清水正の『浮雲』放浪記(連載35)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載35)
平成△年7月4日
  ゆき子は今、富岡と酒を飲んで、精神を解放し、富岡に向かって絡む気もおきない。ゆき子は富岡の気持ちなどお見通しだ。どうなるものでもない。とにかく二人は何ら発展性のない腐れ縁を続けているだけのことで、ダラットでも幕を下せず、池袋の安ホテルでも幕を下せず、ジョオと関係しても幕を下せず、心中しようとした伊香保でも幕を下せず、富岡がおせいと関係しても幕を下せずにいる。ここまでずるずると腐れ縁が続くと、この腐れ縁が彼ら二人の本来的な関係性そのものではないのかと思えてくる。
 酒をいくら飲んで酔いつぶれても、意識は再び覚醒せざるを得ない。意識の覚醒を恐れるなら、しょっちゅう酒を浴びるように飲んでいなければならない。富岡は医者に診断されていないだけで、すでにアル中と言ってもいいだろう。富岡にとっては人生から逃亡することと酒を飲み続けることは同じようなものである。もし、富岡に逃亡の果てに希望の光が見えていたのなら、おせいとの駆け落ちに同意して、ゆき子と一緒に東京へ戻って来ることもなかったであろう。富岡がおせいと駆け落ちすることは、ゆき子との関係を相手を変えてなぞるようなものである。富岡を支配する虚無は、彼を本来的な目的へと向かって突き進むエネルギーを生じさせない。
 ゆき子は「今夜は貴方を飲みつぶさせてやるわ」と言ってコオヒイを淹れる。ゆき子はおせいと富岡のことを忘れることはできない。おせいの存在は一度、自殺を空想した富岡を生(性)の側へと引き留める役割を果たした。ゆき子には、もはや富岡を甦生させる力もなければ若い肉体もない。「おせいさんに救われたようなものね」と皮肉を飛ばすのが精一杯のところである。富岡はおせいを〈猿ッ子〉と呼ぶことで、ゆき子の優越感をくすぐっているが、そんなことではもはやゆき子をたぶらかすことはできない。ゆき子は自分の眼でおせいの〈いい軀〉を確認しているし、別れ際、おせいの眼に涙が光っていたことも見逃していない。いくら富岡が「ふうーん」などととぼけたところで、富岡はおせいが予め用意した新しいパンツを依然として身につけているのだ。

  ゆき子はコオヒイ茶碗を富岡のそばへ差しのべて、自分も熱いのをすすりながら、初めて富岡の顔を見た。灰皿に煙草をにじりつけて、富岡もコオヒイを唇へ持って行った。何故ともなく、ゆき子は、今夜は一人きりで昏々と眠りたかった。酒は伊香保以来一滴も飲みたくはなかった。ーーコオヒイを飲み終ると、富岡は酒を買って来ると言って、戸外へ出て行った。ゆき子は富岡の意のままにしておいた。富岡の酒の習慣が、宿命のようにも思える。東京も案外寒かった。
  ゆき子は米を洗う為に母屋の裏口へ水を汲みに行った。ジョオは来てくれたのだろうかとも考えたが、それもどうでもよくなっていた。バケツに水を汲み、小舎へ戻ると、富岡は酒を一升買って来ていた。自分でやかんに酒をあけて、コンロにかけている。
 (289〜290〈三十二〉)

