清水正の『浮雲』放浪記(連載62)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載62)

平成△年8月19日
 作者がゆき子のこの〈秘中の秘〉に関してどこまで自覚的であったかは不明だが、わたしの批評はこの〈秘中の秘〉に迫っていくことで、この小説に込められたものを明確に浮上させたいと思っている。
「誰も、月日がたてば、自分の死んだことなぞかまってはくれないだろうし、富岡にしても、いつかは自分のことなぞは忘れ去ってしまうにきまっている」この言葉が挑発的に響くのは、わたしが小説家林芙美子の言葉としても聞いているからである。芙美子が『浮雲』を書き始めたのは昭和二十四年で書き終えたのが昭和二十六年である。それから二ヶ月後、林芙美子は連載し始めた「めし」を完成させることなく息を引き取った。『浮雲』は発表されてから六十年の歳月を経たが、富岡兼吾も幸田ゆき子も作品のなかで生き続けている。富岡とゆき子は微塵も色褪せることなく生きている。わたしは林芙美子の文学の力を感じながらこの批評を展開している。生身の人間は、わけも分からずこの世に生まれ、そしてわけも分からず死んでいかなければならない。人間が予め自分自身の意志でこの世に誕生してくるのならまだしも、気がつけば世界に投げ出されている被造物である以上、世界の創世と終末はもとより、自分自身の誕生と死に関しても、結局は何もわからないままにこの世から消え去っていくほかはないらしい。しかし、林芙美子が死んでから六十年がたとうとしているが、彼女の作品が依然として生きているのは確固たる事実であり、わたしはそのことに素朴に感動している。
 わたしの眼には、都会にどんなに高い高層ビルが聳えようが、経済的にどんなに豊かになろうが、敗戦後の日本人の姿は何も変わっていないように見える。まさに、嘘つきで見栄坊で甘ったれの卑劣漢〈富岡兼吾〉は現代日本人の鏡像そのものである。日本は太平洋戦争に敗北し、無条件降伏した。富岡兼吾は敗戦後の日本に関して何も語ることはない。加野もゆき子も、日本がなぜ戦争へと突入したのか、なぜ敗戦したのか、なぜ天皇は敗戦の責任をとらないのか、といった問題に関して沈黙を守り続けている。
 林芙美子が描いたのは、戦中戦後の富岡兼吾と幸田ゆき子の性愛であり、その腐れ縁の実態である。どんな時代にあっても人間は生まれた以上は、自らの喜怒哀楽の人生ドラマを演じてこの世を去っていく。名も残さず、仕事も残さず、大半の人間はまるではじめからこの世に存在しなかったかのように姿を消す。文字によって、映像によって過去の人間の生涯や業績が記録され、保存され、公開されることによって後世に伝えることが可能となったが、それもこれも人類が絶滅した後では何の価値もない。伝え続けることの価値は、その大前提に人類の存続を置いている。人類もまたやがていつかは絶滅するのだという観点に立てば、伝えること、残すこともまた空しいものと化す。それとも、人類などが滅びても、残すべき、伝えていくべきものはあるのだろうか。
林芙美子は「あの時を外してしまったことが、ゆき子には残念でもあった」と書いている。〈あの時〉とは「伊香保の宿で、富岡が、じいっと思いをこらしていたあの気持ちに応えられなかった」その〈時〉である。もしゆき子が本気でそんなことを思っていたとするなら、ゆき子は富岡の気持ちを何も分かっていないことになる。要するに、富岡はそもそもの初めから本気で死ぬ気もないし、ゆき子と心中する気もないのである。ゆき子が富岡の、ポーズとしての死の〈思い〉に寄り添って行ったにしても、別にそれでもって二人の思いがぴったりと重なるわけではない。富岡の〈心中幻想〉に、お門違いの〈思い〉を重ねたところで、幻想が現実に化けるものでもない。
 作者は「ゆき子は、世の中や、男に対して、信用してしまう自信をなくしてしまっているのだ」とも書いた。ということは、ゆき子は世の中や男を信用したこともあったということであろうか。『浮雲』を読む限り、ゆき子が世の中や男を信用したことがあったとは思えない。妻に隠れて十九の娘を強姦し、その後三年間も肉体関係を続けた伊庭を〈信用〉していたとは思えないし、妻も愛人もある富岡と肉体関係を持ったからといって〈信用〉していたとは思えない。ゆき子は情熱的な濡れ場にあってさえ、富岡を本当には〈信用〉していなかったであろう。ゆき子が富岡に執着するのは、性愛的欲求によるものであって〈信用〉ではない。〈信用〉できないからこそ、つかの間の時を激しく燃えたというのが本当のところであろう。
 二人の人間が心身共に完璧な融合の瞬間を味わおうとすれば、心中はそれを実現する有力な手段の一つであろうが、しかしその心中においてすら、お互いに別々のことを考えているかもしれないのであるから、もはやすべては幻想と見るほかはない。ゆき子は幻想を幻想として受け入れることは厭なのであるから、どんな場合においても心中などはできないのである。ゆき子はリアリストであって、空想や幻想に身をやつすような女ではない。作者は「人間は心のなかまではどうにも自由にするわけにはゆかない。一時の暗さを通り過ぎた以上は、二人にとって、陽気な人生への希望を思い起させるのは必定なのである」と書いている。ゆき子は未だに〈陽気な人生への希望〉を失ってはいない。ゆき子はどんなに絶望的な状況に置かれても、絶望することはない。これは富岡がおせいやゆき子に感じた女の恐るべきたくましさと言えるかもしれない。

