「謎の女」

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謎の女

清水正


※     ※     ※

 その女とわたしがはじめて会ったのは、一九八二年七月二十六日であった。この日、わたしはKと二人で高知についた。彼の息子の墓参りのためである。墓参りをすませて、わたしとKは高知在住の詩人、O、H氏と一緒に酒を飲むことになった。Hは途中三軒目か四軒目で帰られたが、残った三人はさらにN氏の店に足を運んだ。その店で合流するすることになった二人の学生を含めて、計五人で漸く「最後の店」に着いたのは夜の十一時頃であったろうか。

 Kは久しぶりに再会したO、N両氏と、酒の酔いも手伝ってか、珍しく饒舌なやりとりをしていた。わたしの方はと言えば、彼らの話にはまったく立ち入らず、もっぱら二人の学生相手に酒を飲んでいた。Kが「帰る」と言って座を立ったのが十二時近くで、彼は一人で店を出た。

 居残ったわたしは、相変わらず二人の学生を相手に話をしていたのだが……と、前方三、四メートルほど離れたところから、わたしの方を凝っと見つめている女の〈眼差し〉があった。わたしは、その妖しい、強烈な力に魅き寄せられて、女の方へ近づいていった。彼女は色紙大のおおきさで店の壁に飾られていた。彼女の両側には、まるで彼女を護衛でもするかのように人形が吊るされていた。

 わたしはもう、彼女の〈眼差し〉から目をはなすことができなかった。わたしは近づいたり、遠のいたり、角度を変えたりしながら、彼女の両眼を凝視しつづけた。この眼は、一度、徹底した絶望を味わった人間の眼だ。一度、生命を賭けて愛した男から裏切られた女の眼だ。すべての男を蔑み、嘲笑する、この高慢な顔つきの女の眼は、それでも必死に哀しみをこらえて、救いを求めている……。

 彼女の顔を見た瞬間、わたしはアンナ・カレーニナと『白痴』の女主人公ナスターシャ・フィリッポヴナを想い起こしていた。わたしは彼女の両目を凝視しながら、ムイシュキンの無垢と純粋な愛をもってしても、彼女の湛えている哀しみに応えることはできないのではないか、と思った。否、これは嘘だ。わたしは彼女を眼前にして、ムイシュキンを演じただけだ。かぎりなく自分の心を、ムイシュキンの純粋と無垢に近づけることによって、彼女の苦悩を解消しようとしたのだ。

 三十分も過ぎただろうか。……彼女の顔が徐々に、どす黒く変色し、顔全体に何本ものひびが入ってきた、あたかも次の一瞬に彼女の存在全体が瓦解するのようであった……。しかし、何分たっても彼女の顔は瓦解しなかった。逆に、彼女の顔は哀しみをたたえたまま、元の高慢なそれに戻っていた。わたしと彼女の出会いのドラマは終わった。彼女は一時、わたしに自分の秘密をかいま見せ、その秘密に持ちこたえられないわたし自身を看破した。元の顔に戻った彼女は、それでも依然として、挑発的な妖しい眼光を発しつづけていた。
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 アンナ・カレーニナは夫カレーニンを裏切り、若いヴロンスキーとの恋に落ちた。彼女はカレーニンとの何不自由のない生活よりは、鉄道自殺を選んだ女である。ナスターシャ・フィリッポヴナは、自分を心底理解し、愛してくれたムイシュキンとの結婚よりは、ラゴージンに殺されることを選んだ女である。わたしが出会ったその女は、自分のこの哀しみと絶望が分かってもらえるならば、いつでもこの世から消えていく、そういっている……分かるということ……これはいつも恐ろしいことだ。もしムイシュキンがナスターシャの“美”を理解できなければ、彼女はラゴージンによって殺されるという“自殺”を選びはしなかったはずである。ムイシュキンの理解(愛)が、ナスターシャを自殺に追い込み、そして自分自身を“白痴”という発狂に追い込むのである。

