在を家族の中に色濃く在らせておきたいという一種の自己満足も含まれているのかもしれない。
売春以外でもう少しお金を稼げる方法がないか探すのが得策なのだろうが、この時代で私(ソーニャ)の年齢で効率よくお金を稼げる手段は売春だけだろう。もしマルメラードフくらい学力が備わっていたら、マルメラードフがやめた仕事を代わりに引き受けたいと思うが、現実はそうはいかない。するとやはり売春婦になるしかないのだろう。そして最後に決断させたのはマルメラードフ、唯一の肉親から言われたことが大きいだろう。上記にも書いたように私は父親を見捨てられない。私が我が身を売ってまで働きに行くのだから、その姿を見て正気に戻ってくれるかもしれない!と冷静になって考えれば馬鹿げていると笑われるような夢を見るだろう。そしてもう一つは兄弟達だ。おそらくカチェリ ーナは私が拒まないように「兄弟達に食わせる金もない」とかなんとか、とにかく兄弟達のことを一つは理由にしただろう。私のことは卑下にしても、自分の子供には少なからず愛情を注いでいたから。私は兄弟を話しに出されたら断るに断れない。何故なら私は彼らのことを愛しているから。守りたいと思っているから。今のこの状況で、彼らを救う力を手にできるのは私だけなのだから。すぐには返事ができないだろう。一日か二日、家を離れて、なるべく人気がない所に行って、思いっきり泣く。なんで私の家は裕福ではないのだろう。何故父は真面目に働いてくれないのだろう。どうして私は売春婦にならねばならないのだろう。世の中不公平だ、不条理だと思いっきり泣こう。惨めな目で見られようが、笑 われようが今だけは泣いて、泣いて、涙を枯らすくらいの勢いで泣いてしまおう。この涙がせめてもの私の抵抗の証なのだから。そして、その涙が尽きた時、我が身を売りに行くのだ。
家を離れ、私にとっての監獄への道中、私は心を無にしようと努めるだろう。この先の出来事は悪い夢だ。痛みも、苦しみも、恐怖も、その場限りの一時の夢。だから何も感じないように、けれどお客を不快にさせないように、私はお客が求める「売春婦の女」として生まれ変わる。
 ソーニャが自己犠牲の中で自分を捨てたのは、現実を耐え抜くためだったのではないか。私だったら、いくら決意したとはいえ、売春婦となった自分を真正面から見ることはできない。これは夢だと信じ込ませて、現実から目を背けようとするだろう。けれど、家で待つ兄弟達や、父の顔を思い出しては我に返り、そして現実に絶望する。そんな現実に陥れた原因の一つである父親がお金をせびりに来る。おそらく回を重ねていくにつれマルメラードフが私に責めを求めていることに気づくかもしれない。(100%気づけるとは言い切れないが)大切で、大好きで、憎い、酷い父親。愛憎が心の内に少しずつはびこっていき、父に対して避難などしたくないという気持ちと、そして、あなたの願いは叶 えてあげないという、小さな復讐心から私は何も言わずにお金を渡す。けれどこれはささやかな私の彼への復讐なのだ。彼にお金を渡せば母も苦しむ。兄弟達へのお金は別にとっておく。父と母へ、私からの言葉にはしないささやかな責めを受け取って。私は全てを許せるほどの寛大な心を持ち合わせているような完璧な人ではないのだから。
ソーニャが贖罪者だとしたら、私は彼女ほど立派な人にはなれない。それが私とソーニャの大きな違いだろう。無論、ソーニャも完璧な人ではないから家族に対して負の感情を抱いただろう。けれどそれを表に出さなかったのは凄いと思う。私はどこかで溜め込んでいたものを爆発させてしまうだろう。それがどのような形かは分からぬが、もしかしたらラスコーリニコフのように人を殺めるという最悪な形となってしまったかもしれない。

河内智美
 私がソーニャだったらということを考えた時、どうしても考えてしまうのは時代の違いだ。私はたいしてこの小説で取り上げられている時代のロシアに詳しいわけではないが、ただこの小説を読んでいるだけでも今の私たちの時代とは全く違うということがわかる。その時代の違いが最もあらわれていると私が感じるものの一つが、女性の地位がとても低いということだ。この時代では生まれた瞬間に女性の地位や人生がほとんど決まってしまっているように思う。もちろん、貧乏な娘が金持ちと結婚して地位が上がるとか、金持ちの娘が駆け落ちしておちぶれるといったことはあると思う。しかし、女一人が仕事で出世して自分の手で自分の人生を決めるといったことは、ほぼできないのではないだろうか。それ
