山崎行太郎さんが「毒蛇山荘日記」で『悪霊』に関する記事

文芸評論家の山崎行太郎さんが本日「毒蛇山荘日記」で小生の『悪霊』に関する記事を載せていたので紹介します。

山崎行太郎「毒蛇山荘日記」(2013-2-2)より
清水正の「ドストエフスキー論全集」を読みながら、「清水正ドストエフスキー論全集」刊行の政治哲学と出版戦略について考えた。ーーー昨年末、清水正が、「週刊読書人」で、ドストエフスキーの『悪霊』をめぐって、鼎談を行っている。ドストエフスキーの新訳を出し続けている亀山郁夫と、ドストエフスキー好きの作家として知られる三田誠広、そしてドストエフスキーを40年間、読み続け、論じ続け、書き続けて来たという清水正の三人が集まり、ドストエフスキーの『悪霊』を論じ合っているのである。亀山郁夫は『悪霊』の新訳を完成させたばかりであり、三田誠広は二次創作とも言える『悪霊』を書き上げたばかり、清水正は、『ドストエフスキー論全集』の六巻として『悪霊』論を刊行したばかりだ。ドストエフスキーの『悪霊』を語るには最高のメンバーと最高のタイミングと言っていい。この鼎談の舞台が、「週刊読書人」というマイナーな書評新聞であるところが面白い。しかし、この鼎談は、私の眼には、画期的意義を有するように見える。これは、最早、清水正の「ドストエフスキー論」が、誰も無視黙殺できない段階に来たということである。言い換えれば、日本のドストエフスキー研究も、ここまで来た、ということである。何故、文芸雑誌が、こういう鼎談を企画しないのか、と私には不思議、不可解である。というより、そこに、現代日本文学の貧困と劣化の原因があると言わざるを得ない。いずれにしろ、私には感慨深いものがあった。清水正の「ドストエフスキー論」も、やっとここまで来たか、と思わない訳にはいかなかったからだ。清水正ドストエフスキー論は、膨大であり、広く、深い。たとえば、清水正の『悪霊』論で、私は、シャートフとシガリョフという脇役たちの存在理由をはじめて知った。『悪霊』と言えば、スタブローギンやピョートル、キリーロフのような主人公やそれに匹敵する人物たちの存在理由については、誰でもそれなりに詳しく論じている。しかし清水正ほど 、シャートフとシガリョフという脇役たちの存在理由を、綿密に、且つ詳細に論じた人は、私の知る限り、皆無だ。内発的な思想家と外発的な思想家がいる。清水正が内発的な思想家であることは、その著作活動が体現している。ドストエフスキーについて、清水正のように、書き続けることは、内発的な思想家でなければ不可能である。しかも、出版されているとはいえ、清水正の著作は、自費出版的なものが多い。つまり、清水正の場合は、書きたいものだけを、換言すれば書かなければならないことだけを書いて来たということだ。当然のことだが、よほどの物好きでないかぎり、清水正ドストエフスキー論は知られていない。ドストエフスキーの翻訳者や研究者たちからでさえ、清水正ドストエフスキー論は完全に無視黙殺されて来た。ドストエフスキーに関する本が出る度に、私は、巻末の参考文献欄を読んだ。清水正ドストエフスキー論を参考文献としてあげているかどうかを見るためだ。多くのドストエフスキー論やドストエフスキー研究的の本には清水正のものはなかった。完全に無視黙殺されていた。私は、これはおかしい、不当だと思って来た。学会のルールか出版界のルールか知らないが、私は、清水正ドストエフスキー論を無視黙殺するドストエフスキー論を認めない。私は、清水正に、これはおかしい、それなら、自費出版でもなんでもいいから、その膨大なドストエフスキー論やドストエフスキー研究を集めた「ドストエフスキー論全集」を出すべきだと提案した。清水正の「ドストエフスキー論全集」は、何時の間にか六巻が刊行されている。清水正ドストエフスキー論全集』は、今や、他のドストエフスキー論やドストエフスキー研究を、質においても量においても、圧倒している。誰も無視できなくなっている。その具体的な例が、「週刊読書人」の鼎談である。文学や思想の主導権を大手商業出版社が握っていた時代は終わろうとしている。