<心の弟子>益田勇気くんと一年ぶりに

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http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp
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http://www.youtube.com/user/kyotozoukei?feature=watch


昨日十七日は日暮里のサイゼリアで<心の弟子>益田勇気くんと一年ぶりに会って、ドストエフスキーの話をしてきた。益田くんは<女>をテーマに小説を書いている。来年の二月に「江古田文学」はドストエフスキー特集を企画しているので原稿も依頼した。前に『清水正・ドストエフスキー論全集第五巻』の栞に発表した増田くんの原稿を紹介しておく。
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我が心の師
益田勇気


清水正教授の授業
私は清水正教授の熱狂的なファンの一人である。大学一年の時分に氏の担当するマンガ論で、つげ義春の『チーコ』論に触れたとき、全身に鳥肌が立ったのを覚えている。以来、私は授業や課題で購入しなければいけない著書はもちろん、個人的にも氏の著書を購入するようになった。
最近は清水正全集の第二巻を購入し、昨年の暮れに読み終えた。これは氏が十九歳のときに書いたものということで、その完成度の高さに驚嘆してしまった。が、最近の作品とは明らかに作風が異なっていた。氏の批評というのは、非常に高度なことを言っているのだが、どんな阿呆にもわかるようにしてあるというのが、私の持つ印象の一つであるが、この壮大な処女作にはそういった性質はない。それがよいか悪いかは別にして、現在の批評のようないい意味での大衆性、つまり裾野が広がったという事実に対して、私は大学での講義、授業が多大な影響を与えているのではないかと思うのである。
現在の日本の知的文化のレベルは著しく衰退していて、中原中也を知らぬ大学生がいるくらいである。何も中也に限らず、文学者自体に親しみがなく、また思考能力も著しく低い。簡単にいえば阿呆なのである。
日大芸術学部もその例外ではなく、私を含め、殆どの学生が阿呆である。その阿呆たちにむかって、高度な知を持つものしかわからないようなことを話せば、阿呆は自分たちの無知を棚に上げ「つまらない」といって、授業に耳を傾けなくなる。
そういう状況下においては、高度な知だけでなく《おもしろさ》が求められる。氏が自身でも、授業は漫談でいい、と言っているように、《おもしろさ》なしでは、伝わるものも伝わらない。そしてその中にエッセンスとして、或いは、根底に高度な思想、知力を含ませる事が、現在の大学でのよい授業なのではないか。
氏は恐らくそういうことを常に心掛けているように思われる。氏の授業は学生たちの笑い声が耐えない。更に、氏は対話形式というか、積極的に授業に学生を参加させているため、学生の興味は離れない。恐らく、頻繁にいじられたり、よく話題をふられる学生はそれを嬉しく思っているだろうし、そうでない学生たちはそのやりとりを楽しみに思っているだろう。
そういった工夫や、意識が、批評活動にも少なからず影響しているのではないか。無論、批評は氏の本職であり、ドストエフスキーや芸術に対する類稀な熱意が凝縮されているが、それでも、読む者のことを考えているとおもう。全集第二巻のあとがきにも書いてあったように、処女作を執筆している時分は、改行をするのも嫌だったというが、現在では小見出しなどもついている。そういった表記上の問題でも、わかりやすくなっている。先も記したとおり、どちらの方が優れているかは、私には分かりかねる。処女作は決してわかりやすくはないが、圧倒的なドストエフスキーへの傾倒、狂気じみた熱意は、文学の最もコアな部分の表れであるかもしれない。思索という文学の根底の結晶である。
しかし、批評というものは、阿呆には到底わからないことをわからせる、といった性質があることも否定できない。小林秀雄の『考えるヒント』などは、当時大衆向けに出版され、爆発的な売れ行きをみせたらしい。それでいて、高度な知識人たちにも支持されているという名著である。これによって、大衆の文学や思索に対する興味はぐんと高まったはずで、批評の役割のひとつを達成したといえるだろう。そういうことばかり狙っていては内容が簡素になるが、批評家に力があれば問題ない。小林秀雄や清水正といった力のある批評家は、大衆への批評をも求められているのだと思う。
後期の授業で印象に残ったこととして『赤ずきんちゃんは狼だった』を挙げたいと思う。これは私がよくジュンク堂などの大規模な本屋でコンピューターを使い、氏の著書を検索するときに、いつも気になっていたものである。しかし、いつも在庫がなく、入手する事ができなかったため、密かに授業で取り上げていただけないか、と思っていた。
氏はこの授業の冒頭で、おもむろに、
「おばあちゃんいるね、森の中の。これは神です」
と言い放った。
私は笑ってしまった。言い方がおもしろかったというのもあるが、常識的に考えて、あまりに突拍子もない発言だったからである。私以外にも幾人の学生が笑っていた。
しかし、解説を聞いているとどうも笑ってもいられないのである。その場では、神などというのは、頭がおかしいというか、あまりにこじつけだと思われていたはずが、いや、おばあちゃんは神だ、という確信のようなものに変わってゆくのである。それはあまりにつじつまが合っていて、更につじつま以上の物語における説得力があるのである。つまり、内容の根底は変わっていないのに、氏の言う共犯説は、ある種リアリティをもって、物語をよみがえらせるのである。その内容は私が簡略してここに記すべきではないと思われるので、割愛するが、まさに氏が常に言っている、解体と再構築であった。
清水正教授の授業の魅力はこの卓越した批評力、さらにそれを持ち合わせているにもかかわらず、独りよがりになっていないことだと思う。これは教える側の人間としては当然のことのように思われがちだが、大学の講義というものは得てして教授の独りよがりに溢れたものである事が多い。老耄して声も小さく、何を言っているのか全く解からない教授もいる。また、高度な知を得ている者や、その道に卓越した者は、阿呆や素人に合わせる事は、腹立たしいことというか、面倒くさいことと思うはずである。
例えば、電気屋で全くパソコンのわからない客が、インターネットの使い方を聞いているときに、店員が「ここをクリックしますと:」などと親切に教えたそばから、「クリックってなんですか」などと返したら、当然腹がたつというか、面倒くさいと思うことはむしろ必然である。しかし、どちらも悪くない。
似たような事が大学の講義でもいえるのだ。氏はそれを心得ているのだろう。故に一年間さまざまな学生たちが興味深げに授業に出席する。清水正教授の授業は、氏の批評のまなざしが、悪女アリョーナ・イワーノヴナにも優しい光を当てるように、現代の阿呆たちの教室を、優しく照らしてくれている。