ほど時代の差があるために、自分をソーニャに置き換えてみることは結構難しかった。
 まず、ソーニャの境遇を考えてみた。ろくでもない父親のせいで幼い義の妹たちすら日々の食事にも事欠くような貧乏のどん底にある暮らしで、継母から八つ当たりされ、身売りをするはめになり、そのうち父親が死に、すぐ後で継母も死に、頭がおかしくなりかけたラスコーリニコフが殺人を犯したことを告白しに来た挙句おまえも同じだろうと言われるなどとことん不幸な娘だと思う。最後まで読んでもソーニャが幸福だったことは最後の最後を除けばほとんどないように思う。そんなひどい境遇にありながら、ソーニャは決して自暴自棄になったり、他人を思いやることを忘れたりせずに神を信じ続けている。いや、神を信じ続けることが唯一の救いだったのかもしれない。だから身売りによって自分が不浄
な存在に成り果てたと思い、神に救いを求めることもできなくなり、ラスコーリニコフにおまえは殺人を犯した俺と同類だと言われて恐怖したのかもしれない。この時代の女性は、女に生まれた時点で諦めて神に救いを求めるしかなかったのではないだろうか。神を強く信じる傾向は、ソーニャだけでなくプリヘーリヤなどにもみられる。
 私がソーニャだったら、こんなにつらい現実を受け入れて耐え忍ぶなど到底できないと思う。将来自分が頑張ればという希望もない時代、様々なつらいことを経験し、神に救いを求めることも否定され、それでも発狂も自殺もせずに思いやりを持ち続け、自分の不幸のほとんどの原因である父親が酒代をせびりに来ても黙って何も言わずにありったけの金を渡したり、自分の心を苦しめる発狂しかけた殺人鬼が罪を償うのについて行ってやったりするなど私に限らずこんなことができるほど強い心を持った若者が現代に一人でもいるだろうか。私がこんな境遇になったら、途中で生きることをやめてしまうと思う。スヴィドリガイロフが夢で見た少女のように肉体的に自殺という形をとっても、発狂してプリヘーリ
ヤのように死んでしまっても同じことだ。今の私たちからしてみたら、ソーニャはまるで人間ではなくマルメラードフが言っていたように天使とかそういうもっと高度な存在なのではないかとすら思えてしまう。この小説に出てくる女たちは皆、どうしようもない男たちに振り回されても気持ちを強く持っていられるような強い人が多いように思う。この時代、女たちは心を強く持たなければ生きていけなかったのだろう。
 ソーニャの人生について、作者は自分で書いていてさすがに不幸のまま終わるのはかわいそうに思えたのではないか。女性が幸せになるのが難しい時代なのだが、この小説ではソーニャとドゥーニャは幸せになって終わっている。エピローグを読んでいて、私はこのエピローグはなくても話的には問題はないのではないかと思っていた。だが、それまで世の中の不幸を具現化したような存在だったソーニャが最後の最後で幸福を感じられ、ハッピーエンド的に終わったところまできて私はこのエピローグはソーニャのために書かれたのではないかと感じた。もちろん主人公であるラスコーリニコフが更生しはじめるところまで書くということもあったと思うが、私には作者がこの時代に生きる女性をそっと応援して
いるような気がした。


小林 一歩
 私がソーニャだったら家出する。ああなってしまった以上、もう家に留まっていられる気がしない。何が嫌かというと、まず、ソーニャの中間管理職的立場だ。上には継母下には兄弟と、かかる圧力の量がすごい。こういった複雑な家庭事情は現代にも十分起こりうるが、ソーニャの場合はまた一味違う。彼女がそこを逃げ出すということは家族を見捨てることとほとんど同義になってくるからだ。そのプレッシャーに耐えられるほどの精神力を私は持っていない。それに、私は人づきあいが苦手だ。血の繋がらない継母や兄弟とひとつ屋根の下で上手くやっていける自信がない。上手くいかない人間関係の中では情もわきにくいので、より責任を放棄することに抵抗がなくなる。というか、もしかすると一緒に暮らすとなった時点で逃げ出していたかもしれない。そうしなかっただけでもソーニャはずいぶんいい子だと思う。
