清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載1)

江古田文学」82号(特集 ドストエフスキーin21世紀)に掲載した「ドストエフスキー論」自筆年譜の最初のほうを紹介しておく。

清水正の「ドストエフスキー論」自筆年譜(連載1)

一九四九年(昭和24年)
二月八日、父・政吉と母いつの四男として千葉県東葛飾郡我孫子町我孫子弐百六番地に生まれる。戸籍上は四男であるが、すでに三人の息子を亡くしていた母は、わたしを長男として育てた。中学入学の時、履歴書に四男と記入したが、それまで母はわたしを長男で押し通した。

一九六三年(昭和38年)14歳
○「万物はすべてくりかえし」 (12月18日 日記帳)
 ※アインシュタイン相対性理論を一般者向けに書いた本の影響を受け、時間は繰り返すという思いに至った。この時からわたしは必然者となった。一挙に善悪観念は瓦解し、眼前の世界は〈真っ白〉になった。これは比喩的表現ではなく、全身体感である。世界の秘密が一挙に解けた瞬間の体験。高校に入ってベルグソンの「時間と自由」を読んだが、ベルグソンの〈自由〉はわたしを〈必然〉から解放することはなかった。「有は無であり、無は有である」と日記帳に記した少年はニーチェ永劫回帰に共感したが、ニーチェの必然と自由の一体化に至福感を得ることはなかった。ニーチェの全世界を肯定するディオニュソス的恍惚よりも、神が創造した世界の不条理に直面して「事実にとどまるほかはない」とつぶやいたイワン・カラマーゾフの精神の苦渋に震えた。十七歳で初めて『地下生活者の手記』を読んで、以来ずっとドストエフスキーの文学に耽っているが、まずなによりもわたしの心をとらえたのは、地下男が第一部で展開する必然と自由をめぐる思弁であった。気まぐれもまた必然の網の目から抜け出すことができないのだとすれば、要するにすべては決定されているというとになる。

一九六八年(昭和43年)19歳
 日本大学芸術学部文芸学科入学。ひたすらドストエフスキーを読み、批評する。
○「『罪と罰』におけるラスコオリニコフの問題」:(文学クラブ機関誌)
 【わたしは文芸学科に入学して「文学クラブ」に入会した。が、入学してまもなく大学紛争が始まり、教室は封鎖された。「文学クラブ」の連中の大半は芸闘委のメンバーで、最初のコンパの時には〈文学〉の話は全くなく、先輩たちは声高らかに〈政治〉の話ばかりをしていた。わたしは酔った勢いで「文学の話をしたらどうだ」と言ったが、先輩たちは生意気な奴だぐらいに思っただけだろう。ある日、サングラスをかけて妙に気取った先輩の一人が「おまえ何やってるの」と訊くから、ボソッと「ドストエフスキー」と答えたら「ああ、ドストエフスキー 、それ小林秀雄がやってるじゃない」と鼻であしらうような言い方をした。「何を言ってるんだ、ドストエフスキーはおれだよ」とわたしは腹の中で思って黙っていた。当時、ドストエフスキーと言えば小林秀雄小林秀雄と言えばドストエフスキーの時代だった。あの頃の文学青年は小林秀雄の読み方でドストエフスキーを読んでいた。かく言うわたしもその一人であった。わたしは『罪と罰』を読めばすぐに小林秀雄の『罪と罰』論を読んだ。小林秀雄をいかに乗り越えるか。それが当時の課題であった。わたしが最も熱心に小林秀雄を読んだのは二十歳前後の一、二年で、それ以降はあまり小林秀雄を高く評価していない。あの小林流レトリックの魔術はわたしにとって麻疹のようなものだった。小林秀雄江戸前の寿司職人のような威勢のよさで〈ドス卜エフスキー 〉という寿司ネタをワサビをきかせて客の前に出した。その握り寿司は、形といい、ワサビのきかせかたといい、実に日本人好みの〈食物〉だったということだ。(略)この論稿は機関誌から破りとって保管してあったので、雑誌のタイトルも正確な刊行年月も知ることができない。わたしが大学に入学したのが一九六八年であるから、おそらく同年かその翌年ぐらいに発刊されたのであろうが、闘争後は文学クラブそのものが潰れてしまったので、その歴史も知ることができない。】(「自著をたどって振り返るドストエフスキー体験」より。以下「自著をたどって」と表記)

