清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載4)

江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀)に掲載した「ドストエフスキー論」自筆年譜を連載する。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載4)
一九七五年(昭和50年)26歳
   ●ベトナム戦争終結(4月30日)
○「『プロハルチン氏』をめぐって──鏡との対話──」 :「ドストエフスキー狂想曲」創刊号(5月1日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
 ※「ドストエフスキー狂想曲」は清水正編集・発行の同人誌。同人に浜田章、小島良孝、灘玄海、南保雅樹、新岡安彦。寄稿者に中村文昭、小柳安夫、新部雅樹。
○「『おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折──」 :「ドストエフスキー狂想曲」2号(12月10日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七六年(昭和51年)27歳
○「道化が戯れに道化を論ずれば──『ポルズンコフ』を中心に──」 :「ドストエフスキー狂想曲」3号(10月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「『弱い心』の運命」 :「ドストエフスキー狂想曲」3号(10月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七七年(昭和52年)28歳
○「坂口安吾とドストエフスキ──ー『吹雪物語』と『悪霊』を中心に」 :「ドストエフスキー狂想曲」4号(4月15日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「初期作品に見るドストエフスキー :「日本大学芸術学部紀要」第7号(12月20日 日本大学芸術学部紀要委員会)
○「関係の破綻と現実還帰の試み──『正直な泥棒』『白夜』『他人の妻とベッドの下の夫』をめぐって──」 :「ドストエフスキー狂想曲」5号(12月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九七八年(昭和53年)29歳
○「流刑前の作品世界 『分身』を中心に」 :「「ドストエーフスキイの会会報」No.50(4月1日 「ドストエーフスキイの会」)
○「ドストエフスキーに関する勝手気儘なる情熱」 :『場 「ドストエーフスキイの会の記録Ⅰ 1969-19739』(5月15日 海燕書房淵)
○「『イワン・デニーソヴィチの一日』について」 :「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「死の家の記録:「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「喜劇作者ドストエフスキー──『おじさんの夢』を中心に──」 :「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「道化と赦しの物語──『ステパンチコヴォ村とその住人』について──」 :「ドストエフスキー狂想曲」6号(6月30日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「ドストエフスキーてんかん :「「ドストエーフスキイの会会報」No.52(7月15日 ドストエーフスキイの会)

一九七九年(昭和54年)30歳
○「『罪と罰』序論──基本的構造からテーマへ向けて──」 :「日本大学芸術学部紀要」9号(2月25日 日本大学芸術学部紀要委員会)
○「自意識病の道化師──『地下生活者の手記』について──」 :「ドストエフスキー狂想曲」7号(6月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)
○「文体の魔術師──『地下生活者の手記』第一部・「地下の世界」について──」 :「ドストエフスキー狂想曲」7号(6月25日 「ドストエフスキー狂想曲」編集室)

一九八〇年(昭和57年)31歳
  ●イラン・イラク戦争勃発(9月22日)

一九八一年(昭和56年)32歳
○「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白──」 :「現代のエスプリ」164号(3月1日 至文堂)
 ※「あぽりあ」掲載の再録。
○「『罪と罰』をめぐって」 :「ドストエフスキー」創刊号(4月1日 「ドストエフスキー」編集室)
 ※「ドストエフスキー狂想曲」終刊後、田村一平、富岡幸一郎と共に創刊したドストエフスキー専門誌。3号で廃刊。
◎『「虐げられた人々」論』(10月15日 私家版) A5判・並製六六頁 非売品
ドストエフスキーの全作品を批評しつくそうと考えていたから、初期作品から順を追って作品批評を展開していった。『虐げられた人々』はそれほと批評衝動にかられた作品ではなかったし、批評の方法に関しても行き詰まりを感じていた頃であった。ドス卜エフスキーの作品を読めば読むほど全文引用するより他はないのじゃないかと思い、現にこの論考はかなり引用が多い。長い引用は、批評家にとってはどこかしら屈辱的な思いを感じるものである。引用も批評のうちと開き直って論をすすめたが、やはりそれが批評として成功したとは思えなかった。この思いは今でも変わらない。しかし、長いドストエフスキー研究の途上でこういった引用だらけの批評もあっていいのではないか、こういった地点も通過していかなければ先に進めないのだ、と思ったことも確かである。
『慮げられた人々』のワルコフスキー公爵が発する言葉はきわめて魅力的で、彼の言葉はいくら長く引用しても退屈することは全くなかった。彼の〈言葉〉を乗り越える〈言葉〉ははたしてあるのだろうか。】(「自著をたどって」より)
◎『ドストエフスキ──ー中期二作品──』(10月30日 呼夢書房) A5判・並製一六二頁 定価一五〇〇円
 ※「自意識病の道化師──『地下生活者の手記』について」「文体の魔術師──『地下生活者の手記』第一部・「地下の世界」について」「『虐げられた人々』論──赦しの精神の破綻」所収。
【この本の表紙に使ったのはわたしが十九才頃にワラ半紙に書いた『悪霊』論の一枚である。当時わたしは極めて小さな文字で原稿を書いていた。わら半紙一枚に四百字詰め原稿用紙に換算して五十枚ほどになる文字を書いたこともある。二十歳前後の頃、わたしの神経は異常に研ぎ澄まされていて、赤インクや緑インクを使って文字を書いたこともある。当時のわたしは完全な夜型人間で原稿はほとんど夜中に書いていた。冬などは炬燵に入って原稿を書き、疲れればそのまま炬燵で寝ていた。
 新潮文庫『地下生活者の手記』(米川正夫訳)との出会いによってわたしのドストエフスキー体験は始まった。十代後半から二十代、三十代とわたしのドストエフスキー体験は絶え間なく続いた。四十代の十年間は宮沢賢治論に終始した感もあるが、それでもドストエフスキーと縁が切れたわけではない。むしろドストエフスキーはより深いところへと沈んでいったのかもしれない。】(「自著をたどって」より)
○「ドストエフスキー遊園地──無為なる道化のすべり台──」 :「ドストエフスキー」2号(12月15日 「ドストエフスキー」編集室)
○「流刑前の作品世界 『分身』を中心に」 :『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅱ 1973-1978』(12月15日 海燕書房)
○「ドストエフスキーてんかん :『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅱ 1973-1978』(12月15日 海燕書房)

一九八二年(昭和57年)33歳
◎『ドストエフスキーの作品Ⅰ』(12月5日 私家版) A5判・並製五八頁 非売品
 ※「『貧しき人々』の多視点的考察」所収。

一九八三年(昭和58年)34歳
○「ドストエフスキー遊園地──白痴のブランコ──」 :「ドストエフスキー」3号(1月25日 「ドストエフスキー」編集室)
◎『ドストエフスキーの作品Ⅱ』(10月30日 私家版) A5判・並製九四頁 非売品
 ※「意識空間内分裂者による『分身』解釈」所収。

一九八四年(昭和59年)35歳
◎『ドストエフスキーの作品Ⅲ』(8月31日 私家版) A5判・並製八四頁 非売品
 ※「『フロハンチン氏』をめぐって」「おかみさん』の世界──胎内回帰とその挫折」所収。
○「〈書評〉中村健之介著『ドストエフスキー 生と死の感覚』」 :「日本読書新聞」(10月1日 日本読書新聞


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四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
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