             
一級の狂気

私には随分と前から、『罪と罰』に出てくる登場人物の中で、こいつは何者なのだろう、と思う人物がいた。一般的には、ラスコーリニコフやソーニャなどと比べると比重が置かれていないように思われる。言ってしまえば、脇役のような人物で、しかも若い娘に手を出すような男であるから、どうしようもない脇役である。
どうしようもない男であればマルメラードフがいるし、どうにも陰に隠れがちなのだが、初めて『罪と罰』を読んだときから、なにか印象的であった。奇妙な存在感を感じたのである。それから幾度か読み返したが、その度に、どういうわけか私の心の隅にひっかかってきた。スヴィドリガイロフという男である。
けれど、こいつは一体何者なのだと思っても、彼について深く考えたことはなかった。ぼんやりと考えてみることはあったが、どうにも彼は形象化しにくい。私はわだかまりを抱きながらも、心象が描かれることの少ない彼がどういった人物であるかを、把握できないまま放置していた。そういった意味で、私はドストエフスキーのいい読者ではないかもしれない。
そんな私のようなものでも、その謎に触れることのできる書物がある。清水正氏の『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』である。これは氏が三十台の頃に、三年もの歳月をかけ、完成させたものであり、千枚を超える大作である。昭和の末期に出生した私はまだ生まれておらず、私がこの書を手に取ることができたのは、氏の全集『清水正・ドストエフスキー論全集』の第三巻を購入していたからである。
私は氏の著書の愛読者であり、課題に必要かどうかに関わらず購入しているから、自宅の本棚に保管されている氏の著書は、もう二十くらいには達している。一人の作者でこれだけ多くの本を購入することは、私にとって珍しいことである。それが評論家ともなると、氏以外にはいないということになる。
とにかく、私は氏の全集の三巻を読むことで、長年の(といっても数年にすぎないが)心のわだかまりを解消することができたのである。
氏の見解はこうである。
「それは死んでしまった男。だから彼は幽霊なんですよ。」
なんとも突拍子もない説である。一見すると、奇をてらっているのかと訝ってしまう。けれど、その論証方法は極めて現実的で、描かれている事実を丹念に積み重ねてゆくものだ。そうして導き出された見解であるから、真に迫るものであり、また読者の心を惹きつけるのである。
スヴィドリガイロフが幽霊だとすると、とたんに色づいてくるシーンがある。一つは、彼がラスコーリニコフに幽霊の存在について語るシーンである。彼が幽霊の存在証明をしようとするということは、自己の存在を必死に証明しようとしているということであるが、ラスコーリニコフは、それを目の当たりにしているというのに、信じることができない。そうなると、ラスコーリニコフが滑稽にすら見えてくるが、我々人間は彼のようになってしまうことがままある。本当のことを言っているのに、伝わらない。それは、現実の世界にいる私たちが、観念の世界、つまり本当のことよりも、現実の状況、日常における常識を優先させてしまうからである。
たとえば、私が社長であるとする。私の企業はめきめきと頭角をあらわし、誰もが知る大企業へと成長した。しかし、利益のみを追求した結果、私には敵が多くなった。私が若いということもあり、なんとか奴を潰してやりたいと思ったのだろう。
そういった場合、私をはめるのは簡単である。私の車の中に少量の覚醒剤を隠しておき、匿名で密告すればよい。そうなると私は無実を証明するのが大変難しい。実際にそういう事件があったようであるから恐ろしい。
何も覚醒剤を用意せずとも、美女を金で抱え込み、ターゲットと関係を持たせた後に、レイプをされたなどといってもいい。痴漢でも、のぞきでもなんでもいい。むしろ性的な者のほうが、男である私は不利になる。つまり、本当には起きていないことでも、ターゲットが不利になる状況さえ作ればよいということになる。
警察、或いは検察はその状況から物事を判断する。状況から判断するということは、その状況においてもっとも現実的な過去を見つけるということで、本当のこととは関係がない。あくまで〈本当らしい〉ことを見つけるという姿勢である。