 そしてもちろん、極めつけは父親の存在だ。働かずに酒ばかり飲んでいる父親の姿を毎日のように目にしなくてはいけないのが何よりも辛い。考えただけで頭が痛くなる。永遠の別れとまではいかずとも、本当に尊敬できなくなる前に一度離れたい。なるべく、両親には敬意を持てる人でいてほしいのだ。家族として、情けない姿を受け止めることも時には大切だが、マルメラドーフのような段階にまでなってくると話が違う。もう見ていられない。見たくないので、逃げる。責任感のせの字もない。ちなみに、家出をした後でどうやって生きていくかは全く考えていない。ひょっとすると、知らない男の人を相手に身売りをするよりずっと嫌な目にあって死ぬかもしれない。しかしそれでもいい。逃げられるときや逃げたいときに思い切って逃げだすことが重要なのだ。後のことはあまり考えない。
 さて。この文章を書いていて気が付いたことがある。私はどちらかというとソーニャよりもマルメラドーフに近い考え方をしているようだ。私は前々回のレポートで彼のことを散々「かわいそう」だの「豚だ」だのといったが、あれは自分と近いものを感じたからこそでてきた言葉だ。マルメラドーフには妙な親近感がある。と、同時に同族嫌悪の念も強い。
 そういった理由から、私にはソーニャの気持ちがほとんど理解できない。彼女の立場に立って考えてみると、正反対な行動ばかりとりたくなってしまう。ソーニャがどうしてマルメラドーフを見捨てなかったのか、血の繋がらない家族のために身売りする気になれたのか、逃げ出さなかったのか、何一つわからない。共感できない。
 ただ一つ確かなのは、私がソーニャだったらまず間違いなくマルメラドーフの一家は破綻するということだ。ソーニャの働き分があってもぎりぎりの生活なのだから、そこを頼れなくなったらみんな死ぬしかない。穀潰しと罵られ、家出をするまでもなく追い出される可能性だってある。
 私にソーニャは向いていない。



藤野絵里香
私がソーニャだったら、きっと自分の大切な身体を売るようなことはしないと思う。しかし、彼女のような選択も強く否定することは出来ないと思った。ソーニャは神を信仰していた。もちろん身体を売るような行為は神を信じる者としては、あるまじき行為と言えるだろう。それでもソーニャが身体を売った、ということは大きな理由がその背景に存在しているということになる。それが家族の存在である。私にとっても家族は大きな、何にも代えることの出来ない存在である。そんな大切な家族の破滅を娼婦となって支える、私には全く考えられないことである。今自分が生きている時代背景がこの行為に対する捉え方を極端にしてしまっているのかもしれないが、私には到底考えられない行為だった。神を信仰しているなら尚更、その「信じる」という行為に大きく反しているような行動はまず思いつきもしないだろう。

アルコール中毒である自分の父親を支えるのはとても大変なことだろう。私の親もお酒に飲まれることが多く、両親がお酒の匂いと共に帰ってくると凄く不快な気分になることが多かった。そしてもし、私の両親がアルコール中毒でお酒から抜け出せなくなって、家族が破滅するようなことになっても、私は決して自分の身体は売らないだろう。何故ならそこにお金はあっても自分の心は残っていないだろwたうし、家族もそのお金で喜ぶとは思えないからだ。どんなに自分に酷いことがあっても支えてくれるのは家族だと思っているし、そんな家族が破滅してボロボロになっていても、自分が身体を売ると言えば、許してはくれないと思う。それくらい私は家族のことを信じている。「罪と罰」で書かれている時代背景では、こんなにも呑気な考え方じゃ生きていけないのかもしれない。もし私がソーニャたちと同じ時代で同じ状況にあったら、想像しにくい問題ではあるがきっと身体を売ってしまうだろう。ソーニャにとって、家族は神にも適わない存在だったのだろう。

後にラスコーリニコフもソーニャに罪を告白する訳だが、ラスコーリニコフのような人間がソーニャに罪を告白し、次第に惹かれていく過程を読んでいると、ソーニャはラスコーリニコフにとって神のような存在だったのではないかと私は思う。ラスコーリニコフに神と思わせるような人間の家族を救うために行った行為が間違いだったとは考えにくいし、この行為が正しかったと願わざるを得ない。

