清水正の『浮雲』放浪記(連載20)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載20)
平成△年5月18日
映画『浮雲』では脱衣場の場面はカットされている。これはシナリオでも同様の扱いがなされている。映画は原作通り、なにもかも再現するわけにはいかないということだろう。原作ではおせいの細やかな心配りがさりげなく描かれている。おせいが木綿の風呂敷を拡げて富岡のぬいだものを片っぱしからせ包みこんでいく場面などは、女流作家林芙美子ならではの、目線の行き届いた描写である。ゆき子が向井清吉と大酒を飲んで浮かれている時に、おせいは富岡に対して女らしい細やかな世話をやいている。おし黙って感情を表にださないおせいを、ゆき子は〈馬鹿な田舎女〉とみくびって安心していたが、富岡と二人きりになったときのおせいは、初々しい世話女房のように振る舞っている。ゆき子が「ボルネオ」の二階で飲み、食い、大声で笑っている間に、おせいはしっかりと富岡を自分のうちにとりこんでしまった。優越感に浸っておしゃべりしている女は、対抗する女に取り返しのつかない隙をつくりやすい。富岡にとって、ゆき子はすでに警戒しなければならないだけの女に化し、おせいは今現在を濃密に関わっている当時者となったのである。

  富岡はさっさと、湯気のたちこめている湯殿へ這入って行ったが、六七人の老若もみわけがつかない男女が、タイル張りの広い浴槽にはいっている賑やかさに気安いものを感じた。おせいも湯殿へはいって来て、入口の隅のほうに膝をついて湯を浴びている様子だった。
  浴槽へ飛び込むと、肌に沁みとおるほどの熱い湯が、冷えきった躯に抱きついて来る。おせいは誰かと、湯煙のなかで話しあっていたが、これもすぐ浴槽へ入って、ゆるい速度で富岡のそばへ寄って来た。肩肉の厚い、白い肌が、赤土色の湯から浮きあがっている。そばへ来て、おせいはにっと笑った。富岡は湯の中で足をのばして、おせいの脚肉にふれた。おせいは沈んで手拭を探すようなかっこうで、手で、富岡の膝にさわっていた。湯が赤いので、首からでは、二人のたわむれは誰にも見えなかった。富岡は、奇怪な笑い顔でおせいの眼を見たが、おせいは少しも笑わない。湯の中の野獣の本能が、おせいの首から湯底に抜け落ちでもしたように、おせいの首は、富岡の首とは一定の間を置いて、西瓜のようにただふわふわと浮いているだけだった。富岡は、この現実はいつか、どこかで演じられたような気がしたが、思い出しようもなく、ただ、じいっと、顎まで湯にひたって笑い顔を浮かせていた。二人ばかりし、どやどやと男たちがはいって来た。富岡は眼の前にいる対象に向って、ひどく原始的な空想に耽っていた。浴槽のなかで誰かが林檎の唄をうたいだした。
(280〜281〈三十〉)

 映画では湯殿につかっているのは富岡とおせいの二人で、原作に出てくる〈六七人の老若もみわけがたい男女〉は登場しない。従ってとうぜん〈賑やかさ〉も〈気安いもの〉もない。富岡とおせいの入っている湯殿には〈広い浴槽〉という感じはまったく伝わってこない。映画では富岡とおせいは家庭風呂に入っているような感じで、他人の眼差しを感じている様子はまったくない。原作におけるおせいと、岡田茉莉子が演ずるおせいは、容貌も性格も違うし、第一、場面がまったく違う。おせいは湯殿に入って来ると、入口の隅のほうに膝をついて湯を浴びている。その様子を注意深く感じているのが富岡である。初めて会ったその日の夜に、富岡はおせいと湯殿に入っているわけだから、その微妙な心理や感情はきちんと押さえておく必要がある。原作ではとうぜんそういった描きかたをしている。が、映画では富岡とおせいはあまりにも自然なかたちで湯殿につかって、ごくふつうに言葉をかわしている。
 「浴槽へ飛び込むと、肌に沁みとおるほどの熱い湯が、冷えきった躯に抱きついて来る」などといった表現にこめられた、富岡の実存の寒さは、映画ではまったく伝わってこない。つまり、映画では混浴の湯殿に入って富岡とおせいがひとの眼を意識しながら、ようやく隣り合わせになるまでのプロセスがすべてカットされている。そればかりでなく、映画では、顔を出した赤湯の水面下でどのようなエロティックな行為が展開されているのか、といったこともまったく伝えられない。首から上のとりすました表情と、赤湯で隠された下半身の男と女の関係を、成瀬巳喜男は何の遠慮もなく切り捨てている。

平成△年5月19日
 赤土色の湯から浮きあがっている「肩肉の厚い、白い肌」を見ているのは富岡であるが、映画ではおせいの白い肌を見ているのは観客の眼差しであって、富岡のおせいに向けられた眼差しはカットされている。ゆるい速度で富岡のそばに寄って来る、そのおせいの白い肌を富岡は富岡流のさりげない視線でしっかりととらえている。「そばへ来て、おせいはにっと笑った」と林芙美子は書いている。このおせいのにっと笑った顔が何とも印象的で、この笑顔はゆき子が思った〈馬鹿な田舎女〉ではくくれない、おせいの素朴で原初的な魅力となっている。