清水正の『浮雲』放浪記(連載57)

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載57)

平成△年8月14日

ここで加野が富岡に対して言っていること、つまり富岡は自分の才能でいつか息を吹き返すということと、「つくづく運のいい奴だ」ということ、この二つの指摘は、ゆき子の死後、富岡がどのように生きていくのかを考える上で重要なヒントとなるであろう。富岡は自分さえ早く日本へ戻れればどんな卑怯な手を使ってでもそれを成し遂げる。
 林芙美子は南方の地で富岡とゆき子がどこでどのような別れ方をしたのか何ら具体的に書いていない。富岡がゆき子に結婚の約束をしたその場所や時間さえ記さない。読者は勝手に想像するしかないのだが、富岡をいくらかでも誠実味のある男と見れば、一日でも早く日本へ帰って邦子との関係を精算して、後から引き揚げてくるゆき子のために準備万端整えておく、そのためにこそ彼はゆき子を置いて一足先に帰って来たのだという解釈である。しかしこの解釈における〈誠実〉はゆき子の側に立ったもので、戦争中、四年もの間、姑に仕えながら富岡家を守ってきた妻邦子の側に立てば、とんでもない薄情者、裏切り者となる。
 描かれた限りで富岡を判断すれば、彼は関わった女に対してどこまでも責任を負うといったタイプの男ではない。一番酷いのは安南人の女中ニウを身ごもらせて捨て去ったことだろう。もしニウが事を荒立てていたらどうなっていただろうか。別れ際、ゆき子に対しても結婚の約束を平気で口にするような男であるから、ニウには、田舎へ戻って子供を出産したらいつか必ず迎えに行く、それまでたいへんだろうが元気でいてくれ、ぐらいの嘘をついて済ましていたかもしれない。
 責められれば、その場、その場で言い逃れや嘘をついて身を交わすのが富岡のやり方だとすれば、こんな箸にも棒にもかからない卑怯者はいないということになるが、ゆき子はそういう富岡に惚れて、別れることができずにいるのだから傍からとやかく言ってもしようがない。ゆき子はそういう女なのである。
 加野は最大限の皮肉を込めて、富岡を「まったく英雄的人物ですよ」と言う。この〈英雄的人物〉で思い出すのは、『罪と罰』のロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフが自嘲気味に、エジプトに四十万の兵士を置き去りにして、自分は一人さっさと宮殿に戻って平然とシャンパンを口にすることができる真の英雄ナポレオンを〈青銅でできた人間〉と言っている場面である。富岡はナポレオンほどの英雄的人物ではもちろんないが、しかしニウやゆき子を捨て置いてさっさと一人、うまく立ち回って日本へ引き揚げてしまうのは、その規模の大小の差はあっても基本的に、自分と親密な関係にある他者に対して冷酷に振る舞えるという点に関しては同じである。
 それにしても富岡はナポレオンよりははるかに、二人の女を斧で殺害しておきながらその〈踏み越え〉に〈罪〉意識を覚えることなく、苦しみの沼に溺れていたロジオンに近い。ロジオンとの違いは、富岡はロジオンほどにも苦しんではいなかったことであろう。富岡からは、妻邦子に対しても、ニウに対しても、ゆき子に対しても、おせいに対しても、何ら苦悩といったものを感じることはできない。
 男と女の関係は、男と女の関係でしかない。そこに倫理や宗教が入り込んでくることはない。つまり富岡には〈罪と罰〉の問題がそもそもの初めから欠落しているのである。こういった人間に行動論理があるとすれば、それは現実をうまく泳ぎわたるということ以外にはない。いい女、うまい酒、欲望を満たすことのできる金と権力……富岡にもし人生哲学を語らせれば、それは『罪と罰』の有能な実際家として登場する卑劣漢ルージンのそれと一致するかもしれない。
 そう言えば、ルージンもまたソーニャに仕掛けた冤罪事件の真実を、目撃していたレベジャートニコフによって暴露された時ですら、群衆をかき分けかき分け、罵詈雑言を浴びながらも、結局はうまくすり抜けることに成功している。加野の眼差しを借用すれば、妙に格好つけの成り上がり紳士ルージンと、ダンディをかこった富岡は瓜二つに見える。
 富岡には自らの卑劣、卑怯を厳しく断罪する掟がない。断罪を可能にするためには、絶対的な規範としての神の存在が要請されなければならないが、富岡にはその存在がない。富岡の卑劣を口にする加野にもまたこの〈断罪する神〉の存在はない。加野に言えることは、従って、富岡は〈運のいい奴〉、自分は〈運の悪い奴〉ということ位である。
 加野は富岡を刺そうとしてゆき子を傷つけ、サイゴンへ送還されて厳しく取り調べを受け、刑に服さなければならなかった〈運の悪い奴〉、富岡は妊娠したニウ、加野による襲撃の刃、結婚を迫るゆき子などをうまくかわして日本へ引き揚げて来た〈運のいい奴〉なのである。
 加野に嫉妬、憎悪、呪詛、諦めはあっても、断罪を許す神、「復讐するは我にあり」の神は存在しない。天井にぶら下がる裸電気の揺らぎを眺めながら、呪いの悪魔と赦しの神に心揺らぐ時を果てしなく過ごす、病床の加野の〈あれかこれか〉の内心のドラマに照明を当てれば、この加野とゆき子の再会の場面は果てしのない地獄的様相を見せ始めたことであろう。
 さて、どのような展開を見せるか。