ソーニャの物語は「罪と罰」ではかなり存在感のある物語であって、何度も考えさせられた物語である。後半では、ソーニャの物語はラスコーリニコフの犯罪の物語に組み込まれていき、大きく発展していく。その物語でも特に重要ではないか、と考えたソーニャが娼婦として家族を支えようとして行った行為。彼女自身も身体を売ることの重要さに気づいていたに違いない。それでも大切な家族を支えるために身体を売った部分に、ソーニャの意志の固さや、強さに関心してしまう。自分とソーニャを比較してみると、自分の意志の弱さがハッキリと分かる。家族の大切さは同じはずなのに、家族が破滅しそうになっても身体を売ることを拒否する自分と神を信じているのに家族を救うために身体を売るソーニャ、どちらが正しいのかは私にも分からないが、ソーニャの決意の固さが固いことは確かである。ソーニャの物語をもっと読み進めると何か変わってくるだろうか。

では、もし仮に自分が身体を売っていたらどういう気持ちになるだろう。きっと、家族との思い出や家族の顔を思い出して泣いてしまうに違いない。それほど身体を売るという行為は重いものだと考えている。そして身体を売ったとしても一回で終わってしまうだろう。すぐに挫折して、家族を助けたいという思いも簡単に消えてしまうだろう。ではソーニャは何を思っていただろうか。きっと私と違って意志が固いから、揺るがない家族への思いを思い出していたことだろう。ソーニャは本当に神のような人だ。

 中西 強 
マルメラードフの告白を振り返り、私がソーニャ自身だとしたのならば、私はどのように行動したのだろうか。彼女の選択した術に共感し、重ね合わすように同じ道を進むのか。
 まず、私ならば、家族のために処女を捨てることは無いだろう。何故ならば、ソーニャはカチェリーナからそう指示された時、本当にそうするべきなのかと問いかけたからだ。私が思うに、ソーニャがそう問いかけるには理由があったからだ。小説の中では、最終的に彼女は言われるままにしてしまったが、もしかしたらソーニャの頭には他に収入を得る方法が思いついていたのかもしれない。それは、小説内のような短時間で大金を稼ぐまではいかなくても、家族が十分暮らしていくだけの(処女を捨てるという大きな代償を払うまでもない)収入を得る事が可能なのかもしれない。たとえばの話だが、日本でも山で死体を掘り起こすアルバイトというものがあるそうだ。これは、日給が四〜五万円程貰えるそうだ。ソースはインターネットなので不確かだが、当時のソ連にもこのように割の良い仕事があると思われる。昔はヨーロッパでも奴隷貿易が盛んであったし、日本でも昔は金貸しの仕事が儲かっていたという話を耳にしたことがある。どの時代、どの国でも、こうしたビジネスが存在する。私はソーニャにこのような仕事の当てがあったのではないかと推測している。だから、私はソーニャが処女を捨てるという行動に同情するし賞賛を送りたいところだが、私もそうするかと聞かれればいいえである。
 次に、父のためになけなしの金を渡すか。簡潔に言えば、私もソーニャと同じくきっと渡すだろう。理由は簡単、家族が苦しむくらいなら自分が苦しんだほうが心が軽いからだ。それに、当時のソーニャはまだ若い。働くすべはいくらでもあり、即席で少しは集めることが出来るかもしれない。しかし、マルメラードフは老いており、若者ほどの体力は無いだろう。彼に出来る仕事は限られている。役人に戻らない限り、マルメラードフに収入を得る能力はない。それを知っているからこそ、ソーニャは辛くても父に金を渡すのだろう。ただ、私の場合、父より自分が苦しんだほうが心も幾分か楽なのでそうするだろう。
 もし、父が死んだら私はどうするのだろうか。ソーニャの父、マルメラードフは馬車に轢かれて死亡している。私がソーニャと同じ境遇になった場合、私は家族を支えるために力を惜しまないだろう。或いは、私の力不足を見かねて、私達姉弟は親戚に引き取られて家族がバラバラになるかもしない。
 私がソーニャならば、この先の人生に希望を見出せないでしょう。



 加藤 芙奈
 私が十四の時、父親は再婚した。
 相手の女には三人の幼い連れ子がいた。前の夫とは死別したそうだ。
 愛のある再婚だったなら、まだ私も素直に二人を祝福できただろう。新しい家族の形をぎこちないなりに受け入れられただろう。しかし、この結婚に甘く、温かく、幸せな感情など存在しなかった。