一九六九年(昭和44年)20歳
  【ドストエーフスキイの会発足〜】

一九七〇年(昭和45年)21歳
◎『ドストエフスキー体験』 (1月1日 清山書房)A5判・並製一〇四頁  限定五百部 定価五〇〇円
 ※処女評論集。十九歳から二十歳にかけて憑かれるようにして執筆したドストエフスキー論。『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』論を収録。
 【十七歳の時に『地下生活者の手記』を読んでから三年、その間私はドストエフスキーの作品だけを読んできたと言っても過言ではない。ここに載せてあるエッセイはこの一年間に書いたものである。私はドストエフスキー作品を読んだときの感動をそのまま表現したかった。けれどもエッセイを書くことは、私にとって躓きであった。偉大な作品を分析しようとする試みは常に失敗せざるを得ないのだし、それだからこそ偉大な作品と言えるのだろう。私は途中で何度放棄しようと思ったかしれない。ドストエフスキー作品を前にしての評論や批評などが、いかに無力であるかを深く思い知った。けれども私にとって「ドストエフスキー体験」は決して過去形ではないことは確かである。】(「あとがき)より)
【すきっ腹をかかえ、上野公園のベンチで『罪と罰』を読んでいた。浮浪者の男がゴミ箱から漁ったセンベイのかけらを鳩にまいていた。その光景が鮮明に蘇ってくる。『罪と罰』は空腹で読むといい。三日も食べ物を口にしなかったラスコーリニコフの気持ちが感覚的に分かる。
 十九歳のとき失恋した。それ以来手紙が書けなくなった。はじめて書いたドストエフスキー 論は日芸のサークル「文学クラブ」の機関誌に発表した『罪と罰』論だが、これは感想の域を出ていない。しばらくして『白痴』論を書きはじめた。失恋したばかりの青年にとってナスター シャをめぐるムイシュキンとラゴージンの三角関係のドラマは切実だった。家族の者が寝静まった冬の夜、一人炬燵に入って原稿を書きすすめた。朝、外に出ると雪が積もっていた。その美しく化粧された庭を踏みにじるように駆け回った。
 大学に入学してすぐに紛争が勃発。江古田銀座を抜け、環七通りを越して、さらに歩いて二十分、そこにあったダンボール工場でアルバイト。時給百円。大学は封鎖され、芸闘委の連中が学内に立ちこもるなか、ひたすらアルバイトに汗を流す日々。夜はドストエフスキーを読み、ドストエフスキー論を書いて過ごす。明け方眠りにつき、昼過ぎ起きる。完全に夜昼逆転の生活。
 失恋で体重は激減。身長百七十四センチで体重は四十三キロ。まさに骨に皮を張ったような痩身。歩けなくなって道を四つんばいになって這っている夢をよく見た。それでもアルバイトだけは続けた。給金をもらうとすぐに古本屋で目をつけていた本を買い、喫茶店で煙車を吸い、コーヒーをすすりながらその本を繙くのが何よりの楽しみだった。
 夏休みを終えた頃、ドストエフスキー 論を出版しようと思い、金を貯めることにした。所沢のゴム工場で時給二百五十円の仕事をする。我孫子からその工場まで片道三時間ぐらいかかった。内容は袋に詰められた金物の数を確認すること。一日中、そんな単純な仕事をしていると頭がおかしくなる。が、隣の塗料をシンナーで溶かす部屋では精神科に通っていた早稲田の学生がリハビリで通っていた。その部屋に失恋した女性に似た可愛い子がいた。もう二度と恋などするものかと思っていたが、その子を見ると心臓が高鳴った。その工場では一ヵ月ほど働いたのだろうか。正確な記憶がない。それでもどうにかこうにか出版資金もたまり、友人の紹介で高知の土電印刷所で印刷製本してもらうことにした。
『白痴』論七十枚、『悪霊』論九十枚、『カラマーゾフの兄弟』論百三十八枚、『罪と罰』論七十枚、あわせて三百六十八枚が完成。表紙の絵も自分で描いた。『カラマーゾフの兄弟』論が百枚を越えた時は手が震える思いだった。印刷所から完成の知らせがあり、我孫子駅の貨物置場に取りに行った。家に運び、ダンボール箱を開けた瞬間、表紙に描いたドストエフスキーの顔が両目に飛び込んできた。あの感激は忘れられない。
 限定五百部の『ドストエフスキー体験』はよく売れた。早稲田の古書店・文献堂、池袋の芳林堂書店、赤羽の豊島書房だけで、一年もたたないうちにほとんど売り切れた。あの頃たしかに多くの人々がドストエフスキーを熱心に読んでいた。】(「自著をたどって」より)