清水正の『浮雲』放浪記(連載5)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー


清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載5)
平成△年3月11日
浮雲』論において、ゆき子が初めて正式に牧田所長から富岡兼吾を紹介された日の出来事に関しては詳細に検証した。加野はゆき子にのぼせあがってしまい、まるでゆき子を傷つきやすい処女のごとく見なしている。富岡も加野もゆき子の東京での生活、つまり伊庭との三年間の不倫の関係を知らない。しかし、富岡はすでにゆき子が〈娘〉でないことぐらいは見破っている。だからこそ、女に関して初な加野に向かって、ゆき子は君にはあわないよ、と忠告したりもしたのである。しかし、加野は一途な、思いこみの激しい青年で、酔った勢いもあって、ゆき子の肩に触れ、大胆にも接吻しようとさえした。もし、あの時、富岡が迎えにこなければ、加野とゆき子は関係を結んでしまったかもしれない。
 ゆき子はサイゴンで富岡を見かけた時から、彼に惹かれていた。加野のような色が白くて小柄な男を好きにはなれない。しかし、富岡に侮辱されて、彼に一泡ふかせてやりたいという復讐心にもかられている。もし、加野が富岡の呼び声を無視してやりすごせば、伊庭と別れて人肌恋しい思いにかられていたゆき子が加野に抱かれる可能性は高かった。しかし、加野は富岡の声に応じて藪から道へと姿を現してしまった。加野はゆき子を抱くたった一度のチャンスを自ら台無しにしてしまった。
 加野は、富岡とゆき子のあいだを見誤っている。男の自惚れと虚栄は、相手を的確に認識する眼を曇らせる。加野は、ゆき子も彼に対してまんざらではないと誤解してしまった。罪は加野の自惚れだけにあるのではない。ゆき子はしたたかな女で、男の心を弄ぶ女であったことを忘れてはならない。伊庭との関係も、テキストの表層だけを読めば、静岡の田舎から東京に出てきたばかりの初な娘を、妻子持ちの伊庭が無理矢理犯したとしか思えないが、ことはそう単純なものではないだろう。保険会社に勤める実直な男に臆病な打算があったと同様に、ゆき子にはゆき子の打算も思惑もあって、真佐子に感づかれないように不倫の関係を続ける打算も思惑もあったということである。
 成瀬巳喜男の映画『浮雲』において、加野(金子)の出番はほとんどない。金子信雄のキャラを生かせる場面はほとんどゼロで、いわばきれいごとの、表層の場面で登場するだけである。
 成瀬巳喜男の映画はきれいである。ゆき子役に高峰秀子を抜擢した上に、おせい役に岡田茉莉子をキャスティングしたことで、成瀬版『浮雲』の基本的な性格は決定したと言っていい。
 富岡が求めているのは、岡田茉莉子のような美しい女ではない。バスの停留場に近い小さなバーで働いている〈頬紅を真紅につけた女〉がおせいである。おせいは向井清吉という離婚歴のある中年男の内縁の妻となって、狭いバーで働いているが、その生活に満足しているわけではない。おせいにとって向井清吉も、バーも、それ自体が止まり木である。おせいは、いざとなれば一人でバスに乗って東京へと向かう女である。おせいは不断に、自分を東京へと連れていってくれる男を探しながら、バーでしたくもない仕事をしていたのである。ゆき子を道連れに心中しようと思って伊香保温泉にまでやってきて、結局はオメガの時計を売って東京までの運賃にしようと思う、そんな富岡がうろうろ歩いていれば、おせいのような女はすぐに、カモがネギをしょって来たと思うのである。
 原作において、おせいの眼差しが捕らえた富岡はまったく描かれていないし、映画においては〈頬紅を真紅につけた女〉おせいなどまったく無視されているが、おせいがいつでも向井清吉を裏切る用意のできている女であったことだけは明白である。
 後に、〈頬紅を真紅につけた女〉と思っていたおせいは、実は天然自然に真っ赤な頬をしていたことが判明する。問題は、富岡の眼におせいが〈頬紅を真紅につけた女〉に見えたということである。富岡という男は、邦子がおり、心中までしようとしたゆき子がいるにもかかわらず、いつでも新しい女を探しているのである。