小林リズムの紙のむだづかい(54)

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紙のむだづかい(連載54)


小林リズム

【気絶ゲームと制服とわたし】

【気絶ゲームと制服とわたし】

 花畑が見えた。確か汽車も走っていて、線路も見えたのだ。そしてちょろちょろと綺麗な水が流れていた。なぜだかハイジに出てくるアルムおじいさんもいた。マジで。

 中学校の頃、気絶ゲームというのが流行った。今から振り返ると、どう考えても危険な遊びで絶対にやってはいけないジャンルのものだけれど、そう言われれば言われるほど余計にやりたくなる年頃だった。反抗期で、先生も勉強もみんな嫌い!友達も信用できない!みたいな環境のなかで、刺激に満ち溢れたあのゲームは女子のなかでヒットした。

 昼休みにプールの近くにある納屋みたいな所に集まったり、音楽室に集まったりして、よくみんなで気絶をした。気絶しやすい子としにくい子がいたのだけど、気絶しにくい子が気絶をするときは、痙攣したり白目を剥いたりするから怖かった。
 気絶するコツはとりあえず頭を真っ白にすることで、何にも考えないようにしていると視界が砂嵐みたいになってくる。そのうちふわっと意識が遠のいて、気づくと気絶している。気絶中は夢を見ているのと同じ感覚だから、起こされると「あれ?30分くらい寝てた?」という気がするのだけれど、実際のところ1分も経っていない。
 
 いつも8人くらいで囲んでやっていた。気絶するときはガクッと力が抜けて後ろに倒れ込むから、それをみんなでキャーキャー言いながら支えていた。そして倒れた瞬間にみんなで必死にその子の名前を呼びながら揺すり起こして、こっちの世界へ呼び戻す。それでも起きないと怖くなってビシビシと身体中を叩く。目を覚ましたら気絶したときの感想を言い合うのが常だった。
「なんかフラッシュバックみたいだよね」
「太鼓っぽい音が聞こえたんだけど」
「夢みたいなの見たけど忘れちゃった」
なんて共有しながら飽きもせずに繰り返したのだった。校則で食べちゃいけないと禁止されている飴をこっそりと食べながら。白のハイソックスを履きながら。ワイシャツの上に着たグレーのカーディガンの袖を手元まで引っ張りながら。今よりもずっと不自由なのに、ずっと自由だった気がする。

 一度、気絶から目を覚ますと自分の目からボロボロと涙が流れていたときがあった。普段からよく泣くほうではあったけど、なんで泣いているのかわからなかった。そして泣いた理由は鏡を見たらわかった。ほっぺたが真っ赤だったのだ。
「全然起きないから、必死で叩いたよ!」
と言った友達の制服のスカートをぼんやりと見ながら、いやぁ、起こしてくれてありがとう。それにしてもこれは相当痛いわ…。と思ったのだった。ほっぺたが熱を持ってジンジンした。顔って叩かれるとこんなに痛いのね…。そして痛いと自然に涙が出るのね…。

 結局クラスの真面目な委員長が帰りの会のときに「このクラスで気絶ゲームをして遊んでいる女子がいます…」と密告されて気絶ゲームは終焉に向かった気がするのだけど、いや、そのあとも数回繰り返した気がする。でもそのうち飽きてやめて、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
 テストとか進路とか、嫌なことは目の前にいつもあったけど、無敵だった気がする。保護されている立場がうっとうしくて「嫌でもいつか大人になるんだから」と言う大人をなんて理解力のない人だろうと思ってた。今、あのゲームをやりたいなんてちっとも思わないのは、そのうっとうしい特権がなくなったからかもしれない。いや、ただ単純に怖いのもあるけど。