清水正の『浮雲』放浪記(連載18)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載18)


平成△年5月15日
ゆき子はダラットでの悦楽の過去を引きずりながら生きているが、富岡は過去と未来から切り離されたような現在を生きている。ダラットでの生活も、富岡は妻の邦子がいながら安南人の女中ニウと関係を持っていたし、その上にゆき子とも関係し、ニウは富岡の子供を懐妊して田舎へ一人戻り、ゆき子には妻と別れて結婚するなどというできもしない嘘をついて一足先に日本へ引き揚げている。ゆき子がハイフォンの収容所からようやく敦賀に着いて、すぐに電報を打っても富岡は知らん振りを決め込んで何一つ返事を寄越さない。農林省に電話してはじめてゆき子は富岡がり農林省をすでに辞めていることを知る。ゆき子は富岡の家まで押し掛け、富岡との関係の持続を訴える。富岡は邦子と別れるつもりはなく、きっぱりとゆき子と別れようと思う。しかし、池袋の安ホテルで、ゆき子に迫られるままにコオロギのようなセックス(味もそっけもないセックス)をして、それ以降、腐れ縁を続けて、死ぬために伊香保に来るが、死ぬどころか今度は二十歳にもならない、亭主持ちの女を誘惑して、その女となんとかなろうとしている。

平成△年5月16日
おせいは五十年配の男と一緒に暮らすような女であるから、年上の男に惹かれる性格だったのかもしれない。富岡は女にだらしのない男であるが、ゆき子が一目惚れしたように、ある種の女にとってはきわめて魅力的な男だったのであろう。おせいは、富岡の足先が膝にきつく触れたその時から、富岡の気持ちを受け入れている。富岡が伊香保の旅館「金太夫」で酒に酔って歌った安南の流行唄のセリフは「あなたの恋も、わたしの恋も、はじめの日だけは、真実だった。あの眼は、本当の眼だった」であった。昏い冷々とした階段の下で、富岡とおせいはお互いに激しい眼光で向かい合った。もはや、二人の〈恋〉を疑うことはできない。

  谷間の山壁に押しこめられたような、階段の下の仄昏い土間に立って、富岡はやにわにおせいを抱いた。おせいは、息を殺して、富岡に寄り添って、案外、富岡のするままに任せて、富岡の接吻に応えていたが、二階で、ゆき子が大声で笑ったので、富岡はおせいをはなした。おせいは何も言わないで、裏口へ出て行き、富岡に、「暗いから、足もと気をつけてね」と言った。
  足もとに気をつけてねと言った女の言葉に、なま酔いの富岡は、急に本能の目醒めた思いで、また、強くおせいの腰を取ったが、おせいは、富岡の手をふりほどくようにして、狭い石段を降りて行った。四囲は暗かったが、石段の下の電柱に、小さい灯がついていた。その燈火のあたりに、もうもうと湯煙が立ちこめている。電柱のそばの明るい硝子戸を開けて、おせいは富岡の降りて来るのを待っていたが、富岡が降りて行くと、硝子戸の中で、派手な花模様のふり袖を着て、光った帯を結んだ若い女が、下駄をはいていた。
(279〜280〈三十〉)

 この場面が妙な緊張感を漂わせているのは、富岡とおせいの抱擁がゆき子と向井を裏切る行為であり、同時に今後の二人の関係の危うさにある。まさに彼らの関係は〈谷間の山壁〉に繋がれた一本の綱の上で展開される曲芸のようなスリルに満ちている。深い沈黙の抱擁はゆき子の大声によって中断される。ゆき子の大きな笑い声は、富岡とおせいの行為を看破している者のそれではない。大きな笑い声は、ゆき子の〈馬鹿な田舎女〉に対する優越感が、ふたりして部屋の外へと出ていったにもかかわらず微動だにしなかった、その一つの証である。
 ゆき子の大声は、富岡とおせいの〈恋〉を断ち切る警告とはなり得なかった。おせいは、とつぜんの富岡の抱擁に驚いた様子はない。すべては予測通りの行為であり、彼女は息を殺して身を任せる。おせいが接吻に応えたことは、すべてを富岡に任せたということである。彼ら二人が出ていった〈裏口〉と、降りて行った〈狭い石段〉が意味するところをしっかりと見ておく必要があろう。〈裏切り〉は彼ら二人を幸福な生活へと導くことはない。二人して暗く、狭い石段を降りていく行為そのものが彼らの未来を端的に暗示している。
 映画『浮雲』では、富岡とおせいは石段を昇っている。水木洋子の脚本では原作通り、石段を降りている。成瀬巳喜男がなぜ原作と脚本に反するような設定にしたのか判断に苦しむが、考えられるのは彼が林芙美子の小説におけるさまざまな隠喩的表現の重要さを読みとれなかったということであろう。『浮雲』は至る所にきわめてすぐれた隠喩的表現を見せているが、成瀬巳喜男はそれらほとんどの表現に注意を払うことはなかった。先にも触れたが、おせいが〈バス発着場〉近くのバーで働いていたことは、彼女の東京に対するあこがれ、不断の誘惑を考えれば、絶対に〈バス発着場〉を省略できないはずだが、それを平気で省略してすましてしまうというのは、もはや製作期日の制限や製作費の問題ではなく、根本的には原作『浮雲』に対する監督の理解度の問題なのである。
 富岡は狭く暗い石段を下ってもうもうと湯気がたちこめている風呂場につく。石段の下の電柱のそばの明るい硝子戸を開けて、おせいは富岡の来るのを待っている。富岡は入り口で、〈派手な花模様のふり袖〉を着た女と出くわすが、その女をやり過ごして中へ入る。

 「いまの、芸者ですよ」と、おせいが言った。
  富岡は硝子戸を閉めて、おせいの後から、冷い廊下を幾曲りもして低いほうへ降りて行くと、広い湯殿に突きあたった。混浴とみえて、脱衣場の円い籠には、女や男の衣類がぬぎすててあった。鏡の前で着物を着ていた中年の女が、
 「おせいさん、今日は年始に行かなかったが、おとうさんによろしく言っておくれよ。明日はうかがいますってね……」と言った。
  富岡が洋服をぬぎ始めると、いつの間に、そんなものを持って来たのか、おせいは木綿の風呂敷を拡げて、富岡のぬいだものを片っぱしから風呂敷に包みこんでいる。
  洋服をぬぎながら、富岡が四囲の籠を見ると、二つ三つ風呂敷に包んだものがあるので、旅のものの衣類は、盗まれぬ用心に、風呂敷に包んでおくのかとおかしかった。
  おせいも、洋服をぬぎ始めた。
 (280〈三十〉)