清水正の『浮雲』放浪記(連載69)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載69)
平成△年8月26日
 イヴァンは神の存在は認めても神の創造したこの不条理に満ちあふれた世界を認めることができず、この世界への入場券を拒否する。世界の内にすでに投げ出されてしまっている者が、世界への入場を拒否するなどと言っても、何の有効性も発揮できない。イヴァンは結果として狂気に落ちることで世界を拒むほかはなかった。キリーロフは神が存在するのであれば、すべては神の意志に基づいていると言った。もしそうであるなら、人間が考える事、する事、人間の意志ですら神の意志の支配下にある。戦争という〈大芝居〉もまた神の意志通りに行われたことになる。このように地上世界のすべての現象を神の意志の次元で考えれば、戦争における人間の責任問題など問うこと自体が意味をなさない。
 人間の知識などたかがしれたものだし、何万冊の本を読み研究に研究を重ねても結局、人間は世界の創世や終末に関して蚊帳の外に置かれている。物事の真理を解き明かそうとすると神秘に直面するし、謎を解こうとすれば言葉が迷ってしまう。しかも、世界の神秘や謎を真剣に解き明かそうとする者はごく稀であり、大半の者は日々の生活に追われ、物事の本質を解き明かそうなどと思ってはいない。
 敗戦後、日本人の何人が〈戦争〉についてきちんと考えたであろうか。東京大空襲で東京は焼け野原となったが、その一角で野菜作りの鍬を振るう一婦人の姿がGHQの撮影班によって映し出されている。一晩の空襲で何万人もの日本人が命を奪われた。その惨劇に打ちひしがれている暇もなく、残された人々は復興の作業についた。生きるためには最低限の衣食住が必要である。身につけるものもなく、住むところもなく、食うものがないままに〈戦争〉について思いをいたすことはできない。否、衣食住に満たされてさえ、負けた戦争について考えることは厭だったのである。
 富岡はゆき子の小舎でラジオから流れてくる東京裁判の放送を聞くことはなかった。『浮雲』の人物たちは誰一人として戦争を真っ正面に見据えてそれを話題にすることはなかったし、主要人物たちの家族のただ一人も戦死していない。向井清吉の先妻の子供が一人、三月九日の大空襲で死んだと報告されているだけである。向井は「戦争ってものはばかばかしいって知っただけでも、たいしたことでさア」と語っているが、それが戦争に参加して無事復員してきた元一兵士の率直な思いであったろう。
 しかし、戦争体験者が戦地での数々の出来事に沈黙を守っていることも事実であろう。敗戦後の、お仕着せの平和憲法のもと、きれいごとばかりがまかりとおるようになった欺瞞の民主主義社会の中で、殺したり殺されたりした戦争の現場で体験し、感じたことを生々しく語ることはとうていできないだろう。戦地で何人もの人を殺した兵士が、復員して平和な家庭に戻れば、好々爺の顔で孫を抱いてもいるのである。戦争を政治経済や倫理の次元で議論することと、文学の次元で議論するのでは、人間の深部へ向けての掘り下げが全く違ってくる。
 ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリの殺人事件を〈ヒューマニズム〉の観点にたつ新聞記者が書けば、ロジオンは単なる極悪非道の殺人強盗犯の肖像を越えることはできないが、ドストエフスキーが描けば深遠な人類永遠の問題が浮上して来ることになる。現在のテレビ、新聞ジャーナリズムは文学の地平において物事をとらえていない。哀れなほど幼稚な次元にとどまって、しかもそのことに気づかない者たちによって記事が書かれ、欺瞞を欺瞞とも気づかない者たちによる〈正当な〉コメントが日々放映されている。物事の深部をえぐるようなコメントや記事は誰にも求められていないかのようである。
 地下室の男の「一杯のうまいコーヒーが飲めれば、世界など滅びてしまってもかまわない」の言葉を〈戦争〉に当てはめて、「自分一人が生き延びるためにはすべての人間を殺してもかまわない」とか「ひとを殺すことに極度の快楽を感じる」とか言った場合、こういう人間の本音に対して〈ヒューマニズム〉の立場に立つ者はどのように答えるのだろうか。
 口蹄疫にかかった牛や豚が三十万匹近くも殺処分された。テレビ・新聞ジャーナリズムの世界から、殺され穴に埋められた牛や豚の命を問う者は一人もいない。養豚業者の一人がテレビカメラの前で、手塩にかけて育てた豚が殺処分されることは可哀想でならないと涙を流した。この涙に同情を覚えた視聴者が何人いただろうか。養豚場の豚は出荷時期がくれば否応もなく屠殺場へ送られていくのだ。〈ヒューマニズム〉はとりあえず、肌の色や宗教や言語、民族の違いを超えて、人間でありさえすれば基本的人権が守られ、自由と平和を享受できるものと見なしている。が、この〈ヒューマニズム〉は人間以外の動物に関しては、その命を人間のために犠牲にすることを容認している。食材として、医学実験の材料として、日々数え切れないほどの命が消費されている。こういった問題を文学の次元で扱えば、宮沢賢治の童話、たとえば『よだかの星』が書かれることになる。人間が人間を殺す問題を文学の次元でとりあげればドストエフスキーの『罪と罰』となるのである。一人の人間を平和時に殺せば殺人者として逮捕され刑罰が科せられるが、戦争時に何十万人もの敵を殺せば英雄となる。
