大泉黒石全集第五巻「人生見物」「人間廃業」を読み終える

大泉黒石全集第五巻「人生見物」「人間廃業」を読み終える。落語調饒舌体の文章で全編、自虐的挑戦的な皮肉とユーモアに満ちている。ゆっくりした気分で落語を聴くようなかまえでないと多少退屈だが、時に鋭い人間風刺がワサビのようにきいている。

さて、本日から大泉黒石全集第六巻を読み始めたが、付録の「大泉黒石全集書報№6」に面白い記事を発見した。福田清人の「大泉黒石のスナップ」である。

 昭和十四年の秋と記憶する。わたしは日本大学芸術科の講師で一週二、三時間出講していた。科長松原寛は科の創立者で、その年春、練馬区江古田に新校舎を建て本郷金助町から移転していた。出講日に、教務から「草津温泉の近くに沢渡という温泉がある。軽井沢の法政村にならって、土地の発展策に大学村計画があり、その土地視察を兼ねて学生と一泊旅行を行うので先生も御一緒にいかが。」と誘われたので私も同行した。沢渡は草津で湯治した客の仕上げの湯の歴史を持つ温泉というが、当時はさびれていた。
 私達は午後もおそく目的地に着いて、やがて夕食という時、突然一升瓶を片手にどてら姿の酒気をおびたちょっと変った人物が現われた。
「やあ、皆さん、よく来て下さった。歓迎、歓迎、祝杯だ。」
 茶碗に酒を注いで廻すと、隣室に消えた。後でその異様な人物が作家の大泉黒石で、この催しに深いかかわりがあることを誰からともなく聞いた。
 (略)
 さて沢渡に滞在中、旅館の主人に次のように話したらしい。
「この土地の発展には大学村を近くに作る事だ。わしの郷里長崎の鎮西学院という中学で同窓だった松原寛君が、現在日本大学の科長をしている。彼にわしが話してやるぞ。きっとうまくいく」
 その間、色々いきさつがあってからの視察だった。
 翌朝、土地の神社の境内で、整列した学生の前で、ロマンチストの松原科長が大声で語り出していた。
「かつてメイフラワー号から新天地に上陸した一団がアメリカ合衆国の開拓者であった。今我々は同じ思いでこの地に一歩ふみいれたのである。」
 その時、前夜のどてら姿の大泉黒石が、徹夜で飲んでいたのか、ふらふらと松原科長の横に歩み寄って何やらささやいた。しかし科長のそばにいた連中が外へ連れ去った。
 その日の午後、私たち一行はその地を去ることになった。やはり、どてら姿の大泉黒石は、こんどは童子ほどの石の地蔵を抱いて見送りに現われて叫んだ。
「川原に落ちていた地蔵がお土産だ。東京へ持って行け。」
 その後、一年ほどで私は大学を辞した。上州に大学村が生まれたと聞かない。その上州の温泉地で五十年前接したどてら姿の大泉黒石の姿は、鮮やかなスナップのように思い出から消えない。

 大泉黒石日大芸術学部の創設者松原寛と中学の同窓生であったとは新発見であった。
また記事を書いている福田清人とは一度氏の自宅でお会いしたことがある。文芸学科の昭和五十五年度特別講座で「児童文学」を統一テーマに九名の講師の先生方をお呼びしたことがあった。福田先生にはその第五回目、「児童文学について」(昭和55-10-7)という演目で講義していただいたが、当時、文芸学科で学務委員をされていた宮原琢磨先生と一緒に依頼のご挨拶に自宅を訪問したのである。すでに三十三年の歳月がながれたが、その時のことは鮮明に記憶している。
 いずれにしても大泉黒石日芸とが、このようなつながりをもっていたのかと感慨深いものがある。