 義母は裕福な家庭で育てられた箱入り娘というやつだった。それが身分違いの恋というやつに落ち、ついには駆け落ちまでしたらしい。しかし、相手は段々身持ちを崩し、家庭内暴力にまで発展したという。そして、死別。
 駆け落ちした義母に手を差し伸べる親族はいなかった。義母は三人の幼子を抱え、路頭に迷うこととなったのだ。
 そこで再婚話を持ち掛けたのが父だった。元から気があったのか、ただ単に憐憫を誘われたのか知らないが、父は義母を放っておけなかったという。
 つまり、この結婚は“利用”と“慈善”なのだ。歪で不純で、吐き気のする形。反吐が出る。醜悪だ。どんなに罵詈雑言を並べても表現しきれない嫌悪感に彩られている。
 元々、私の家は裕福ではなかった。貧しい訳でもなかった。ごくありふれた一般家庭だ。
そこへ人数が四人も増えれば家計は苦しくなる。それでも私たちは慎ましやかに暮らしていた。贅沢は出来ないが、かといって貧しく飢えている訳ではない、悪くない生活。
 義母を好きにはなれなかった。けれど、嫌いではなかった。気位の高さが苦手意識を呼び起こすが、己を厳しく律している姿はとても美しかった。
 弟や妹は皆、私によく懐いた。純真で、この家族の歪さなどまるで知らない子供たち。あの子たちが私に真っ直ぐな好意を向けてきたように、私も純粋にあの子たち愛しかった。あの無垢な笑顔が、無邪気な笑い声が、打算のない感情が、私にそう思わせたのだと思う。
 しかし、そんな生活は長く続かなかった。不景気なこの時代。父は会社を辞めることになった。リストラだ。理由なんてあってないようなものだった。
 それからの転落ぶりは正直、笑えるほどだった。まるでドラマか漫画の世界だ。酒に溺れた父、病にかかり、ヒステリーに陥った義母。空腹を訴える兄弟たち。私は高校進学を断念した。学費なんて逆立ちして跳ねたって出てこない。水道も電気も止まった。まさに赤貧。こんなことが現実に起きるなんてびっくりだ。
「お姉ちゃん、お腹へったぁ……」
「へったー……」
 バイト情報誌を広げていた私に兄弟たちが寄ってきた。私は唇を噛み締める。この子たちの訴えが切実であることは百も承知だった。
もうここ三日、まともなものを口にしていないはずだ。
 昔は楽しみで仕方なかったゴールデンウィークというものが今となっては苦痛でしかない。何せ、学校がないのだ。せめて学校があれば給食が食べられる。栄養管理の行き届いた、美味しくて温かい食事は今の弟、妹たちには不可欠なものだ。
 高校進学を諦めた私は就職することも出来ず、必死にアルバイトで家計を支えようとしていた。生活保護も受けている。しかし、生活は一向に苦しいままだった。それもこれも原因は一つしかない。
「……お父さんは」
「ねてるよ」
 そう、なら今すぐ喉元を包丁で切ってやろうかしら。そんな言葉が口を突いて出ようとした。慌てて飲み込んでため息を吐く。吸った空気からは酒の匂いがした。我が家に入る金銭は皆、同じ末路を辿るのだ。
「おねぇちゃん、おなかへったよー」
「おかしがたべたいぃ」
 妹たちがぐずりだした。途端にソファで体を横たえていた義母の肩がびくんっと震える。ああ、まずい。そう思った途端に般若の視線がこちらに向けられる。彼女の行動は私が妹たちをなだめるより早かった。
「うるさいよ! 泣くんじゃない!」
 容赦なく振り下ろされる平手。それは一番上の妹に向けられた。
「うわああぁぁぁん!」
 痛みと恐怖と空腹に妹は泣き出す。それは瞬く間に残りの二人にも伝染した。私は三人を抱き寄せ、あやす。こんなことを何度繰り返しただろう。
「やめてよ! 子供に当たるなんてかっこ悪いと思わないの!?」
 これも言い飽きたセリフだ。
 ごめんね、我慢してね。
 これ以上お酒はやめて。
 子供は何も悪くないじゃない。
 お願いだから、働いて。弟妹には学校へ行かせてあげて。
 同じセリフを何度繰り返したか。同じ会話を何度再生したか。もう覚えていない。
「親に向かってなんて口をきくんだ! このただ飯ぐらいが!」
「はあ!? ふざけないで! ちゃんと働いて、お給料は全部渡してるじゃない!」
「あんな端金、何の足しにもならないよ!」
 これももう、慣れた会話だった。しかし、虫の居所が悪いのか義母は顔を真っ赤にして激情している。そして、言い放った。
「お前みたいな学歴も特技もないごく潰しがまともな金を稼ぐ方法なんて一つしかないだろう!」
