清水正の『浮雲』放浪記(連載4)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載4)


平成△年3月10日
 ゆき子は一度狙いをつけた獲物を逃すことはない。一度や二度失敗しても、そのことでたじろぐことはない。映画ではゆき子(高峰)が富岡(森)の家を直接訪ねたのは一度きりで、その時、妻の邦子(中北)と激しいやりとりをすることもなかった。上から下まで舐めるような視線で邦子にみられることはあっても、そのことで二人の間に救いようのない陰険な空気が流れることはなかった。
 小説では、ゆき子は二度富岡の家を訪れている。二回目の時は、富岡が不在で、この時、初めてゆき子は邦子に会っている。邦子がはでな化粧をして現れたゆき子を不審に思うのは当然で、邦子は富岡に女の素性と関係を問いつめる。富岡はその場しのぎの嘘で切り抜けるが、邦子の疑いはますます深まっていく。ゆき子はゆき子で、再び池袋のホテイホテルで富岡と逢った時に、ゆき子は初めて逢った邦子に関して、とても厭な、たまらない気味の悪い笑い方をしたと言い、さらに前歯に金歯なんか入れてる奥さんとキッスするひとってぞっとするわ、とまで言う。富岡はゆき子に邦子の悪口をずけずけ言われていい気持ちはしない。尤も、邦子はゆき子のことを〈最も厭な女〉と富岡に言っている。
 映画の中北千枝子演ずる邦子は、確かによく見ると前歯に金が入っているが、モノクロなのでよほど注意しなければわからない。つまり成瀬巳喜男は邦子の金歯を特に強調することで、邦子の派手好きな側面を際だたせることはない。映画の邦子はゆき子の悪口を言わない。ゆき子も邦子を罵ったりすることはないが、しかし金歯については小説通りのセリフを発している。おしなべて、映画では邦子もゆき子も上品な女性として振る舞っており、女が胸の底の底に隠し持っている厭な闇の領域を露呈することはない。
 映画で実に美しい女として登場するのは、ダラットの森で、富岡(森)の後を追って現れた白いワンピース姿のゆき子(高峰)である。まるで白雪姫のように輝いている。ゆき子は身にまとった白いワンピースのごとき純潔そのもののお姫様として現れる。こんな美しい女性が画面いっぱいに笑みを浮かべて見つめれば、どんな気むずかしい観客もつい頬を緩めることになろう。
 映画では、富岡(森)に侮辱され、怒って食堂を出ていったゆき子(高峰)を追って加野(金子)が二階のゆき子の部屋を訪れる場面がまるまる省略されている。なにしろ小説では、ゆき子の部屋の扉は鍵がかかっておらず、部屋の中を覗いてみると、ベッドの上に、女学生のはく黒いパンツが脱ぎ捨てられている。久しぶりに日本の女に逢って加野は慾情してしまう。加野のまなざしに捕らえられた黒いパンツや、華僑の別荘跡で展開されたゆき子と加野の息詰まるようなエロティックな場面は、映画ではすべて省略されている。
 加野久次郎の役は金子信雄が演じているが、このキャスティングは成功している。ただし、金子は小説上のリアルな加野を演ずる場面を与えられなかった。小説でも加野が富岡を刀で襲いかかり、かばったゆき子の左腕を傷つけてしまったという事件は現在進行形で描かれることはなかったが、だからこそ映画ではそのシーンをリアルに映像化できたはずである。なぜ、成瀬巳喜男は〈黒いパンツ〉や慾情にかられた加野とゆき子のシーンを撮らないのか。二時間ばかりの映画の中に長編『浮雲』のすべてを映像化することはもちろん不可能であるが、要するに、この映画はゆき子を美化するあまり、ゆき子の闇を露呈するようなシーンは敢えて採用しなかったということになろうか。
 ダラットの森の中を、富岡を追って歩くゆき子が、その日の仕事の指示をあおぐためだけでなかったことは明白である。ゆき子は富岡の背中に〈卑しさ〉を見ている。ゆき子はこの〈卑しさ〉に期待しているからこそ、富岡の後をどこまでも追って行くのである。邦子という妻がありながら、安南人の女中ニウとも肉体関係を結んでいる富岡が、ゆき子の秘められた慾情に感応しないはずはない。いきなり振り向いた富岡はゆき子を抱きしめ、ながい接吻をする。ゆき子はすっかり上気して、富岡の肩に爪をたてて苛れている。この時、富岡がゆき子を押し倒せば、そのまま関係が成立したことは言うまでもない。しかし、この時、富岡はそれ以上の行為にでる情熱を持つことはできなかった。と、その瞬間、野生の小柄な白孔雀が、ばたばたと森の中を飛んで消えていく。
 『浮雲』論で詳細に批評したように、この〈白孔雀〉が、まさにこの時を逃さず飛んだことのシンボリックな意味は『浮雲』全編を支配する重要な事件なのである。林芙美子の『浮雲』においてシンボリックな描写は至るところに見られる。が、成瀬巳喜男の映画において、象徴的な場面が映像として表現されることはなかった。
 映画において富岡(森)とゆき子(高峰)は手をつなぐことはあっても、激しく抱擁する場面はない。ましてやゆき子が慾情にかられ、富岡の背中に爪をたてる場面も、上気したそのエロティックな顔がアップで映されることもない。ダラットの森での富岡(森)とゆき子(高峰)は、小学生にも見せられる清潔感あふれる、まるで楽しいピクニックでもしているような場面に変換されている。映画だけを観ていると気づかないが、執拗に、丁寧に原作と比較して見ると、映画は小説の表層をなぞっているだけの作品に見えてくる。改めて、林芙美子の文学の力、人間探求の妥協なき闘いの成果を味わっていることに気づく。

 富岡と加野とゆき子の三角関係のドラマの中で、重要な場面の一つとして、加野が富岡に内緒でぶ厚い角封筒をゆき子の膝に置く場面がある。ダラットの森で富岡とながい接吻を交わした日の午後の、食堂でのことである。この時、富岡はトイレにたって不在だったが、ゆき子はその封書を白いハンカチにくるんで、戻ってきた富岡に知られないようにしている。これがゆき子である。富岡は女にだらしのない、どうしようもない男だが、しかし、ゆき子もまた富岡に負けず劣らずの女であったことを見逃すわけにはいかない。林芙美子は人物を描くにあたって、きれいごとをすべて排除している。