「ドラえもん」講座の後の飲み会

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ドラえもん」講座の後の飲み会は池袋の「四十八漁場」。わたしを含めて十四人。北九州から飛行機で会場にかけつけたのは川瀬禎之さん。山崎行太郎さんのブログで「世界文学の中の『ドラえもん』」の講座を知ってわざわざ来られたとのこと。この日の受講生は十九人。顔なじみの仲間や教え子が集まってくれた。初対面のひとは二人。そのうちの一人が川瀬さん。飲み会ではあまり話せなかったが、漫画の実存性とはどういうことなのか知りたかったということであった。

川瀬さんと。

左から猫蔵、荒岡、野本、穴澤、下原の各氏。

左から菅原、山下、リンダの各氏。

左から清水、下原康子、小島の各氏。

左から野本、穴澤、下原の各氏。

張、山崎、小島、穴澤の各氏。

山下、リンダの各氏。




第一回目でとりあげた内容の一部を次に紹介しておきます。これは江古田文学に発表されたものです。
     


  
世界文学の中の『ドラえもん

ドラえもん』第一巻第一話「未来の国からはるばると」を読む


清水正




 まず〈ドラえもん〉という名前から見ていこう。〈ドラ〉は〈トラ〉(虎)、〈虎猫〉〈野良猫〉〈どら猫〉などを連想する。〈えもん〉は〈衛門〉で、日本の伝統的な名前を継承している。
 〈ドラえもん〉の姿形の基本は丸(球体)である。顔も丸いし体も丸い。マンガの世界で見た目が可愛いと思うのは二頭身から三頭身。〈ドラえもん〉は二頭身で顔と身体は同じ大きさで描かれている。
 〈ドラえもん〉の顔や姿はひとに不安や恐怖を与えない。ひとの心を和ませ穏やかにさせる。丸は平和、幸福、調和、安心などを意味する。まさに〈ドラえもん〉はそれらをもたらすために二十二世紀の未来から二十世紀の〈現代〉へとやってきた、大げさにいえば時空を越えて出現した現代版救世主ということになる。
 第一巻第一話に限って〈ドラえもん〉を見ていくと、かれは性別、年齢、生物学的種を超越した存在に思える。あるいはすべてを兼ね備えた存在とも言える。
 カレはいったい何ものなのか。改めて考えるに値する存在である。