 それはあまり聞きなれない、ループする会話のセリフには含まれないものだった。しかし、全く持って聞き覚えのないものではない。過去に同じセリフを二度聞いた。これが三度目だった。
「ふ、ふざけるな! そんなこと……できるはずない!」
 私はまなじりを吊り上げ、負けじと噛みつくように吠えた。しかし、義母はそれがどうしたとせせら笑う。
「ならお前はこの子たちが空腹で泣いたままでもいいって言うんだね!」
 薄情な子だよ! と義母は吐き捨てる。思わず、私の視線は私にしがみついた兄弟たちに向けられていた。涙に濡れた三対の瞳がじっと見上げている。きっと、この子たちはこの会話の意味を分かっていない。それでも、自分たちを苛む飢えから救ってくれる手立てが私にあるということだけは肌で感じているのだろう。
 ああ、私はどうしたらいい。
 可愛い兄弟たち。しかし、血は繋がっていない。そんな子たちのために己を売るのか。
 それとも、我が身を守り、この子たちは空腹と貧しさに苛まれ続けるのか。
「……」
 私は無言のまま、立ち上がった。兄弟たちは黙ったまま、私の服から手を放す。背中には義母の視線が刺さっていた。
 パーカーを羽織り、スニーカーをひっかける。そして、団地の重い鉄扉を押し開け、外へと出た。
 外は薄暗くなりつつあった。


冬室祐人
 私はソーニャのように一家の大黒柱の親父が飲んだくれで、母と兄弟姉妹が腹を空かし泣いているような状態であっても決して他人に自分の貞操を売り、またそれを続けていくようなことはできない。なにより私は男であり、体を重ねるならば自分の大切な恋人としたい。しかも初めてならなおさらだが。このように言い切るには私がこの時代に生きているということと、まだ本当の恋なんかもしてないし、小説を読んだだけだからだ。現実は創作物なんかのようにうまくいくわけがないし、甘くもない。苦くて辛いことばかりだ。年をとっていけば、今までになかったような理不尽なことが起きるかもしれない。けれどソーニャは生まれて何10年もしないうちに、人生で1番つらいことを体験しなくてはならなくなったのだ。家族の生活のためとはいえ自分の体を、貞操を得体の知れない自分よりも何10歳もの年上の変態親父に売るのだ。しかもそれを続けていかなくてはならない。こんな生活はもし自分が女でもやりたくない。
 しかしこの800年代からは変わったのだろうか。いや少し変化しただけで年端もいかない少女が体を売ること自体はおそらく人間が滅びるまで終らないだろう。変わったことはこの作品の時代背景が800年代だから、貧しい女は生活のため、またはソーニャのように家族のために体を売ることがあったのだろう。私が想像できるのは、江戸にあった吉原のような遊郭に自分の親から売り飛ばされ、一生そこから出られない生活。時代劇ドラマやマンガによくある話しか想像できない。当時のロシアの売春婦の実態なんか想像できない。
 ソーニャのすごいところはあんな飲んだくれの親父でも自分の父親として愛し、また見捨てないところが私には考えられない。私の父が飲んだくれになったら我が家は一家離散するだろう。いかに自分の行いが人として、しかもキリスト教徒ならば許されざる行為だろうが父が自分の不甲斐なさとソーニャの行いをとても恥ずかしく感じているから、ソーニャはこの親父を捨てきることができないのだろう。しかも本当の肉親ではないカチェリーナにいつまでただ飯食らっているのだと言われなくてはならない。けれど体を売って帰宅してからは身と心まで汚された自分と一緒に寝てくれる。そんな家族を捨てきれることができない。ソーニャという人は本当に優しいのだろう。
 また私がソーニャになれない理由はラスコーリニコフにある。彼はソーニャと接していくうちに彼女に母性を感じ始めたのではないだろうか。もし私がソーニャだったら(実際そんなことがあれば)警察に通報するか、逃げるかの2択である。自分がもし女で、私を愛してる男が私に母性を求める男だったらきっと別れてしまう。母性を追い求めてしまうのは男として共感できるところもあり、それが遠く離れていてれば自然と母性を求めてしまうかもしれない。
