清水正の『浮雲』放浪記(連載1)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載1)
平成△年3月6日
映画『浮雲』と原作『浮雲
 今回、講演「『浮雲』に見る林芙美子女の一生」(ふれあい塾あびこ・市民活動フェアin我孫子2010参加企画。2010-3-7)の用意もあって、成瀬巳喜男の映画『浮雲』を丁寧に観直した。小説ではゆき子が日本に引き揚げてきた年代がはっきりと書かれていないが、映画では最初に敦賀に引き揚げてきた場面ではっきりと「昭和二十一年初冬」と字幕が出ている。富岡兼吾は一足先の五月に日本に引き揚げているが、結婚まで約束していた富岡とゆき子がどうして一緒に帰って来なかったのか。その点に関しては小説、映画ともに満足な説明はない。推察するに、富岡は妻の邦子を説得する時間も欲しいということで、うまくゆき子を丸め込み、後に加野がゆき子に語ったように狡く立ち回って、自分ひとりだけ、さっさと引き揚げてきたということだろう。
 ゆき子は三年ぶりに日本へ帰って来たというのに故郷の静岡には帰らず、富岡の家を訪ねる。小説では、ゆき子が富岡の家を訪ねるまでに、伊庭の家での出来事など事細かに描かれているが、映画では省略されている。ゆき子が富岡家を訪ねて玄関先に出てくるのは母親だけであるが、映画では、母親が奥に退いた直後に、不審そうな面もちで妻の邦子(中北千枝子)が顔をのぞかせる。妻と愛人の初めての対面であるが、妻の邦子はその真相を未だ知らないままである。

 小説では、ゆき子が邦子と会うのは、最初の訪問の時ではない。映画は二つの場面を一つに合成して辻褄を合わせている。邦子の疑わしい表情、ゆき子のばつの悪そうな顔を交互に写して、二人の女の微妙な感情を巧みに表現している。小説での邦子は取り澄ました感じのインテリ風に描かれ、嫉妬と憎しみにかられているゆき子の口から〈前歯に金歯を入れた女〉と揶揄されている。

 邦子は富岡の友人小泉と結婚していたが、どういう理由でか富岡と再婚した女である。小説では、富岡、小泉、邦子との間に生じたであろう三角関係の泥沼はいっさい書かれていない。富岡と邦子のやりとりもほとんど描かれておらず、小説の読者は邦子に対するイメージをつくりにくい。映画では、いきなり邦子が登場してくるので、中北千枝子演ずる邦子が圧倒的に観客の脳裏に焼き付くことになる。
 中北千枝子の演ずる邦子は、四年ものあいだ、富岡がダラットで安南人の女中ニウやゆき子と悦楽の日々を送っていたことも知らずに、富岡の舅にきまじめに仕え、戦争中の苦しい孤独な暮らしに耐えてきた女という感じがよくでている。小説では、邦子は妻というよりは、何か妻という設定をされただけの置物のような存在で、自分の個性を発揮する場面を用意されることはなかった。
 小説で、ゆき子の家族は誰ひとり登場しない。伊庭の兄鏡太郎の嫁がゆき子の姉という設定になっいるが、この姉の名前さえ作者は記そうとはしなかった。ゆき子には姉のほかに弟もいるが、彼に関しても何の説明もない。静岡の実家に両親がいるのかどうか、小説も終わり近くになって、つまりゆき子が死ぬ間際になって、静岡の〈継母
〉に手紙を出そうかと思うことが書かれている。父親に関してはいっさい触れない。ここには実父の宮田麻太郎に対する林芙美子の特別な思いが秘められているようにも感じられる。
 母のキクが籍に入っていなかった宮田と別れ、宮田の使用人であった沢井喜三郎と一緒になったのは、芙美子八歳の時である。以来、芙美子は行商の旅を強いられ、小学校も転々としなければならなかった。母親と自分を最後まで入籍しなかった実父宮田麻太郎に対する芙美子の思いは、複雑過ぎて言葉に表現することもはばかれたのであろうか。いずれにしても『浮雲』におけるゆき子の〈父親〉も、そして富岡の〈父親〉も完璧に不在のまま処理されていることは注意しておく必要があろう。
 ゆき子の突然の訪問に、仕方なく富岡は顔を出す。森雅之演ずる富岡兼吾はまさにはまり役で、これ以上のキャスティングは考えられない。ゆき子役の高峰秀子ははっきり言って、原作とかけ離れた美女で、この美貌という点に関しては、小説上のゆき子からはるかに逸脱している。小説を映画化する時に、女主人公が美人でなく、ごく平凡な容姿であった場合どうするかというのが、一つの悩ましい問題であろう。多くの観客を動員しようと思えば、やはり美貌の女優を起用するのが順当であって、どこにでもいるような平凡な容姿の女優を起用しても、観客の心を魅了できないということになろう。
 高峰秀子は『放浪記』で芙美子役を演じた時は、意図的に美貌を隠して特別のメークを施していたが、それでもやはり〈美〉がこぼれそうであったことを否めない。
 小説上のゆき子と高峰秀子演ずる映画のゆき子は、厳密に言えばまったく別物と言うしかない。こんな美女がゆき子役を演じて、ほかの美しい女に嫉妬するなどという場面を作ることはできないだろう。原作でのゆき子は「地味で、いっこうに目立たない人柄」「額の広い割に、眼が細く、色の白い娘だったが、愛嬌にとぼしく、どことなく淋しみのある顔立ちが人の眼を惹かなかった」と書かれている。ゆき子と一緒にタイピストとして派遣された五人の女の中で、篠井春子は一番美人で、李香蘭に似た面差しであったと書かれている。だからこそ、春子は小パリとも言われた美しいサイゴンに派遣が決まったのだと、ゆき子は嫉妬混じりの感情にかられたりもする。高峰秀子のゆき子が、こんな嫉妬の感情におそわれるゆき子を演じるのは不可能である。(続く)