「じゃかるた新聞」 2011年8月3日第一面

「じゃかるた新聞」 2011年8月3日の第一面の記事

○ 林芙美子の足跡を探る 日大芸術学部
 戦時中の女流作家の南方訪問
 東ジャワで村長と交流 
 パレンバンの学校で講演

 

太平洋戦争前から戦後にかけて活躍した小説家の林芙美子が、日本軍宣伝班としてインドネシア各地を巡回した際の足跡をたどろうと、日本大学芸術学部文芸学科の研究者がインドネシア入りし、現地調査を開始した。従軍作家として軍当局の厳しい監視下に置かれながらも、自由奔放な性格から別行動を取るなどして、各地のインドネシアの人々と交流した記録を掘り起こし、日本近代文学史に残る重要作品に与えた影響を探る試みだ。

調査は、今年の林芙美子没後六十周年や日大芸術学部創設九十周年の記念事業の一環として実施。庶民の目線から、庶民の生き様を分かりやすい言葉でつづったベストセラー作家を再評価するため、同学部の清水正教授を中心に研究を展開している。

今回、林が「地上の楽園」と呼んで愛したインドネシアに残した足跡をたどるため、山下聖美・准教授らが二カ月以上かけて各地を回り、当時の関係者の証言や記録の有無を探る。

山下氏によると、作家研究の観点からの主な関心は二点。代表作「浮雲」に描かれた舞台は当時の仏領インドシナベトナム)ではなく、ボルネオ島など蘭領東インドインドネシア)だったのではないか。また、女優・森光子による二千回公演の劇で知られる出世作「放浪記」のジャワ版とも言える作品があったのではないか。

日本国内での調査から、林は生前、その放浪癖で各地の温泉旅館や料理店に色紙などを書いて残し、訪問先の人々に親しまれていたことが分かっており、一九四二年から四三年にかけて回ったインドネシアでも、さまざまな足跡が残されている可能性があるという。

■軍政下で自由奔放に
林は一九四二年十月、水木洋子ら他の女流作家や新聞・雑誌編集者とともに広島を出航。シンガポール、マレーシアを経由し、同年十二月、東ジャワのスラバヤに到着する。

ボルネオ島に渡り、南カリマンタン・バンジャルマシンなどを訪れた後、東ジャワ・モジョクルトのトラワス村では、村長の自宅に宿泊したり、小学校の教室に入り、生徒とともに写真に収まったりしている。四三年の日本語紙「ジャワ新聞」には「カンポンで『美しき放浪記』執筆」の見出しが躍る。

山下氏は「従軍という特殊な状況ではあったが、軍と別行動し、現地の人々と積極的に交流していた。それが許されたのは、軍人にも好かれる資質が彼女にあったからでは」と推測する。

特に親しくなった地元貴族のスペノ村長については、作品の題材にしようと思ったのか詳細な情報を書き留めており、「モロッコを二回訪れたことがある」などといったメモも残されている。

パレンバンでは日本語学校「瑞穂学園」で講演を開催。この講演を聴いた当時十五│二十歳のインドネシア人の生徒たちが、その感想を見事な日本語でつづり、林はこの感想文や生徒のスケッチを持ち帰り、日本で大切に保管していた。

さらに林はパレンバンからジャンビ、パダン、ブキティンギ、メダンなどを回り、アチェまで三千キロに及ぶスマトラ島縦断ドライブを敢行。林の研究者である望月雅彦氏は「軍政下の大胆な試み」と指摘している。

道中で日記を書くことも許されない厳しい監視の目があったが、バンジャルマシンでは朝日新聞からの出向者も多かった日本語紙「ボルネオ新聞」の新聞作りに参加し、見聞記などを寄稿している。週刊婦人朝日に掲載された現地在住の日本人女性との座談会「ボルネオの花束」なども行っている。

「中国へ従軍した初の女流作家として注目を集めた林が、南方では自身の大らかな明るい性格と合致する何かを感じ、創作準備を進めていたとみられる形跡がある」。山下氏は、大宅壮一阿部知二といった男性の南方徴用作家とも異なり、自らの意志で南方への従軍に志願し、体験を創作に生かそうとしたことを重視する。

山下氏は自著「女脳文学特講」(三省堂)で、林を含む明治・大正・昭和の激動の時代を生きた女性作家たちを取り上げた。「出世作の放浪記など、林の作品は現在のブログの文章のような軽妙さが特徴。新しい世代の読者を惹き付ける魅力がある」。インドネシアでの足跡を明らかにすることで、謎に包まれた女流作家の全貌を明らかにしたいと抱負を語った。

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