私の好きなアニメ作品に自分の大切な部下(少女で元娼婦)に母性を求めてしまうキャラクターがいる。しかしその部下は後の宿命のライバルとなる奴との戦いで、自分をかばい死んでしまった。そのため、彼女にあった母性を他の女に求め続けてしまう情けない奴で、終にはライバルと決着をつけるために私怨で戦争を引き起こしたなどと作中で言われる。さらに「私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!」という台詞がある。母性を求め続けた(彼は自分を甘やかしてくれる女性像を押し付けたのだが)彼は部下を愛すことはないまま部下が死んでしまうのだが。この部下とソーニャは共通性がある(ラスコーリニコフは最後にソーニャを愛するが)と感じてしまった。それは自分自身の体を売って罪と汚れを背負っているところからだ。
 男にとって母親は、自分を守り、包み込んでくれる唯一の存在である。それを成長していく中で振り切らなくてはならない。ソーニャはこの暗い作品の中で唯一の光なのかもしれない。だからこそ私は自分がソーニャだったらなんてことは考えられないし想像できなかった。ラスコーリニコフは彼の愛する母であるプリヘーリヤと離れるのを感じて、それを嫌いソーニャの中に母性を感じてしまったのかもしれない。だからこそ私は男であるし、母性を求められるよりは求める側でいたい。私は決してマザコンではないが、いつか本当に愛する人ができたときに、母性を求めてしまうかもしれない。だからこそ早くに捨て去るものなのかもしれない。

藤賀怜子
 私はソーニャのことが分からない。彼女についてはマルメラードフの告白でも書かれている。それによれば行方不明だった父親が酒代をせびりに来たときも『自分の手で、なけなしの金をありったけはたいてね、私は見てたんです……それでいて、ひとことも言うことじゃない、黙って私の顔を見るきりです……ああなったら、もう地上のことじゃない、神の国そのままですな……人間のことを悲しみ、泣いてはくださるが、けっしてお責めには、お責めにはならん!』という具合だ。せっかく再就職の糸口を見付け社会復帰できたと思えばすぐに金を持ち出して夜逃げした父親を責めずにいられるのか。それだけじゃない。加えて金までしっかり渡している。問い詰めたい気持ちがないはずはない。ならばどうしてその場で言わなかったのか。彼女の人物像が(まだ『罪と罰』を読破していないとはいえ)まったく浮かび上がらないのだ。
とはいえ、あんな駄目な父親でもマルメラードフはソーニャにとって唯一の肉親である(ソーニャの実母、つまりマルメラードフの前妻についてはまるで書かれていないが、簡単に会うことのできる状況ではない(ないし既に死んでいる)と予測される)。プリヘーリヤも小さな妹や弟も家族ではあるが血の繋がった関係ではないのだ。両親が健在で一緒に暮らしているのが当たり前な私には到底理解できないが、やはりソーニャにとってマルメラードフは特別な存在であり、同時に絶対的な存在であったのだろう。酒代をせびりに来た晩に問い詰めず金を渡してしまったのも、あの場でマルメラードフを責めたりなんてしたらもう二度とソーニャの元へ戻ってこなくなるかもしれない。あれほど落ちぶれても父親に変わりはない。きっとソーニャはこのまま一生離れてしまうくらいなら金を渡した方がましだと思ったのだ。ありったけの金をはたいたのも(その金がすべて酒代に消えると分かっていても)生活に困らないで欲しいという思いからだろう。
 一通りソーニャの立場になって彼女の気持ちを考えてみた。ここから本題の私がソーニャだったらどうするかを考えてみようと思う。
 まずマルメラードフは無職になって稼ぎがない。しかし金は必要だ。自分とカチェリーナだけならともかく小さい妹や弟もいる。この状況で、自らの純潔を守るだとか、好きでもない相手と行為に及びたくはないだとか、そんなことを言っている場合ではない。ソーニャと同じように私も自らの体を売ってでも稼ぐことになるだろう。『純潔一方で、腕におぼえのない小娘じゃ、日に十五カペイカもかせげやしませんや。』とあるように正攻法ではとてもじゃないが家族六人養い切れないのだ。仕方ないことと思って諦めるだろう。しかしその後は少々異なる考えを持つ。家族の期待を裏切ったうえに金を丸々持ち逃げしたマルメラードフを、私はもはや父親だとは思わない。甘やかして金を与えていたら彼は二度と就職しようなんて思わなくなるだろうし、金が途切れたらソーニャの元へまた足を運ぶのだろう。基本的に頼りにされるだけなら嫌いではないが、頼られあてにされるのは非常に不快である。