  富岡との交渉はこれで、一応はピリオドを打ってしまったと言ってもいい。現に、富岡は、伊香保から戻って以来、何の音沙汰もないのだ。現実の世界では、生きた人間同士で、お互いを理解するということは、どんなに激しい恋愛の火中にあっても、むずかしいのであろう。微妙な虹が、人間の心の奥底には現われては消え、現われては消えてゆくものなのだろう。そこをもどかしがって、人間は笑ったり泣いたりしているだけのようにも考えられた。人間はそうした生きものなのであろう。ゆき子は、富岡に逢いたかった。ちゃんと、富岡とのきずなが判っていながら、仏印での二人の思い出は何といっても生涯のうちでの大きな出来事なのである。この戦争は、ゆき子にとっては生涯忘れることができないのだ。あの時は、本当に幸福だった。……兵隊のみんなが、生死をかけて戦っている時に、ゆき子だけは、富岡と不思議な恋にとりつかれていたのだから。(〈三十六〉)

作者は「ちゃんと、富岡とのきずなが判っていながら」と書いている。ゆき子は〈富岡とのきずな〉をいったいどのように分かっていたというのだろうか。その〈きずな〉はもろいもので、いつ切れてもおかしくない、はかないものだということが分かっていたというのであろうか。しかし、同時に「仏印での二人の思い出は何といっても生涯のうちでの大きな出来事なのである」とも書いている。この〈二人の思い出〉が現在のゆき子を生かさせているのは事実である。この〈過去〉を現在から切断し、切り捨て去ることはできない。ゆき子の現在はダラットでの富岡との過去を抜きにして語ることはできない。ゆき子から富岡との悦楽の〈過去〉を取り去ったら〈現在〉のゆき子の生はないのである。
 富岡にとって、ゆき子との〈過去〉はあくまでも過去であって、日本へ引揚げて来た時点でゆき子との過去は抹殺されていた。この抹殺された〈過去〉を呼び起こし、無理に現在へと繋げたのが、富岡の家にまで押し掛けてきたゆき子である。ゆき子にとっては現在は過去の延長上にあり、富岡にとって過去は深い淵の向こう岸に置き去りにしてきたものである。日本へ引揚げて来た富岡とゆき子の間には埋めようのない断絶が存在しているが、この断絶を意地になって埋めようとしたのがゆき子であり、そのゆき子の強引な思いに最大限加担し続けたのが作者林芙美子である。
 林芙美子は「富岡との交渉はこれで、一応はピリオドを打ってしまったと言ってもいい。現に、富岡は、伊香保から戻って以来、何の音沙汰もないのだ」と書いた。何度も指摘しているように、富岡とゆき子の関係は、まず最初に、富岡がゆき子より半年早く日本へ引揚げた時点でピリオドが打たれている。次は、ゆき子が敦賀港に着いて、何度富岡に電報を打っても音沙汰がなかった時点でピリオドが打たれている。
 要するに、富岡は安南人の女中ニウから逃げたように、ゆき子からも逃亡をはかった。ゆき子が家にまで押し掛けてきたことは、富岡にとってはシナリオの外にあったことで、ここから富岡とゆき子の幕の降りない腐れ縁のドラマが続くことになる。林芙美子は小説家として、富岡とゆき子の関係にそろそろ幕をおろさなければならないという意識が働いたことも確かであろう。なぜ、芙美子は富岡とゆき子の腐れ縁に幕を下ろさなかったのか。ゆき子の富岡に対する思いは、その根底に復讐がある。それは女の意地と換言してもいい。富岡兼吾はゆき子にとって、復讐しなければ気がすまない男の代表格であり象徴なのである。