 彼女の前方三メートルのカウンターに、店のマスターが立っていた。彼と彼女は一定の距離を置き、こうして見つめ合うようになってから何年過ぎたのであろう。
 「あの絵、いいですね。ぼくにくれませんか」
 マスターは黙って、首を横に振る。
 「あの絵、だれが描いたか知っていますか」
 マスターは黙って、首を横に振る。
 マスターが彼女を譲ってくれないのは、彼女の飾り方ひとつ見てもすでに明らかだ。画家の名か、絵のタイトルでも分かればと思ったが、それもだめだった。ただ、彼女がN氏から譲られたものであるということだけは聞き出せた。

 翌、二十七日の夜、わたしはKと二人でN氏の店に出かけた。わたしは、N氏にどこで彼女を手に入れたかを訊ねた。彼の話によれば、数年前、東京で泊まったホテルの部屋に彼女は飾られていたのだそうだ。彼は無断で彼女を高知に連れ帰った。しばらくは自分の店に飾ってあったのを、「最後の店」のマスターに譲りわたしたということであった。しかし、N氏もまた彼女の名も生みの親も知らなかった。わたしは彼女の顔だけを脳裏に刻んで東京に帰って来た。

 あれだけ強烈な印象を残した彼女が無名であるはずはない。探せば必ず彼女に身元がわかる。その確信のもとに、わたしは何人かの絵に詳しい友人に訊ねたり、それらしい画集にあたったりしたが、杳として、彼女の正体をつきとめることはできなかった。

※     ※     ※

 一九八三年七月二十九日、わたしとKは合計十七年のツアーでソビエトに向かった。わたしの今度の旅の目的はドストエフスキーの墓参りであった。十七歳の時、『地下生活者の手記』を読んでから十七年、ドストエフスキーについて書きはじめてから十五年がたっていた。“墓参り”をすることで、わたしはドストエフスキーとの関係を、もう一度ゼロの地点に立ち戻って考えてみたかった。わたしにとってドストエフスキーという存在は何なのか、そしてこれからどのような存在としてありつづけるのか……。わたしは彼との早急な決着を望んでいた。

 念願のレニングラートに着いたのは七月三十日。翌日、わたしとKは団体から離れて単独行動することを許された。わたしたちはエルミタージュ美術館前の広場からネフスキー大踊りに出て、地下鉄に乗った。初めてソビエトを訪れた二人にしては、順調に目的の地、アレクサンドル・ネフスキー修道院に着くことができた。

 入場券を買って左手の墓地の入口をくぐると、そのすぐ右側にドストエフスキーの墓がある。すでに写真で知っているとはいえ、実際に彼の墓前に立ったときの心持ちは複雑であった。墓の周りを囲んだ鉄柵に花束が二、三供えられ、墓前にはベゴニアの花が咲いていた。

 わたしはただ黙って、ドストエフスキーの黒光りする胸像を眺めていた。わたしは完全に“墓参り”することを忘れていた。否、忘れたふりをした。ドストエフスキーは生きていた。“墓参り”などという、不遜な心持ちは、異国のさわやかな夏の風に吹かれてどこかへ飛んでいってしまった。『墓参りに来て、返り討ちにあったようなものだな……』わたしはくすぐったいような、照れくさいような気持を隠して、ドストエフスキーの墓前から離れた。

 レニングラートで二泊して、わたしたち一行がモスクワに着いたのは八月一日であった。わたしとKは、疲れも手伝って、ベリョースカ(売店)を覗く気もおこらなかった。しかし、待ち時間が思ったより長く、せっかく来たのだからいちおう覗いてみようか、ということになり、二人してベリョースカの方へ向かって歩き出した。
 ……と、歩き出したわたしの右前方のベリョースカの片隅から、いつか感じたことのある“眼差し”が透明ガラス越しにわたしの眼を射た。「いた!」ーーわたしは叫ぶと同時にベリョースカに駆け込んでいた。一年前、高知の居酒屋で会って以来、探しつづけた“彼女”と再会できた時の感動を何と表現したらよいだろう。

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 “彼女”は、モスクワのトレチャコフ美術館所蔵の名画三十二枚を一組とした絵葉書の一枚として、その表紙カバーを飾っていたのである。インツーリストのガイド嬢は、わたしの異常な興奮をよそに、実にあっさりと「ア、コレ、タイヘンユーメーナ、エデス。タシカ、ニホンニモ、イッテルハズデス」と教えてくれた。

