清水正の『浮雲』放浪記(連載31)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載31)
平成△年6月27日
 作者は「池袋の生活は、この一週間あまりの不在で、いっさいが片づいているような気もした」と書いた。これはゆき子の思いであるが、作者がその思いに加担することで決定的になる。作者は作品の筋書きにおいて絶対的な権力を持っている。ゆき子が一週間を不在にすることで、「いっさいが片づいて」しまう。つまり、ゆき子とジョオの関係は〈一週間〉の不在で片づいてしまったということである。大陸的な豊穣さを持った優しいジョオは、にもかかわらず、卑怯で嘘つきの富岡に敗北してしまったということであろうか。
 これはゆき子の問題なのか、それともそのように設定した林芙美子の問題なのであろうか。もし、林芙美子がジョオにもっと寄り添い、彼の気持ちを丁寧に描いてさえいれば、事情はずいぶんと変わったことになったであろう。ジョオはたがが〈一週間〉ばかりの不在でゆき子を忘れ去るような青年ではなかったであろう。それは、ゆき子が富岡との関係の続行を断念して、ジョオと関係を結んだその時から決定されていた。少なくと作者は、そのようにゆき子とジョオの関係を描き出していた。ジョオを裏切ったのはゆき子というよりは、作者のように思える。
 富岡から速達で、四谷見付駅に呼び出しがかかった時、ゆき子は三十分遅れでそれに応えた。富岡の要請に応えたのは作者であってゆき子ではないという思いが、わたしの中で拭いきれない。ジョオと関係を結んだ時点でゆき子は富岡を捨て去っており、再び富岡の要請に応えて、のこのこ出かけていくゆき子に女としてのに魅力はない。
 この日はクリスマスも過ぎて、しぽしぽと雨が降っていた。遅れて現れたゆき子は赤い絹のマフラを頭から被って、顎の下にきつく結び、背の高い富岡の顔を見上げている。この時、富岡はゆき子に上手にあしらわれている気がする。まさに、その通りであって、ゆき子は富岡と一緒に人生を共にする気などない。三十分遅れて来たということは、すでにゆき子が富岡に別れのフダを渡したということである。設定上の問題で言えば、ゆき子は富岡の要請に応じなかったということである。ゆき子は富岡を捨てて新たな生活に踏み込んで行ったはずなのである。が、作品展開においては、ゆき子は再びボロクズのような富岡の後ろについていくような愚かすぎる女を演じている。
 わたしは、この章〈二十二〉あたりから、批評衝動が著しく減退した。富岡のゆき子との心中妄想のあまりのリアリティのなさ、ゆき子の女としてのあまりのリァリティのなさに、批評することの愚かしささえ感じた。わたしは『晩菊』のおきんに女としての原寸大のリアリティを感じる。しかし、わたしは批評を続行した。『晩菊』は『浮雲』を発表する一年前の昭和二十三年十一月に「別冊文芸春秋」に発表している。林芙美子はゆき子をおきんと同じ女として描くことをやめたことで、ゆき子は現実の女を越えて〈永遠性〉を獲得したとも言える。
 富岡の呼び出しに応じない女であれば、ゆき子はおきんの現実性を体現した女として説得力を持ったであろう。ゆき子はおきんの現実性を引きずりながら、富岡の〈ロマン〉への後追いを開始した。林芙美子はそのゆき子の道行きを全うさせる、その〈虚構性〉に創作家として、人間として賭けた。そのことで、ジョオは『浮雲』という舞台から撤退させられたとも言える。
 小説家は、自分の作品の整合性を保つために、平気で人物の生き死にを決定する。林芙美子が選んだのは薄汚れた卑劣な中年男、敗戦後の日本をおめおめと生き延びる哀れな男富岡兼吾であった。この男を選んだ(たとえ復讐の相手であったとしても)ゆき子は、その意味では日本の女として貞操を守り通したとは言えるかもしれない。女は戦争に負けても、決して負けない力を備えている。富岡は身も心も負けている。こんなだらしのない卑怯な男に最後の最後までつきまとって離れなかったゆき子は、単なるストーカーを越えて、ある種の菩薩のような相貌さえ獲得するに到った。