世界文学の中の『ドラえもん』

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「マンガ論」の受講者の希望もあって『ドラえもん』を何回か講義したが、同時に「世界文学の中の『ドラえもん』も執筆した。今回はその最初の部分を紹介したい。
世界文学の中の『ドラえもん』(連載1)
清水正
ドラえもん』第一巻を読む
「マンガ論」の受講生の要請もあり、『ドラえもん』を授業で取り上げることにした。「ドラえもん」は有名だが、まともに最初から通して読んだことがなかったので今回、第一巻を読むことにした。
 まず〈ドラえもん〉という名前から見ていこう。〈ドラ〉は〈トラ〉(虎)、〈虎猫〉〈野良猫〉〈どら猫〉などを連想する。〈えもん〉は〈衛門〉で、日本の伝統的な名前を継承している。
 〈ドラえもん〉の姿形の基本は丸(球体)である。顔も丸いし体も丸い。マンガの世界で見た感じが可愛いと思うのは二頭身から三頭身。〈ドラえもん〉は二頭身で顔と身体は同じ大きさで描かれている。
 〈ドラえもん〉の顔や姿はひとに不安や恐怖を与えない。ひとの心を和ませ穏やかにさせる。丸は平和、幸福、調和、安心などを意味する。まさに〈ドラえもん〉はそれらをもたらすために二十二世紀の未来から二十世紀の〈現代〉へとやってきた、大げさにいえば時空を越えて出現した現代版救世主ということになる。
 第一巻に限って〈ドラえもん〉を見ていくと、かれは性別、年齢、生物学的種を超越した存在に思える。あるいはすべてを兼ね備えた存在とも言える。
 カレはいったい何ものなのか。改めて考えるに値する存在である。

 まずは一頁から見ていくことにしよう。
タイトル頁に関してはとりあえず不問に伏して、まずは一頁1コマ目を見てみよう。のび太が部屋の中央に仰向けに寝そべっておモチをぱくついている。傍らにはポット、湯飲み茶碗、モチをのせた丸い皿、そして読みかけのマンガ本「オバQ」が伏せて置いてある。足下には石油ストーブがある。画面左上には閉められた窓、結ばれたカーテン、勉強机と椅子が描かれ、机の上には電気スタンド、鉛筆や三角定規などを入れたもの、大判のノートらしきものが置いてある。画面右上にはきちんと閉められた襖が描かれている。のび太はきちんと二つに折り畳んだ水玉模様の枕に頭を乗せ、両足もきちんと組んでいる。このように1コマ目をきちんと見ていくと、のび太の部屋が実にきちんと、整然と描かれていることが分かる。
 のび太は大きなめがねをかけており、一見すると優等生タイプに見える。白い靴下、黒い半ズボン、白いシャツ、きちんと七三に整髪された頭髪、どこをとってものび太は清潔感に溢れている。のび太という名前から連想されるルーズさは感じられない。部屋の床も全体が白いので、この部屋全体がきちんと整理され、管理されている印象を受ける。のび太は怠け者で、部屋中を散らかして平気でいられるような子供ではなく、部屋を合理的に整然と使いこなしている。特に机の上にきちんと置かれたノートや、少しのぶれもなく机と平行に置かれた椅子などに、常軌を逸した神経質な一面ものぞかせる。部屋全体に自由な空気がたちこめている解放感を感じないでもないが、締め切られた窓、締め切った襖に注意すれば、のび太は密封された自分固有の空間の中でのみ安心を得られる子供だったのではないかと思う。のび太の足の組み方さえもがきちんとしており、枕のたたみ方も、ポットからオバQのマンガ本、さらに石油ストーブへと至る曲線的にカーブを描く置き方にも、のび太自身の存在を守るためのガード(防壁)のように見える。のび太は精一杯、予め作者によって設定された明るく、のんきな、怠け者の〈のび太〉というキャラを律儀に演じているようにも見える。
 のび太の目は点で描かれるほどに小さく、大きな眼鏡は彼がド近眼であることを示している。外見は勉強のできるお坊っちゃま風に描かれながら、まったく勉強のできない劣等生という役割を負わされたのび太は、子供社会においてかなりしんどいハンディを抱えていることになる。スポーツはだめだが、勉強は人一倍できる、そんな子供はクラスに一人ぐらいはいて、それなりに一目置かれる。逆の場合も同じである。スポーツも勉強もだめだが、お笑いでクラスの人気者になる者もいる。が、のび太はクラスの中で固有の能力を発揮することができない。こういった子供がいじめの対象になることは目に見えている。この1コマ目の絵から明白なようにのび太は外界からの接触を拒んでいる。この状態が進めばのび太は引き籠りとなって孤立化を深めることになろう。のび太に救いが感じられるのは、彼が丸いお餅を食べていることである。のび太は窓や襖で外界からの接触を拒んでいるが、実は誰よりも外界からの接触を望んでいる。お餅という〈丸いもの〉を食べること、それは幸福、安泰、平和、友好をのび太が望んでいたということである。
 のび太の無意識の次元での願い事はかなえられるだろう。それを可能にするのはもちろん作者である。作者はのび太の願望を全面的に支え、想像力の限りを尽くして実現する。「ドラえもん」を描いた作者とはいったい何なのか。このことに関しては、いずれ稿を改めて徹底的に検証してみたい。