 葉書の裏には、作者がイー・エヌ・クラムスコイ(一八三七〜一八八七)、作品の題名が『ニェイズヴェースナヤ』(一八八三)と明記されていた。わたしは驚いた。奇妙な感覚に襲われた。“彼女”が制作されたのは一八八三年、わたしが“彼女”と再会したのが一九八三年、つまりわたしはかっきり百年ぶりに“彼女”と再会し、“彼女”の言わば戸籍上の正体を知ることになったのである。しかも、“彼女”の名はニェイズヴェースナヤ(Неизвестная)、つまり“未知の女”であり“謎の女”である(日本では“忘れえぬ女”と訳されている)。“彼女”は百年の間、誰にもその“謎”を解かれぬまま、“彼女”を見る者を見つめつづけてきたのだ。

※     ※     ※

 日本に帰ってきてから、わたしは“彼女”の顔を毎日眺めながら、“彼女”と作者クラムスコイのことを考えていた。二、三週間たったある日、わたしはぐうぜんある人から、“彼女”が『ロシアの美術ーートレチャコフ美術館物語』(ベズルコーワ著、本田純一訳、昭和51年8月、新潮社)の箱絵で紹介されていることを教えられた。早速、この本を見つけて読んでみると、“彼女”は注釈で次のように書かれていた。

  クラムスコイ後期の傑作“忘れえぬ女”には実在のモデルがある。しかし、作者のクラムスコイをはじめ周辺の人々はなぜか沈黙を守った。一説によれば皇帝アレクサンドル3世の隠し子とか、ペテルスブルグの富豪の令嬢とか、或いはアンナ・カレーニナのモデルになった人とかいわれ、謎めいた伝説が一層その神秘性を深めている。馬車の背景はペテルスブルグ(現在のレニングラード)のネフスキー大通りである。

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 ベズルコーワの本を読んで、わたしが奇妙なぐうぜんの一致に驚いたのは、“彼女”の作者クラムスコイとトルストイの関係である。実は、わたしは一九八二年の四月から、勤務先の大学のゼミではじめて『アンナ・カレーニナ』をとりあげ、その年の七月(墓参りの後)に高知で“彼女”と出会い、一年後(これまた墓参りの後)モスクワで“彼女”と再会したのであるが、ベズルコーワによれば、クラムスコイが初めてヤースナヤ・ポリャーナを訪れたのが一八七三年、つまりトルストイが『アンナ・カレーニナ』(一八七三年〜一八七七年)の執筆に着手した年だったのである。ベズルコーワはーー「クラムスコイは夢中で制作に取組んだが、トルストイは気楽に思索した。モデルになることに同意したトルストイは、貴重な時間の一部を犠牲にしているのである。当時、彼の思考を占めているものは『アンナ・カレーニナ』であった」と記している。

 尤も、“彼女”のモデルが「皇帝の隠し子」だろうと、「富豪の令嬢」だろうと、「アンナ・カレーニナのモデルになった人」であろうと、そんなことは重要ではない。問題は、“彼女”が一八八三年から今日まで、ずっと“実在の人”であるということである。わたしが“彼女”と最初に出会った時に直感した、“彼女”の悲劇的な哀しさ、それはすぐにアンナ・カレーニナとナスターシャ・フィリッポヴナを想起させたように、それは見る者と見られる者相互の自己破綻と引換えでなければ、解決しようのない哀しさなのである。

※     ※     ※

 クラムスコイは、“彼女”を描き終えた四年後の一八八七年、五十歳の短い生涯を閉じる。彼は今、ドストエフスキーと同じ、アレクサンドル・ネフスキー修道院の芸術家墓地に眠っている。
                         (一九八五年三月十四日 記)

「謎の女」(Неизвесная)とナスターシャ・フィリッポヴナ、アンナ・カレーニナの共通性を感じてもらうために、『白痴』と『アンナ・カレーニナ』から二人の像を紹介しておく。