 ここで問われているのは、人間が人間を殺すこと自体の善悪ではない。時代や状況次第で〈善〉にも〈悪〉にもなり得るということは、要するに〈人殺し〉を絶対悪として裁断することはできないということである。絶対の悪もないし、絶対の善もない。この時、すべては許されているのだ、という囁きが耳もとをよぎる。この囁きをべつに悪魔の囁きと形容する必要さえない。ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは二人の女性を斧で叩き殺した後、その〈犯罪〉の重さに耐えきれなかった。彼の〈殺人〉(踏み越え)は、戦時における兵士の合法的な殺人行為と一緒にすることはできない。ロジオンは自らの犯行を隠し通さなければならなかったが、兵士は殺人行為自体を隠す必要はない。或る共同体において認められた行為は、それが殺人であれ暴行であれ、隠蔽する必要がないだけに苦しみは軽いし、苦しみ自体が生じない場合すらある。
 ロジオンの犯行は、彼の犯罪に関する論文において許容されても、公共性を獲得していない。革命理論による殺人は、少なくとも思想を同じくする同志間においては認知されている。同志間において秘密にする必要はないし、敵に対しては堂々と声明を発することもできる。ロジオンにおいては彼の〈踏み越え〉は警察や予審判事ポルフィーリイのみならず、唯一の友人ラズミーヒンや母プリヘーリヤや妹ドゥーニャにも隠し通さなければならなかった。ロジオンが自らの犯行、リザヴェータ殺害の犯人を打ち明けた(とは言っても、実に独特な打ち明け方で、言葉に出して「ぼくが殺したんだよ」などとは言っていない)のはソーニャただ一人である。ロジオンはソーニャに自らの〈犯行〉を打ち明けたが、しかしこれは〈告白〉でもないし〈懺悔〉でもない。あくまでも〈打ち明け〉の段階にとどまっている。
 ロジオンの懐疑は深く、そうそう簡単に神の前に跪拝する訳にはいかない。ロジオンはソーニャの前にひざまずくことはしたが、この時彼は「ぼくはきみの前にひざまずいたんじゃない。ぼくは人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」と言う。全人類の苦しみを一身に背負って十字架上の死を全うしたのがイエスであった。ロジオンは、ソーニャをどのような存在とみていたのか。ソーニャはわたしの眼にはキリストの化身とすら見える。ソーニャがマルメラードフ一家の犠牲となって娼婦となったことは、神の子イエスが人間の姿を借りてこの地上の世界に現出して来たことと同様の意味を持っている。ロジオンはソーニャの前にひざまずいた。ソーニャが〈人類のすべての苦悩を一身に背負った存在〉であるということに気づけば、この時、まさにロジオンは〈神〉(キリスト)の前にひざまずいていたことになる。それが、現実となったのが、シベリアでロジオンがソーニャの前にいきなり投げ飛ばされた時である。この時のソーニャは聖なる緑色の衣も纏った〈実体感のある幻〉(видение)として現出していた。
 ドストエフスキーの文学は現実の世界を生きる人間を徹底して問うことで、人間存在を超えたものに向かって行く。人間の問題は神の存在を抜きにしては語れない、そういった次元へと踏み込んでいく。人間の諸問題を問うということは、神を問うということなのである。ドストエフスキーの描く人神論者達は神の存在を認めた上で、徹底して神の義を問うている。神はこの地上世界に正義・公平・真理(スペラベドリーヴァスチ)を実現しなければならないものとして考えられている。それらを阻害するもの、邪魔するもの、悪へとそそのかすものは悪魔と称せられている。わたしのような日本人には、このような神は人間に都合のいい、相対的な存在にしか見えない。創世記の全能の神の〈全能〉を認めれば、エデンの園エヴァを誘惑したサタンは神の半身、ヘビに変装した神にしか見えない。自らが造った人間に対する不安と懐疑を抱いた卑小なる存在と見るのでなければ、退屈の余りに自らの創造物と戯れの時をすごそうとしたとしか思えない。
 誘惑の実験と断罪のドラマを自ら演出、演技する神の戯れごとにどこまでおつきあいすればいいのか。わたしの神は誘惑や断罪で戯れる〈全能の神〉ではなく、どのような誘惑や断罪とも無縁な、あるがままの世界をあるがままに体現しているものであり、この〈もの〉とは〈ゼロ〉(0)にほかならない。この〈ゼロ〉が人格を備えることはない。神が人格神となれば、正義や善は人間(あるいは一民族)を主体にしたものとならざるを得ない。〈相対〉を〈絶対〉とする演出にくみする必要はないだろう。相対化され得る絶対など絶対ではない。イヴァン・カラマーゾフの言った「事実にとどまるほかはない」は、彼がユダヤキリスト教の神に懐疑と抗議を経た後に獲得した、余りにも絶望的な言葉であった。このイヴァンの言葉は、判断中止して事象そのものに迫ることで真理に到達できると考える現象学者の楽観とは何の関係もない。ただし、現象学創始者フッサールのみは、晩年、現象学自体が幻想であったという余りにも辛い認識に達している。
 イヴァンの苦悩のはるか手前で、学問の有効性を信じている能天気な研究者の現状につきあっている暇はない。「何が何だか悟りのないままに、人間は社会という枠のなかで、犇めきあっては、生死をくり返している」こういった変哲もない言葉が深いのだ。理屈じゃない。議論などしようともしていない。ここに林芙美子歴史観があり人生観がある。この歴史に対する、人間に対する醒めた眼差しはチェーホフに通ずるものがある。犇めきあって生きている人間の喜怒哀楽の喧噪を嘲弄する眼差しではない、そこには限りない優しさ慈しみが潜められている。喧しい議論などをいくら展開しても何も導きだされないことは「朝まで生テレビ」を夜明けまで見た者にはよく理解できるだろう。そこにはテレビジャーナリズムの落とし子田原総一郎の挑発の芸と虚無が腫れ物のように赤く熱く膨れ上がっているばかりである。