大泉黒石の「ロシア文芸史」(講談社学術文庫)を読む

本日は神田の古書店を回って、ドトールに入りアイスコーヒーを飲みながら大泉黒石の「ロシア文芸史」講談社学術文庫)を読む。途中、音楽がうるさいのでいらだつ。静かな喫茶店と思って入ったのが間違いか。とにかく近頃はどこの喫茶店もうるさい。不愉快な気分で外に出て、新お茶の水駅から千代田線に乗る。柏で降りて日高屋に入り「野菜たっぷりタンメン」を頼む。この店もまたラジオか、有線放送か知らないがけたたましい音楽がうるさい。JRも過剰放送で我孫子駅ホームでは人工的な鳥の鳴き声まで流している。有難迷惑もはなはだしい。いらいらしながら店をでて、ベッカーズに入る。ここもまた音楽がうるさい。なぜ、こう音楽ばかりかけているんだろう。音楽なんて、好きなひとにはいいだろうが、聞きたくもないやかましい耳障りな曲を一方的に流されていらつく客もいることを考えてほしいよ、まったく。わたしは自分が好む曲をイヤホーンで聞いてうるさい店内音楽に対処しているが、一度意識しはじめると何の効果もない。とにかく今日は「ロシア文芸史」を読み終えるために、不愉快な思いを抑えて、読書に没頭した。この黒石の「ロシア文芸史」は面白かった。特にネクラーソフの記述に関しては、黒石自身の思いが重なっていて、読んでいて胸に迫るものがあった。ゴーゴリツルゲーネフドストエフスキートルストイに関してはもう一冊の本を考えていたのだろうが、残念ながらそれは実現しなかった。ロシアの広大深遠な文学の森に踏み込むことは、相当な覚悟なくしてはできない。わたしはせめてドストエフスキーに関してだけは、それなりに納得のいくものを書きたいとは思っているが、それにしても『カラマーゾフの兄弟』論を中断してから何年たつだろう。「江古田文学」48号(2001年10月)に連載12を発表してからすでに十年以上もたってしまった。