 ここで、ゆき子は初めて富岡の顔を見ている。おそらく、富岡とゆき子は伊香保を発つ時から今までの間、相手の顔を、お互いに見ないで言葉を交わしていたのであろう。信頼を失った相手の顔などまじまじと見ることもない。おせいと富岡の関係性の確証をつかんだゆき子にしてみれば、今更、泣いてもわめいても仕方がない。すべては後の祭りである。作者は「ゆき子は、今夜は一人きりで昏々と眠りたかった」と書いた。相手を責めて泣いたりわめいたりすることをやめたゆき子に残されていたのは、自分の孤独をしっかりと抱きしめて深い眠りに落ちることだけであった。
 実存の消耗などという気取った言い方をしてもしかたがないだろう。ふと、脳裡をよぎったのは『罪と罰』のカチェリーナの疲労しきった生存である。カチェリーナの場合、べつに好きでもない男マルメラードフのプロポーズを受けたことが、彼女における〈踏み越え〉であったわけだが、ゆき子には『罪と罰』の人物たちにおける〈踏み越え〉などというテーマは初めから存在しない。まさに富岡とゆき子は熱くも冷たくもない生温き人であるから、そのぬるま湯から出ることができない。ゆき子は富岡に酒を飲むことを禁じない。酒を抜きにした富岡を考えることさえできない。
 ふと、ゆき子はジョオのことを考える。が、作者は「それもどうでもよくなっていた」と書いた。作者は自分の小説に関して絶対的な権限を持っている。だから、このように作者が書けば、ジョオがこれ以上、小説の展開において重要な役割を演じることはなくなる。
 ところで、批評は作者の権限を認めつつ、しかしその権限に服従することはない。ジョオは『浮雲』において重要な人物であり、ジョオは富岡と一度や二度はきちんと対面して戦う必要のある人物である。わたしは、ジョオの大陸的な豊穣さや優しさを、作者は持続して書くべきだったと思っている。心中の妄想に駆られて、ゆき子を伊香保にまで誘って、死ぬことの代わりにおせいと関係するどうしようもないアホな男を放棄しない作者であれば、ジョオの存在をもまた捨て去ってはならない。ジョオは、たかが、一週間のゆき子の不在で、小舎を訪問しなくなってしまう外国人であってよいのか。
 ジョオは、ゆき子の小舎にたちこめた煙を天窓を開けて外へと放った青年であったことを作者はよもや忘れたわけではあるまい。そこに込められた意味は、ゆき子が富岡との関係を断ち切って新たな生活への第一歩を踏み出したということであった。以後、ゆき子はジョオおよびジョオに象徴される富岡とは対極的な男たちとの関係の中で生きていくべき女だった。その、自然な軌道を無理矢理変更したのは作者である。打ち捨てられるべき男・富岡が作者の加担によって再びゆき子の伴侶としてたち現れてきたことの不自然は拭いようがない。
 ゆき子は惨めなストーカーに貶められた。富岡を手放さなかったのは、小説上のゆき子ではなく、作者である。作者のうちに、富岡のような卑劣漢を絶対に手放さない異様な〈復讐〉の念が潜んでいて、自然な筋展開を曲げてでも、ゆき子は富岡に愛想を尽かして離れて行かないという設定にするのである。ジョオは富岡を越えて魅力のある存在にはならない。二ヶ月後、故郷に帰るジョオがゆき子を一緒に連れていくなどという設定にはならない。ゆき子はあくまでも、敗戦後の日本を生きて行かざるをえなかった、卑怯でずるくて、図々しくて、惨めな男と共に歩んで行く道を選んだ。そんな女ゆき子と富岡の会話を作者は執拗に描いている。

 「酒に淫するほうね」
 「うん、いまのところ、これが最大の恋人だな……」
 「富岡さんて怖いひとだわ。自分のことばかり可愛いのでしょう?」
  燗をした酒を、コオヒイ茶碗についで、ぐうと一口美味そうに飲んで、富岡はじろりとゆき子を見た。
 「可愛いから未練があるンだ。死ぬのは痛いからね……」死んでしまうまでの一瞬の痛みの怖さなンだ。これは怪我のような痛みじゃないからね。命を落す痛みなンだ。なかなか死ねない。自分が可愛いンじゃなく、命に未練があるからなンだ……。君、一杯やらない?」
 「ほしくないの、胃が痛くなるのよ」 
 「そう言わないで、一杯やったらどうだい。いい気持ちだよ」
 「私は御飯を炊いて食べるねからいいわ。お酒は一滴も入らないの……」
(290〈三十二〉)