 タイトル頁に関してはとりあえず不問に付して、まずは1頁1コマ目を見てみよう。のび太が部屋の中央に仰向けに寝そべっておモチをぱくついている。傍らにはポット、湯飲み茶碗、モチをのせた丸い皿、そして読みかけのマンガ本「オバQ」が伏せて置いてある。足下には石油ストーブがある。画面左上には閉められた窓、結ばれたカーテン、勉強机と椅子が描かれ、机の上には電気スタンド、鉛筆や三角定規などを入れたもの、大判のノートらしきものが置いてある。画面右上にはきちんと閉められた襖が描かれている。のび太はきちんと二つに折り畳んだ水玉模様の枕に頭を乗せ、両足もきちんと組んでいる。このように1コマ目をきちんと見ていくと、のび太の部屋が実にきちんと、整然と描かれていることが分かる。
 のび太は大きなめがねをかけており、一見すると優等生タイプに見える。白い靴下、黒い半ズボン、白いシャツ、きちんと七三に整髪された頭髪、どこをとってものび太は清潔感に溢れている。のび太という名前から連想されるルーズさは感じられない。部屋の床も全体が白いので、この部屋全体がきちんと整理され、管理されている印象を受ける。のび太は怠け者で、部屋中を散らかして平気でいられるような子供ではなく、部屋を合理的に整然と使いこなしている。特に机の上にきちんと置かれたノートや、少しのぶれもなく机と平行に置かれた椅子などに、常軌を逸した神経質な一面ものぞかせる。部屋全体に自由な空気がたちこめている解放感を感じないでもないが、締め切られた窓、締め切った襖に注意すれば、のび太は密封された自分固有の空間の中でのみ安心を得られる子供だったのではないかと思う。ポットから『オバQ』のマンガ本、さらに石油ストーブへと至る曲線的にカーブを描く置き方にも、のび太自身の存在を守るためのガード(防壁)のようなものを感じる。のび太は精一杯、予め作者によって設定された明るく、のんきな、怠け者の〈のび太〉というキャラを律儀に演じているようにも見える。
 のび太の目は点で描かれるほどに小さく、大きな眼鏡は彼がド近眼であることを示している。外見は勉強のできるお坊っちゃま風に描かれながら、まったく勉強のできない劣等生という役割を負わされたのび太は、子供社会においてかなりしんどいハンディを抱えていることになる。スポーツはだめだが、勉強は人一倍できる、そんな子供はどこのクラスにも一人ぐらいはいて、それなりに一目置かれる。逆の場合も同じである。スポーツも勉強もだめだが、お笑いでクラスの人気者になる者もいる。が、のび太はクラスの中で固有の能力を発揮することができない。こういった子供がいじめの対象になることは目に見えている。
この1コマ目の絵から明白なようにのび太は外界からの接触を拒んでいる。この状態が進めばのび太は引き籠もりとなって孤立化を深めることになろう。のび太に救いが感じられるのは、彼が丸いお餅を食べていることである。のび太は窓や襖で外界からの接触を拒んでいるが、実は誰よりも外界からの接触を望んでいる。お餅という〈丸いもの〉を食べること、それは幸福、安泰、平和、友好をのび太が望んでいたということである。
 のび太の無意識の次元での願い事はかなえられるだろう。それを可能にするのはもちろん作者である。作者はのび太の願望を全面的に支え、想像力の限りを尽くして実現する。『ドラえもん』を描いた作者とはいったい何ものなのか。このことに関しては、いずれ稿を改めて徹底的に検証してみたい。
 次にのび太の発しているセリフに注目してみよう。まず「のどかなお正月だなあ。」──このセリフから分かるのは、この日が単なる〈正月〉ではなく〈のどかな正月〉であるということである。この〈のどかな〉という言葉が読者に与える影響力はきわめて大きい。寝そべってお餅を口に運んでいるリラックスしたのび太が「のどかな正月」と言っているのであるから、大半の読者もまたのび太が感じている〈のどか〉を一瞬にして共有することになる。マンガの一コマ一コマを対象にして批評でも展開しなければ、コマ絵にインプットされた情報の多くは見逃されることになる。
マンガ愛読者の大半は主人公に感情移入して読み進んでいく。批評もまた当然、主人公に感情移入するが、しかしそこにとどまって満足することはない。わたしの場合は批評の対象にしたマンガ作品に関しては一コマ一コマを丁寧に徹底して検証することにしている。そういった検証作業を進めることで、思わぬ発見をすることが多い。作者にすら自覚的でなかった〈情報〉の発掘もあり、そこに批評(テキストの解体と再構築)の醍醐味もある。
 続くセリフは「今年はいいことがありそうだ。」である。「今年も……」でないので、このセリフを文字通り受け止めれば去年は〈いいこと〉がなかったことになる。現実世界であまりいいことがないので、のび太は空想の世界で〈いいこと〉を望むしかないというわけだ。