  一時間くらいで、ゆき子は何とも息苦しくなり、加野に別れを告げて外へ出た。戸外へ出ると、ほっとして、いい空気を吸ったような気がした。心のうちで、加野をみじめな男だと思った。のびのびとした、いい家の息子だと聞いていただけに、この急激な変りかたは、何ともゆき子には気の毒に思えた。(302〈三十五〉)

 加野とゆき子の再会の場面はあっさりと幕を下ろした。加野はゆき子を告発することも弾劾することもできない。加野は、ついに富岡とゆき子の男と女のドラマ、その腐れ縁の泥沼に入ることはできなかった。
 そもそもゆき子が加野を訪ねる必然性はない。富岡がゆき子に加野の住所を教える必然性もあまりない。小説構成上、人工的に敢えて設定された再会場面のように感じる。ゆき子がもし文学の次元で加野に〈謝罪〉するというのであれば、加野の内奥にも容赦なく降りて行かなければならない。しかし、〈罪〉とか〈愛〉とか、〈懺悔〉とか〈復活〉とかいう垂直的なドラマとして構成されていない小説においては、加野の〈内奥〉に降りて行きようもない。ここに書かれてあるように、ゆき子は加野と一緒にいる息苦しさに耐えかねて戸外に出る他はない。つまり、ゆき子の加野訪問は、人間の内奥に踏み込んで、人間の抱えている問題を徹底的にさらけ出すことではなかった。
 ゆき子が加野の部屋にいたのはわずか一時間、戸外に出たゆき子は加野を〈みじめな男〉だと思う。しかし、ゆき子にとって、加野がみじめな男であることは、初めて会った時から、揺るぎのない見解である。再会の場面を設定したからには、ゆき子の見解を根底から覆す、まったく新しい加野を造形しなければならなかったはずだが、芙美子はそれをなし得なかった。

  加野は加野で、久しぶりで日本でめぐりあってみたゆき子の現実の顔は、昔とはいくらも変ってはいなかったけれども、自分が富岡と決闘してまでこの女を欲しがっていたのだろうかと、妙な気がしていたのはたしかである。女の腕に偶然に傷をつけて、加野はそれだけの償いをしたものの、眼の前に坐っているゆき子を見た時には、こんな女のどこに誘われて、あんなことになったのかとおかしかった。あの時の、出先の日本人の生活には、一種の魔がさしていたのかもしれないのだ。みんな、虹のようなものに酔っぱらって暮していたような気がして来る。(302〈三十五〉)

 加野のゆき子に対する思いは冷静である。冷静であれば、異性に夢中になることはできない。そもそも加野はゆき子の内面的なものにひかれたわけではない。長いこと山の中で調査に明け暮れていた加野がしばらく振りに山林事務所に戻って、日本の若い女に接し、慾情の発作に駆られたに過ぎない。
 昭和十八年、戦時下にあって加野の心もまたあやしく狂っていた。戦線において多くの兵士の血が流れている。軍属の一人としてダラットに派遣されていた加野もまた、お国のために働いていた〈一兵士〉としての思いがあったであろう。そういった時代にあってのゆき子に対する慾情の発作であった。富岡とゆき子は加野のこの慾情に〈純情〉〈一途〉を感じ、それを最大限に自分たちの情事の調味料として利用しつくしただけのことであった。ゆき子は、その延長上において今もまた加野をわざわざお訪ねたまでのことである。
 加野は、富岡とゆき子によって利用され弄ばれたまでのことである、という余りにも屈辱的な事実を認めた上でなければ、加野は尋ねて来たゆき子と、腹を割った話、文学の次元での話をすることはできない。ゆき子が帰った後、「こんな女のどこに誘われて、あんなことになったのかとおかしかった。あの時の、出先の日本人の生活には、一種の魔がさしていたのかもしれないのだ」などと思っていたのでは、ゆき子に限らず、女の内部の世界に参入することはできない。ましてや、ゆき子が惚れて離れられない富岡の内心の世界には。
 『悪霊』の読者は、ニコライ・スタヴローギンの観念の世界に圧倒されて、彼の現実世界での余りにも漫画的な、大げさなバカゲタコトの卑称さを見逃してしまうが、ニコライの抱えた観念の問題などにとらわれなければ、彼の卑劣な行為も富岡のそれもたいした違いはない。ニコライは不断に神の存在に呪われた卑劣漢であり、富岡は神なき世界における徹底した生ぬるき人としての卑劣漢である。
 ゆき子はこの神なき世界において、終始一貫して生ぬるき卑劣漢を全うした富岡に執着した。このくらいのことをわかった上で、加野は尋ねて来たゆき子と話をしなければ、ゆき子との新たなダイナミックな関係を作り上げることはできない。ついに加野は、作者の設定の枠を越えることはできなかった。