小林リズムの紙のむだづかい(連載15)

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紙のむだづかい(連載15)


小林リズム

◆我が家の包丁
 

黒いボディに刃渡り三十センチほどのどこにでもあるものだけれど、うちの包丁には歴史がある。私がはじめてリンゴを剥いたのもこの包丁だった。ジャガイモを剥いている途中に親指を切ってしまったのもこれだった。けれどこの包丁は私がこの世に存在する前からあるのだから、もう二十年を悠に越え、私よりも人生経験豊富な先輩である。無口で鋭く、役に立つ先輩。この先輩は、父と母が結婚する前の同棲しているときからあったらしい。きっと、母が父に初めての手料理をしたときに使ったのもこれなのだろう。今は父の前で朝から堂々と一発オナラをかます母も、ウブで可愛げがあったとき。無責任で頼りにならない父が、母の前ではしっかりと男であったという、そんな青春物語の一幕もこの包丁は知っているのだ。
 そんな若きふたりを見守り続けてきたこの包丁にも、修羅場があった。 父いわく、それは私がまだ母のおなかにいるときだった。フリーライターをしていた父はバブル期にもかかわらず極貧生活だったらしい。たぶん、母がお金のことで父を責めていたのだと思う。そして父は妊娠している母にキツいひとことでも言ったのだろう。ふたりの仲は険悪になった。父のことだから母の人格を否定することをポンと言ってしまったに違いない。気づくと母は包丁を持って「殺してやる…」と父のもとに迫っていた。新妻に包丁もって追いかけられるってどこのドラマだよと突っ込みたくなるのだけど、なんだか当時の私がお腹のなかから見ていたかのようにリアルに想像できてしまうのがまた怖い。
 父はベランダに逃げた。泣き叫びながら包丁を向ける母。ふたりはもみ合う、父は必死になだめようとする。争いの結果、包丁はベランダをダイブして地上に落ちた。ダイブしたことでふたりは落ち着きを取り戻し、事なきをえた。
 翌朝、早い時間に父はアパートから出て、包丁を拾ってきた。土に突き刺さって汚れた包丁を、タオルで綺麗にふき取って洗い、キッチンに戻したらしい。その思い出話を聞いたとき、私は包丁をみる目が変わった。私より長く生きているだけのことはある。幸いなことに包丁は、今も二人の夫婦と共に毎日活躍してくれている。もしあのとき、母が父を刺していたら…。私はおそらくこんなふうには生活していなかっただろう。もし包丁がベランダからダイブしたとき、下を歩いていた人に突き刺さっていたら…。同じく私はこんなふうに呑気に書いていられない。私はこれから先もこの包丁が、間違っても血にまみれたりすることなく、ネギやら人参やらを切り続けてほしいと切に願う。