 2コマ目、小さなコマ枠にのび太の寝そべった姿がアップされる。画面左上に「いやあ、ろくなことがないね。」というセリフが描かれる。のび太は依然として満足そうな顔つきでお餅をパクついている。3コマ目、同じ方向から言葉が続く「野比のび太は三十分後に首をつる。」と。のび太は上半身を起こして、この言葉に反応する。4コマ目、今度は右方向から「四十分後には火あぶりになる」という言葉が聞こえる。のび太の頭の上に点線が描かれ、ようやくここで彼が現実に還ったことが分かる。5コマ目、のび太は恐怖にひきつった顔で部屋中をキョロキョロ見回しながら「だれだ、へんなこというやつは。」「でてこいっ。」と大声をあげる。
 6コマ目、カメラはのび太のいる部屋の中をやや俯瞰的に映し出す。画面右にきちんと本が配列された本棚、画面左に締め切った襖、画面上中央にやはり閉められたドア、画面下に机と椅子、それに石油ストーブ、画面中央に立ってあたりを不安げに見渡すのび太、中央右に伏せられた『オバQ』のマンガ本、中央右に座布団が描かれている。このコマ絵でのび太の部屋の模様は完全に分かる。1コマ目に描かれたポット、湯飲み茶碗、お餅を乗せた丸い皿などは省略される。のび太の部屋は概してごちゃごちゃした不潔感はまったくない。先に指摘したように床が白く描かれているので広々とした感じを受ける。
 のび太のセリフは「………だれもいない。」「気もち悪いなあ。」である。最初のセリフから検証しよう。確かに、この部屋にはのび太以外に「だれもいない」。
 子供部屋にしてはのび太の部屋はかなりぜいたくである。のび太は一人っ子でかなり優遇されていることが分かる。『ドラえもん』の第一巻が刊行されたのは一九七四(昭和四十九)年八月である。この頃の日本は高度経済成長の終末期にあたり、核家族化も進んで、子供の数も戦中戦後と比べれば比較にならないほど減少した。のび太一家の家族構成は父と母とのび太の三人で、経済的にも中流に属している。両親が一人息子の将来に期待して、学習に最適な部屋を用意したのであろう。雑音を排して、勉強に集中できるように窓、襖、ドアは締め切りになっている。しかしここに描かれたのび太の部屋を見る限り、彼が勉強に集中している気配はない。読んでいる本はマンガの『オバQ』であって学習書や教科書ではない。勉強嫌いな子供に完璧に近い理想的な個室を与えたらどうなるか。
 マンガの表層を見読する(マンガは絵を見、セリフを読む行為を同時的に行うので、これからはこの熟語を使うことにする)にとどまれば、のび太を異常な子供と見ることはなかろうが、このマンガを徹底的にリアリズムの観点から見れば、かなり精神的に危機的な状況に置かれていたということになる。白い広々とした床は清潔感や開放感を印象付けるが、同時に確固とした現実的地盤の喪失も感じさせる。のび太は白い床に、座布団を枕に寝そべっているというよりは、まるで雲ひとつ浮かんでいない虚無の空に浮かんでいると解することもできる。のび太はまさに密閉され限定された個室でのびている、と同時にすでに虚無の時空に浮遊した存在でもあったということになる。
 とつぜん、のび太の耳を襲った言葉は、彼の「今年はいいことがありそうだ。」という楽観的な予測を根底から突き崩す、不気味な恐ろしい言葉である。現実的な次元で言えば、こういった〈言葉〉はそれを聴いた主体の実存の危機を的確に告げている。これはのび太が自分の無意識下に抑圧した〈真実の声〉であり、余りにも抑圧が強いので、彼の目には見えない〈他者〉の言葉として聴いてしまったもの、すなわち精神病理学の用語で言えば〈幻聴〉ということになる。のび太の顔やしぐさがあまりにもマンガチックに描かれているので、6コマ目ののび太の置かれている危機的状況がリアルに伝わってこないが、もしこの画面をリアリズムで描けば、この時ののび太の不安と恐怖が生々しく体感されるはずである。
 〈首をつる〉とは自殺であり、〈火あぶり〉とは他者による処刑である。この、どこからともなく聴こえてきた言葉は、のび太が深層意識で、自分を罰せられるべき罪深い存在と見なしていた一つの証である。その〈罪〉とはいったい何なのか。この点に関しては後に検証する。
 7コマ目、画面右の机の方から「ゴト ガタ ゴト」という得体の知れない音が聞こえる。のび太は小さな点眼を見開いて音の方へと顔を向ける。このコマは1頁の世界を2頁以降の世界へと繋ぐ転換点としての役目を果たしている。
 2頁1コマ目、机の引き出しの中から得たいの知れない丸っぽい生き物が登場する。のび太は両手を大きく開き飛び上がって驚く。読者はとつぜんのび太の部屋に出現したものが〈ドラえもん〉であることを知っているので、のび太の驚きを共有することはできない。いくら可愛い愛嬌のある生き物でも、とつぜん予期せぬ時に現れれば驚く。しかもこの〈生き物〉は日本語を話す。
