清水正の『浮雲』放浪記(連載2)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載2)


平成△年3月8日
 どてら姿のまま家を出てきた富岡は半年ぶりに逢ったゆき子と道を歩きながら話をする。富岡の表情は、とつぜん家まで押し掛けてきたゆき子に当惑の色を隠せない。ゆき子は富岡に逢った嬉しさを素直に顔に出している。森雅之高峰秀子が並んで歩く姿に観客は素直に魅入られる。観客の大半は、このときゆき子の内面に感情移入して画面を観ているから、逢いたい男に逢えたゆき子の喜び、その抑制された喜びに同調してしまう。

 富岡は最初、家の近辺を歩いて決着をつけてしまうくらいの安易な思いで出かけてきたが、ゆき子がそんなことでは承知しないのを見てとって、着替えのために家に戻る。崩れた石塀に腰を降ろし、ゆき子は富岡の来るのを待っている。しばらくして富岡は背広に着替えてゆき子のもとへやって来る。
 映画でも小説でも、家に戻った富岡をカメラが追って描くことはしない。高峰秀子のような若い美しい女が、とつぜん現れて、富岡に用事があるなどと言えば、どんなに鈍感な妻でも不審に感じるのは当たり前のことで、いったん家に戻った富岡と妻邦子のあいだでひと悶着起きないほうが不思議ということになる。しかもこの時、ゆき子は富岡の母親と妻の、二人の女に出会っているのだ。富岡がどんなにとりつくろって嘘をついても、二人の女を信用させることはできなかったはずである。そんなこんなの、描かれざる富岡と妻との場面を経て、背広姿でゆき子の前に再び現れた富岡を見なければなるまい。
 映画では、池袋あたりの光景は復興のエネルギーに満ちて、多くの人が行き交って賑わっている。東京大空襲で廃墟と化した砂漠のような、焼け野原はまったく映し出されることはなかった。富岡とゆき子はホテイホテルという小さな旅館に入る。小説では、二人がこの旅館の硝子戸を開けて入りしな、髪振り乱し、チュウインガムをくちゃくちゃして靴をはいていた蒼い顔の女が扉に躯をぶつけるようにして外へ出ていく場面がある。おそらくこの女は進駐軍の兵士を相手にしているような売春婦なのであろうが、映画はこういった女の表情を写して、敗戦後の屈辱的な性風俗を直視することはない。
 富岡に半年遅れて日本に引き揚げてきたゆき子は、田舎に帰ることもせず、昔の不倫の男伊庭の家に居候している。富岡はどうやら邦子と別れるつもりはさらさらなさそうだし、再就職もままならない。つまりゆき子にとってこの〈蒼い顔〉の女はまったく無縁の女ではない。この女はゆき子の未来の姿をも反映しているのである。
 従って、もし私が監督なら絶対に省略できないシーンであるが、成瀬巳喜男はバッサリと切り落とした。小説の映画化、特に長編小説の映画化の場合は、ディティールにこだわりすぎると、原作を越えた大長編映画とならざるを得ない。二時間程度の映画作品に仕立てるためには、大胆な省略もやむを得ないということになる。
 場面は旅館の一室、憔悴しきった表情の富岡(森)と不満を精一杯抑制したゆき子(高峰)の姿が映し出される。小説ではこの旅館の一室が、市場が真下に見える二階の四畳半と記されている。汚れた畳の上には、煙草の焼け跡が点々とあり、緑色の壁には何本もの引っかいた筋がついている。部屋の隅には汚れた赤い無地の蒲団が二枚積み重ねてあり、蒲団の上には覆いのない、油でべとべとに光った枕がおいてある。薄汚れた、この部屋の光景そのものが、富岡とゆき子のいわば薄汚い関係(腐れ縁)を端的に描き出しているが、映画はもっぱらダンディーな富岡(森)とこぎれいに身を整えたゆき子(高峰)の姿を映し出している。
 映画では畳についた煙草の焼け跡も、ひっかき傷のついた緑色の壁も、赤い蒲団も、油でべとついた枕にも何の注意も払われることはない。ダンディでインテリジェンスあふれる中年男と美しい女が、画面いっぱいに映し出されるばかりで、その背景、彼らの人生の負の側面を臆面もなくさらけ出しているような光景に観客のまなざしを向けさせるような演出はない。