ナスターシャ・フィリッポヴナ像
「この二つの瞳を眺めているうちに、何かしら奇怪な考えの浮ぶ瞬間があった。まるでこの瞳の中に底知れぬ神秘的な闇が予感されたようなぐあいであった。その眼差しはまるで謎でもかけるように見つめるのだった。」(トーツキイ)
「彼はその顔の中に秘められていて、さきほど自分の心を打ったあるものの謎をなんとしても解きたいような気がした。さきほどの印象はあれからずっと彼の心を去らなかったので、彼はいま急いでふたたび何ものかを確かめようとしているみたいであった。その美しさのためばかりでなく、さらに何かしらあるもののために世の常のものとも思われぬその顔は、前よりいっそう力づよく彼の感動を誘った。まるで量り知れぬ矜持と、ほとんど憎悪に近い侮辱の色が、その顔に現れているように思われた。と同時に、なんとなく人を信じやすいような、おどろくほど飾りけのない素朴さといったものがあった。この二つのもののコントラストは、この面影を見る人の胸に一種の憐れみの情とさえいえるものを呼びおこすように思われた。このまばゆいばかりの美しさは、見るに堪えがたいようにさえ感じられる。(ムイシュキン)
    ーードストエフスキー『白痴』(木村浩訳)よりーー

アンナ・カレーニナ像
「レーヴィンは明るい照明の中に、額縁から浮き出した肖像画をながめていたが、そこから目をはなすことができなかった。彼は自分がどこにいるのかさえ忘れて、人の話していることも耳にさえ入らず、驚嘆すべき肖像画を一心に見まもっていた。それは画ではなく、生ける美女であった。黒い髪はふさふさと渦巻いて、肩も腕もあらわに、優しい生毛におおわれた唇には、物思わしげな、なかばほほえむような翳を浮べて、勝ち誇ったように、しかも優しく彼をながめている。その目つきが彼を困惑させた。彼女が生きた女でないのは、ただ生きた女には不可能なくらい美しかったからである。」
    ーートルストイ『アンナ・カレーニナ』(米川正夫訳)よりーー


「Д文学通信」(ドストエフスキー&宮沢賢治:研究情報ミニコミ誌)1042号 2002年10月29日発行。から転載。
 あとがきに《わたしがこのエッセイを書いたのは一九八五年三月である。それから実に十七年の歳月が過ぎた。思いの深いエッセイであるだけに、またいろいろな事情があって発表を控えてきた。ここにきてなぜ、とつぜん発表する気になったかと言うと、先日、行きつけの小料理屋「水郷」で、馴染みの客の一人である遠藤氏の口からとつぜん「忘れえぬ女」の話が出たことによる。飲み屋でまさかクラムスコイの話が出ようとは思いもしなかったが、予期せぬことだっただけに話は盛り上がった。そしてむかし書いたはずのエッセイを思い出し、家に帰って必死に原稿を捜し出した。十七年前の原稿が発見されたので、これも何かの縁と思い、発表することにした。》とある。
 一昨日、渋谷の東急本店横の地下一階「Bunkamura」で「レーピン展」を観たとき、このクラムスコイの「謎の女」に関して書いた原稿を思い出した。が、どこに発表したのかさだかな記憶がない。案内していただいた廣川暁生さんにブログに載せますのでぜひ読んでください、と言った手前、昨日からさがし続けた。まずブログ「清水正研究会」に発表している可能性を考えて検索したが、出てこない。それで今日は朝から「Д文学通信」のバックナンバーを調べたが、家にまとめてあった中にはなく、ほとんどあきらめかけたが、それでももう一度さがそう、ということでバソコンが置いてある下の書類や本などが雑然と積み上げられている場所から二冊のファイルを取り出してみると、その中の一冊に「謎の女」が掲載された「Д文学通信」1042号が出てきた。
 近頃、整理能力がない上に、記憶がぼけはじめているので、昔書いた原稿を探し出すのにたいへん手間取る。それにわたしの原稿はワープロで入力してあるので、発見できてもそれを変換できない場合もあり、どうしたもんかと思い悩む。宮沢賢治の童話に関しても書きっぱなしでまだ本にしていないものがある。十年間、賢治童話に関して批評しつづけたが、宮沢賢治に関する本を単著二十冊、編著十冊、計三十冊ほど出して文字通り飽きてしまった。執筆するのはいいが、それを本にして刊行するにはべつのエネルギーを必要とする。
 さて、「謎の女」を書いたのが一九八五年三月であるから、今回の発表までに二十七年がたったことになる。「Д文学通信」に発表してからも十年がたっている。時間のたつのが余りにも速い。