 この〈生き物〉は「ぼくだけど。気にさわったかしら。」と言う。カレは〈ぼく〉という男性が使う一人称を主語主体にしながら、女性言葉で登場している。カレの体型はぽっちゃり型で女性の乳房を連想させる。顔は虎を柔和にしたような顔で、ドラ猫を飼い猫にしたようにも見える。首輪には鈴がついており、両手は白くて丸い。両目は丸く、瞳は左右がぴったり付いている。頭はまさにトラ刈で短く刈り込まれている。鼻は小さな黒い丸で鼻の下がながく、口は大きく一本の曲線、ヒゲは三本ずつ短い線で描かれている。丸い寄り眼は愛嬌があり、長くゆるやかな横曲線の口や白い丸い手は、カレがのび太の敵として出現していないことを伝えている。カレは猛獣の虎のように牙や鋭い爪で威嚇しない。カレはこの2頁八コマの中で、毎回言葉を発しているにもかかわらず、ただの一回も口を開けない。牙も出さず、爪も出さず、ただひたすら言葉を発している。つまりカレはのび太に不安と恐怖を与えないように最大限の心配りをしている。それは逆の場合を考えれば明白である。大きな口を開け、子供の一人くらい一裂きにしてしまう牙を剝き出して唸ったり、または一言も発せずにじっと凝視したらどうだろう。のび太は恐怖の余り凍り付いてしまったことだろう。カレがのび太を驚かしたのは予期せぬ時に、予期せぬ場所からとつぜん現れたことにおいてだけであり、後はすべてのび太に対して友好的な態度で接している。
 2コマ目、のび太は「だ、だれだっ!? どこからきたんだ。なにしに…」と聞いている。頭からは大きな冷や汗の粒が七粒描かれ、眉毛は八の字に下がり、口は大きく開かれて舌がのぞき見える。点眼の両目はひっくり返り、左手はカレを指さしたピストルの形で上下に激しく振られている。
 さて、このコマ絵でのび太はカレに対して誰もが思う基本的な疑問を投げかけている。カレは〈だれ〉すなわち何者なのか、どこからどのような目的でやってきたのか、これは読者ももちろん知りたいことだ。
 3コマ目、のび太はカレが出てきた机の引き出しをのぞき込みながら「ど、ど、どうしてこんなところから……」と言い、その後ろに立ったいるカレは「いっぺんに聞かれてもこまるな」と答えている。
 まずこのコマ絵で注目したいのは、カレの立ち姿である。この姿によってカレの正面の格好が明らかにされている。カレの体は基本的に丸でできあがっている。頭と顔はまん丸一つのうちに描かれる。目も鼻も丸、両手も丸、両足も、腹部も丸、首輪の鈴も丸、ポケットも半月の形で丸を半分にした形である。身長は二頭身で鉄腕アトムの三頭身をさらに縮めて愛くるしさを増している。のび太の顔よりもカレの顔は大きいが、身長は二人ともに同じである(のび太はおおよそ二頭身半、場面によっては二頭身に見える時もある)。身長をのび太に合わせることで、二人の関係は友達同士という無条件のキップを手にしたことになる。カレはのび太に対して上から目線で口をきくことがない。優越もないし、へりくだることもない、カレとのび太が同じ身長であることによって二人は友好的な関係の場に立つことができるのである。
 4コマ目、カレはのび太の肩に白丸の手を置いて「そんなこと、どうでもいいじゃない。ぼくはきみをおそろしい運命からすくいにきた。」と言う。カレはのび太の三つの疑問のうち、最後の「なにしに」に対してまず最初に答えている。カレは〈きみ〉すなわち〈のび太〉を、〈おそろしい運命からすくいにきた〉のである。
 5コマ目、のび太は額から冷や汗を垂らしながら「三十分後に首つり、四十分後に火あぶり?」と問いただす。画面の背景が灰色に塗られているのはのび太の不安を表している。
 6コマ目、カレは両手を万歳して「そんなのたいしたことじゃない。」と応える。カレは可愛いヌイグルミのようなかたちをしており、〈首つり〉〈火あぶり〉といったのび太にとって余りにも深刻な問題が、しぜんと緩和されてしまう。おそらく読者の大半は、のび太の深刻な運命よりもカレの可愛らしさに目を奪われてしまうだろう。次の7コマ目、画面右下のカレは左手をのび太に突き出し「きみは年をとって死ぬまで、ろくなめにあわないのだ。」と、より残酷な予言の言葉を発する。のび太は両腕をさげ、両手指を大きく開き、口を大きく開いて「エーッ!!」と叫び声を発する。
 8コマ目、今度は画面右に床に正座したのび太が、画面左のカレに右手をピストルのかたちにして突き出しながら「でたらめいうな!! 人の運命なんか、わかってたまるか!!」と激しく非難攻撃する。カレは立ったまま、にこやかな表情で「それがわかるんだ。」と応える。
 9コマ目、画面右のカレがのび太の怒りをなだめるように「どうしてわかるかというとだね。」と言う。のび太は正座したまま肩の力を抜いて「ウ、ウン…。」とうなずく。
  
 以上で2頁目をざっと見たが、たかがマンガといって読み過ごすわけにはいかない、きわめて重要な問題が提示されている。
 まずはマンガの手法について見ておこう。作者はのび太の部屋の基本的な構成、すなわち窓、襖、ドアや机、椅子、本棚の置かれた位置を移動させることはない(今のところ)。ところが人物の位置は平気で変えている。人物の配置換えをマンガ手法の自在さと見なすこともできるし、カメラが人物の周りを瞬時に移動した結果と見ることもできる。