 小説の部屋は床の間もなければ、卓子も火鉢もないがらんどうの部屋で、まさに富岡とゆき子の空虚な内的世界を反映している。が、映画では床の間に花をさした花瓶が置かれているし、テーブルもあって、その上に頼んだ酒のお銚子が乗っている。
 小説で、富岡は緑の汚い壁に凭れて長い膝小僧を抱いている。ゆき子は赤い蒲団に肩肘ついて横座りし、ジャケツの胸の上から大きなまるい乳房を叩くようにして掻いている。すさんだ、やけっぱちな、どうにもならない感情を抱いてイライラしているゆき子の捨て鉢な姿を小説は的確に捕らえている。富岡の膝小僧を抱いて壁にもたれ掛かっている姿にも、別れのカードを胸懐に隠し持っていながら、それをゆき子の眼前に差し出すことのできない、優柔不断な、卑怯な男の姿が逃げ隠れようもなくさらけ出されている。映画の富岡(森)とゆき子(高峰)は、人間の醜い姿を、彼らの美貌が覆い隠してしまったかのように見える。
 映画は人物の姿や、戦後まもない頃の東京の街を具体的に映し出すので、そこからさらにイメージを膨らませるということはない。富岡兼吾を森雅之が演じ、ゆき子を高峰秀子が演じれば、彼らとは別の容姿を敢えて思い浮かべる観客はいない。小説を読む限りにおいては、読者は頭の中で、さまざまに富岡やゆき子を想い浮かべる。場面場面によって統一的なイメージから逸れたものを想像することもある。
 成瀬巳喜男の映画『浮雲』と林芙美子の『浮雲』の決定的な違いの一つに、セックスの場面がある。小説においても二人のセックス場面が露骨に、具体的に描かれることはないが、しかしそこに至るまでの描写によって、読者は十分に描かれざるセックスの場面をリアルに想像することができる。
 小説で、ゆき子は富岡の〈激しい男の感情〉を待っている。我慢しきれず、ゆき子は富岡に大胆ににじり寄って行くと、富岡の膝小僧にあごをすえる。要するに、こういった大胆な迫り方をするのがゆき子のやり口であって、相手を脅したり、すかしたり、甘えたり、手練手管を尽くして迫っていく。
 ゆき子は決してばかな女ではないから、邦子と別れられない富岡が、ゆき子のことを本当には愛してなどいないことをよく知っている。ゆき子は富岡が貧乏揺すりをひっきりなしに続けながら、胸ふところにしまい込んだ別れのカードを出しそこねてイライラしているのを承知の上で、その神経質に震えている膝小僧に自分のあごをすえるのである。
 映画では、ゆき子の心理の奥底に潜む魔性を極力抑えて展開していくが、小説ではゆき子の女のしたたかな側面に関しても、富岡の口を通して容赦なく暴かれていく。いつまでも貧乏ゆすりをして「知らないふりをしている」富岡に、ゆき子は「私が、厭なのでしょう?」と訊く。この聞き方が実に巧妙である。
 富岡がここで本心を吐露すれば、その通りと答えるしかないだろう。富岡はゆき子とのダラットでの悦楽の日々を、日本に引き揚げて来てまで続ける気持ちはない。戦中戦後の苦しい暮らしに耐えて、富岡家を守ってくれた妻の邦子を、自分の勝手で捨てることはできない。富岡が一人密かに決断したのはゆき子と別れることであった。家にまで押し掛けてこられた富岡は、ゆき子にわずかな手切れ金を渡して決着をはかろうとした。卑怯、卑劣といくらののしられても、農林省を辞めて、材木関係の商売に乗り出したばかりの富岡にできることはその程度のことでしかない。
 富岡はゆき子に「私が、厭なのでしょう?」と挑発されて、正直に自分の胸の内を吐露することができず、持って生まれた毒舌家ぶりを発揮して「何を言ってるンだい。女って呑気だね」と皮肉を言ってしまう。富岡とゆき子の腐れ縁が、いつまでたっても幕が降りずにだらだら続いていくのは、富岡がゆき子の巧妙な挑発に乗って、ずるずると引きずり込まれてしまうところにも一つの原因がある。ゆき子は富岡の言葉を受けてすぐに「呑気じゃないわ。私、捨てられるンだったら、こんなにして戻っては来ない、加野さんといっしょに戻って来たわ。ーー私、判ったのよ、富岡さんの気持ちが……」と言う。