現代でいうところのヒモのようになった父親は早々に見限って縁を切り、自分と義母カチェリーナと義妹や義弟たちを養うために働いて生活をする、これが、私がソーニャの立場に置かれたおきの選択である。この決断を、薄情だと思う者もいるかも知れない。しかしそうでもしない限り、状況は現状維持どころか悪化するばかりだろう。父親への愛情を捨て去るのは本当に難しいことだ。だがしかしソーニャのようにただ黙って金を渡していることは、果たしてマルメラードフのためになるのだろうか。私はそうではないと思う。ソーニャの選択は、私からしてみれば甘すぎるのだ。本当に彼のことを思った行動というのなら、見捨ててやるくらいしたほうが(家族との繋がりは断たれてしまうが)彼自身の再起にも繋がるだろう。



汗まみれの鍵
齊藤瑛研 
 
 ソーニャの父親であるマルメラードフは飲んだくれだ。しかし、何も生涯で一度もまともだった時期がないわけではない。役所に勤めていた事もある。優しく、いろんな事を知っているソーニャの自慢の父親だった。もっとも、ソーニャは今でもマルメラードフが大好きだ。きっとマルメラードフは壊れてしまったのだろう、きっと平坦で平和な道に疲れてしまったのだろう、そうソーニャは思い、マルメラードフを咎めなかった。しかしそんなマルメラードフと、大黒柱を失った家族を養うにはたくさんの金が必要になる。だからソーニャは起業した。
 「砂糖菓子屋マルメラードフ。子どもの小遣いでも買えるようなものから、洗練された舌を持つ貴婦人や甘いもの好きの紳士が笑みを浮かべるような高級菓子まで取り揃えているぺテルブルグで今もっとも人気がある菓子屋の名前だ。初めのうちはアパートの部屋でひっそりと安く腹持ちの良い砂糖菓子を販売している店にすぎなかったが、店の経営者であり看板娘の儚げな美しさと店のマスコット的存在の飲んだくれマルメラードフが子どもから大人まで幅広い層の心を掴み、増えていく売上金を店舗拡大につぎ込み、いつの間にかペテルブルグの中心に店を構えるほどになった…ですってお父さん!」
 ソーニャは手に持った新聞紙の一面に書かれた自分の店の紹介を読み上げ、子供のように喜んだ。娘が喜ぶ姿を愛おしそうに眺めるマルメラードフは、習慣的に手に持っていた酒瓶を置いてソーニャと喜びを分かち合った。少し前までは食べ物を口にしない日を数えていたらアパート中の住人の指を使っても数えきれないほどだったが、今では口に入れる食べ物を選ぶほど裕福になったソーニャとその家族は今、アパートなどではなく立派な門のある一軒家に住んでいた。あれほど口にしていたしなびた黒パンは今や家のどこにも見当たらない。代わりに、焼きたてのパンがいつでも食べられるオーブンが家にあった。ぼろ布に等しい服を着ていた家族全員も、今は上等な生地から作られた服を身にまとっていた。これほどまでの富を手に入れられたのには、新聞に書いてある事だけではなく、ソーニャの貧乏人目線の商売があったからだ。どうすれば腹持ちの良い菓子が安く作れるだろう? そういった貧乏人の立場に立ってものを考える商売人は、やはり珍しかった。どん底を生きたソーニャならではだった。
 経営が軌道に乗ると、だんだんとソーニャは忙しくなってきた。寝る時間を削り、食事の時でさえ商売のことを考えていた。そんなソーニャは、貧乏だったときとは違う理由でやせ細り、血色も悪くなっていった。そんな様子をマルメラードフは、少し不味そうに酒を飲んで心配していた。
 ある日、ソーニャは開店当初からある安い菓子の販売を中止した。そこからどんどんと、安く貧乏人向けの菓子が姿を消し、高価な金持ち向けの菓子が店の中に増えていった。マルメラードフがどうしてそんな事をするのかと聞くと。
「だってお金にならないんだもの。お父さんは心配しないで。もういくらお酒を飲んだっていいのよ」
 マルメラードフはひどく不味そうに酒をすすると、それっきり酒瓶に手を触れる事はなかった。そしてマルメラードフは、役人のときの三分の一の給料で、過酷な肉体労働を始めた。今までが嘘だったかのように、マルメラードフは働いた。手の皮が破れても、全員の筋肉が悲鳴をあげても、マルメラードフは働き続けた。その給料で、マルメラードフは前のアパートの部屋を再び借りた。その部屋の鍵をぽかんとした表情のソーニャに渡した時、人生で初めて、マルメラードフは汗まみれの顔で笑った。