 次にのび太の発しているセリフに注目してみよう。まず「のどかなお正月だなあ。」ーーこのセリフから分かるのは、この日が単なる〈正月〉ではなく〈のどかな正月〉であるということである。この〈のどかな〉という言葉が読者に与える影響力はきわめて大きい。寝そべってお餅を口に運んでいるリラックスしたのび太が「のどかな正月」と言っているのであるから、大半の読者もまたこののび太が感じている〈のどか〉を一瞬にして共有することになる。マンガの一コマ一コマを対象にして批評でも展開しなければ、コマ絵にインプットされた情報の多くは見逃されることになる。マンガ愛読者の大半は主人公に感情移入して読み進んでいく。批評もまた当然、主人公に感情移入するが、しかしそこにとどまって満足することはない。わたしの場合は批評の対象にしたマンガ作品に関しては一コマ一コマを丁寧に徹底して検証することにしている。そういった検証作業を進めることで、思わぬ発見をすることが多い。作者にすら自覚的でなかった〈情報〉の発掘もあり、そこに批評(テキストの解体と再構築)の醍醐味もある。
  続くセリフは「今年はいいことがありそうだ。」である。「今年も……」でないので、このセリフを文字通り受け止めれば去年は〈いいこと〉がなかったということになる。現実世界であまりいいことがないので、のび太は空想の世界で〈いいこと〉を望むしかないというわけだ。
 2コマ目、小さなコマ枠にのび太の寝そべった姿がアップされる。画面左上に「いやあ、ろくなことがないね。」というセリフが描かれる。のび太は依然として満足そうな顔つきでお餅をパクついている。三コマ目、同じ方向から言葉が続く「野比のび太は三十分後に首をつる。」と。のび太は上半身を起こして、この言葉に反応する。四コマ目、今度は右方向から「四十分後には火あぶりになる。」という言葉が聞こえる。のび太の頭の上に点線が描かれ、ようやくここで彼が現実に返ったことが分かる。五コマ目、のび太は恐怖にひきつった顔つきで部屋中をキョロキョロ見回しながら「だれだ、へんなこというやつは。」「でてこいっ。」と大声をあげる。
 六コマ目、カメラはのび太のいる部屋の中をやや俯瞰的に映し出す。画面右にきちんと本が配列された本棚、画面左に締め切った襖、画面上中央にやはり閉められたドア、画面下に机と椅子、それに石油ストーブ、画面中央に立ってあたりを不安げに見渡すのび太、中央右に伏せられた「オバQ」のマンガ本、中央右に座布団が描かれている。このコマ絵でのび太の部屋の模様は完全に分かる。1コマ目に描かれたポット、湯飲み茶碗、お餅を乗せた丸い皿などは省略される。のび太の部屋は概してごちゃごちゃした不潔感はまったくしない。先に指摘したように床が白く描かれているので広々とした感じを受ける。
 のび太のセリフは「………だれもいない。」「気もち悪いなあ。」である。最初のセリフから検証しよう。確かに、この部屋にはのび太以外に「だれもいない」。
 子供部屋にしてはのび太の部屋はかなりぜいたくである。のび太は一人っ子でかなり優遇されていることが分かる。「ドラえもん」の第一巻が刊行されたのは一九七四(昭和四十九)年八月である。この頃の日本は高度成長期にあり、核家族化も進んで、子供の数も戦中戦後と比べれば比較にならないほど減少した。のび太一家の家族構成は父と母とのび太の三人で、経済的にも中流に属している。両親が一人息子の将来に期待して、学習に最適な部屋を用意したのであろう。雑音を排して、勉強に集中できるように窓、襖、ドアは締め切りになっている。しかしここに描かれたのび太の部屋を見る限り、彼が勉強に集中している気配はない。読んでいる本はマンガの「オバQ」であって学習書や教科書ではない。勉強嫌いな子供に完璧に近い理想的な個室を与えたらどうなるか。
 マンガの表層を見読する(マンガは絵を見、セリフを読む行為を同時的に行うので、これからはこの熟語を使うことにする)にとどまれば、のび太を異常な子供と見ることはなかろうが、このマンガを徹底的にリアリズムの観点から見れば、かなり精神的に危機的な状況に置かれていたということになる。白い広々とした床は清潔感や開放感を印象付けるが、同時に確固とした現実的地盤の喪失も感じさせる。のび太は白い床に、座布団を枕に寝そべっているというよりは、まるで雲ひとつ浮かんでいない虚無の空に浮かんでいると解することもできる。のび太はまさに密閉され限定された個室でのびている、と同時にすでに虚無の時空に浮遊した存在でもあったということになる。
 とつぜん、のび太の耳を襲った言葉は、彼の「今年はいいことがありそうだ。」という楽観的な予測を根底から突き崩す、不気味な恐ろしい言葉である。現実的な次元で言えば、こういった〈言葉〉はそれを聴いた主体の実存の危機を的確に告げている。これはのび太が自分の無意識下に抑圧した〈真実の声〉であり、余りにも抑圧が強いので、彼の目には見えない〈他者〉の言葉として聴いてしまったもの、すなわち精神病理学の用語で言えば〈幻聴〉ということになる。のび太の顔やしぐさがあまりにもマンガチックに描かれているので、六コマ目ののび太の置かれている危機的状況がリアルに伝わってこないが、もしこの画面をリアリズムで描けば、この時ののび太の不安と恐怖が生々しく体感されるはずである。
 〈首をつる〉とは自殺であり〈火あぶり〉とは他者による処刑である。この、どこからともなく聴こえてきた言葉は、のび太が深層意識で、自分を罰せられるべき罪深い存在と見なしていた一つの証である。その〈罪〉とはいったい何なのか。この点に関しては後に検証する。
 7コマ目、画面右の机の方から「ゴト ガタ ゴト」という得体の知れない音が聞こえる。のび太は小さな点眼を見開いて音の方へと顔を向ける。このコマは1頁の世界を2頁以降の世界へと繋ぐ転換点としての役目を果たしている。