日芸図書館では江古田図書館前と館内の二箇所で「隈どりとその魅力」のテーマで展示

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現在、日芸図書館では江古田図書館前と館内の二箇所で「隈どりとその魅力」のテーマで展示している。今回の企画にあたっては演劇学科の小林直弥准教授をはじめとして演劇学科の先生方の協力を仰ぐことができた。ぜひ、ご覧になってください。


隈取りとその魅力

小林直弥(演劇学科准教授)

  
江戸初期の歌舞伎は、そもそも「傾奇(かぶき)」と書くのがその語源的な原型です。世間一般の常識とは凡そかけ離れた常識外れの言わば「傾いた」言動に奇抜な扮装。目抜き通りを異形で、しかも華美な風体で闊歩する者達のことを巷では口々に奇異の眼差しで「傾奇者」と呼んでいました。が、その精神は、当時の流行を巧みに採り入れた江戸歌舞伎の豪快で様式化された美意識の中でもさらに洗練されていきました。
 江戸時代、とりわけ元禄以降の歌舞伎は大きく分けて、上方(かみがた)、現在の京阪地方と、江戸、現在の東京とでは、演技法や演出的な趣向に大きな違いがありました。例えば、上方は、和事(わごと)という実生活の中に存在する恋愛や情痴をテーマにしたものが中心で、坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)という役者が、主人公が別人に身をやつすといった趣向が主体の所謂「やつし」の芸で人気を博していました。一方、江戸では荒事(あらごと)といって、まるでスーパーマンのような勇士や強面の鬼神の類が登場する勇壮な演出が好まれ、それらは江戸を代表する役者、初代市川団十郎(1660-1704)によって創始されたと伝えられています。一説には延宝元年(1673)団十郎が、十四才の初舞台『四天王稚立(してんのうおさなだち)』で、昔話で有名な金太郎が成長した姿、坂田公時(さかたきんとき)に扮した際、紅と墨で隈取り、斧をさげ猟人を相手に立ち廻りを演じた劇中「大江山の場」こそ、荒事のはじまりとも言われていますが、二十二才説や貞享二年(1685)団十郎二十六才の舞台『金平六条通ひ』で坂田公時を演じたのが始まりとする説などもあり、実ははっきりとしたことは解っていません。しかし、兎に角も江戸歌舞伎の代表的な趣向、荒事の芸になくてはならなかったのが、奇抜な衣裳や誇張された扮装、特に隈取りという特異な化粧法だったことは間違いないでしょう。
 
そもそも隈取りという言葉は、日本画などに由来し、墨で色をぼかして、遠近・高低や凹凸などを表現する際に用いる手法、「くまどる」がその語源的な意味として存在していて、色彩を使ってある部分を際立たせる手法を指す言葉でした。それを舞台化粧に用いたのが、江戸歌舞伎における様式的に誇張された独自の化粧法、隈取りだったのです。特に初代市川団十郎が考案した荒事の芸には、この隈取りが大いにその効果を発揮したことは、現代まで伝承されている歌舞伎における荒事の演目を見ても明らかではないでしょうか。また、あまりにも非現実的で写実性を逸脱した隈取りの化粧は、超人的な勇士や鬼神の類を表現するのには、実に効果的であることも明らかで、荒事自体も豪快な節回しが特徴であった古浄瑠璃金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)」の影響を受け、隈取りもそれに合わせて誕生したものと考えられます。尚、こうした隈取りの趣向は、神仏の彫刻における顔や身体の筋を参考にしたとも伝えられ、他方、先行芸能である室町時代以来の能楽面がその工夫発明に貢献したとも言われています。さらには、中国の伝統舞台芸術である京劇における化粧法「瞼譜(れんぷ)」も同じく仮面劇に由来し、顔に線等を描くことから、歌舞伎の隈取りとの共通点も多く、時代的にも京劇が、隈取りが発生する江戸時代、それも元禄期という同時代の清朝時代(1644-1912)に誕生したということからも、歌舞伎における隈取りとの強い関係性が一部で指摘されていて、これからのアジアにおける舞台芸術の文化圏を研究する上でも大変興味深いものでもあります。
 
さて、こんにちまで伝承されている隈取りの型の大半は、初代市川団十郎、また二代目の団十郎のものとされていますが、同時代の役者、中村伝九郎や山中平九郎のものも伝承されていると考えられます。その化粧法とは、まず基本的に顔に地として白粉(おしろい)を塗り、そこへ紅やその他の油性顔料で片ぼかしの線を入れていくのが基本で、市川家を中心に代々様々なバリエーションが増えていきました。とりわけ七世団十郎は伝統を踏まえ、新しい隈取りの創造にも積極的だったと言われ、明治時代に入ると、九代目団十郎が優れた見識によって歴代伝承され工夫されてきた隈取りの手法を体系化し、同時代の役者五代目尾上菊五郎団十郎と同じく現代の隈取りの技法の基礎を築き上げました。具体的には、色彩では大きく分けて、紅隈系[凡そ三役十二種]と藍隈系[凡そ三役九種]に分かれ、紅隈系は主に、悪意の薄い善意を意味する陽性の役柄に用いられ、藍隈系は、他に黛赭(たいしゃ)や墨を用い、主に悪意や悪表情を様式化した陰性の役に用いられます。役柄的には「荒事立役」「半道化役」「善意の化身事」などは主に紅隈を用い、所謂「実悪」や「怨霊」「鬼畜」などの役には、藍隈・黛赭隈・墨隈を用います。特に紅隈系では、初代団十郎が創始し、二代目団十郎が牡丹の花からヒントを得て隈にぼかしの技法を用いることを思いついたという「筋隈(すじぐま)」が有名で、一方、藍隈には、「般若隈(はんにゃくま)」などのように、江戸時代に山中平九郎の工夫により伝承されてきたものを五世尾上菊五郎によって完成させられたものもあります。いずれにせよ、歌舞伎を通じ創造され、伝承されてきた隈取りの技法は、日本の歴史や文化の面だけではなく、舞台芸術をはじめ様々な芸術創造における私たち日本人の財産とも言える貴重な宝なのです。