私たちは本当のことと、本当らしいことを混同してしまうことがある。そうして、本当らしいことを本当のことだと思ってしまう。
本当のことを知るには、尋常の精神では不可能である。尋常に生きる場合、どうしても常識にたよることになる。常識というのは、そういった領域から我々を遠ざけてしまう性質がある。
突然肩を叩いた男が「私は神だ」という。誰が信じるだろうか。それが夢の中だとか、夜中に枕元へそっと降り立ったなら、なんとなく信憑性もあり、クリスチャンならあるいは信じるかもしれない。けれど、真夏の暑い日に営業回りをしていて、しかもなかなか契約が取れない際に、汚らしい格好の奴が
「俺は神だ」
なんていってきたら、どう考えても、ああ、こいつは頭がおかしいんだ、と思うのが尋常であり、若干腹もたち、ぶん殴りたい気持ちに駆られる。けれど、公の場で人を殴りつけることはできないし、こういう阿呆は何をするか分からない。結局、無視を決め込むしかない。これが常識的な判断である。
ともすると、クリスチャンなら、すべての者を許す精神で、はじめはにこやかに接しているかもしれない。しかし、いくら熱心なクリスチャンといえど、その後しつこく「お前のことをずっと見ていた」だとか「愛とはなにかね」なんていいだし、勤め先にまでついてきたら、さすがのクリスチャンも激昂するのではないか。
いきなり街中で「俺は神だ」といってきた男を心の底から神だと思える輩は、恐らくキチガイで、まともな社会生活を営めない。けれど、その男が本当に神だった場合、それを知ることができるのはキチガイだけなのである。
自分のアパートでドーニャに求愛するスヴィドリガイロフを、清水氏は演じる存在だとした。私はそれに賛成である。演じるということは狂気につながる。演じることは、尋常の私ではないものになるということである。そうしてそれが日常化、或いは特化されると思い込みになる。過度な思い込みは、当然だが、常識からそれて行き、結果狂気を生みことになるのである。
ある特殊な性的世界をとりあげていた雑誌で、ペニスの皮をメスで持って細く切り裂いてゆき、そうすることでどんどん勃起してゆく男が紹介されていた。彼はいわゆるマゾであるが、常軌を逸したマゾである。彼はそれだけでなく、玉の袋を切り裂かれ、直に玉を握られながら、歓喜の声を上げ射精したという。
私は疑問に思った。果たして、そうすることで本当に身体が快楽を感じるのかと。恐らく、彼もはじめからそうであったはずはなく、徐々にマゾの階段を昇ったはずで、駆け出しのときに性器を切り裂かれたら、痛苦しか感じていなかっただろう。初期の段階では、侮辱されたら快感だ、という思い込みのようなもので快楽を得ていたはずであり、肉体的な痛苦が即、性的快楽につながっていたとは考えにくい。
しかし、彼の場合、その思い込みが確かなものになってゆく。つまり、彼は狂気のステージへと上り詰めたのだ。そうなったとき、彼は本当の快楽を感じているに違いない。常軌のものには達し得ない、高みにいるのである。
演じるということはそういった危険性を孕んでおり、そういった芸術である。土方巽や大野一雄は、常軌を逸しているようにみえる。実際、大野は「クレイジーでなければなりません」と白塗りの顔に、気味の悪いクレイジーな笑みを浮かべ、穏やかに言っていたようである。
あちら側の世界、本当の世界を知るスヴィドリガイロフが現世で存在を保とうとしたら、狂気に身を委ねるしかない。もともとその世界の住人なのだから、必然的にそうなってしまう。彼にとっては、演じることこそが、存在するということなのである。
その意味でドゥーニャはクレイジーになりきれない。つまり、彼女は常軌を逸脱することができず、いい子に生きるしかない。スヴィドリガイロフと同じ次元には行くことが出来ないのである。
演劇に限らず、芸術とはそういった本当のことを求る行為であり、そういった意味では狂気を孕んでいる。尋常の粋で胡坐をかき、クレイジーを笑っているようでは、芸術にはならない。
清水氏は「文学は戦いだ」という。氏もまた相当なクレイジーの一人である。十七のときに覚えたドストエフスキーに対する感動をいまだに持ちつつけ、とうとう四十年以上もドストエフスキーについての研究を続けてしまった。ドストエフスキーに心を打たれても、そこまでの持続性を殆どのものは持てない。阿呆にすらみえるかもしれない。しかし、それこそが氏が一級の芸術家であるということを、証明している。