日野日出志の「女の箱」論 (連載16)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載16)

清水 正

「女の箱」論余話
「女の箱」を読んで批評してみたい気持ちになったので、読後すぐに書き始めた。今、わたしは林芙美子の『浮雲』論を一昨年から断続的に書き続けているが、「女の箱」の女と青年に幸田ゆき子と富岡兼吾を重ねていたところもある。富岡兼吾は日本に妻がありながら、派遣されたダラットで安南人の女中ニウと肉体関係を結び、さらに日本からタイピストとしてやってきた幸田ゆき子とも関係を結ぶ。日本が戦争に負けると、富岡はゆき子より先に一人で日本へ引き揚げてしまう。別れる時に富岡は、妻と別れてゆき子と結婚することを約束する。半年遅れでゆき子は鶴賀に引き揚げてくるが、富岡に何度電報を打ってもなしのつぶて。ゆき子は農林省を辞めた富岡の家を探し出して押し掛ける。富岡はゆき子と別れるつもりで家を出るが、池袋の安ホテルで関係を結び、その後ずるずると腐れ縁の泥沼を這いずり回ることになる。富岡兼吾は狡くて卑怯な男で、いったいこんな男のどこに魅力があるのかと思ってしまうのだが、ゆき子はこの男から離れることができず、男を屋久島まで追ってその地で一命を落としている。

浮雲』を執拗に読み続けていると、富岡兼吾のそれなりの魅力が伝わってくる。さて、「女の箱」の青年であるが、彼にはいったいどんな魅力があったというのであろうか。描かれた限りでみれば、彼の鍛え上げられた筋肉質のからだとセックス力だけである。ゆき子の場合は、富岡の虚無的なポーズとその肉体に惹かれたことは明白である。林芙美子は具体的にゆき子と富岡の濡れ場を描かなかったが、ゆき子が富岡のセックス力の虜になったことは間違いない。「女の箱」において女と青年の濡れ場は八コマを費やして描かれている。青年のセックス力は確かに具象化されているのだが、しかしその絵にエロスを感じることはない。死をはらんだ精神性を持ち合わせていない青年のセックスはエロスの領域に踏み込んでいけない。彼のセックスは腕立て伏せを何回できるか試しているような感じに見えてしまう。セックスはスポーツではない。女と青年のセックスには淫靡な感じ、〈濡れ場〉という感じがまったくしない。

女が箱を蒐集することも、青年とセックスすることも、彼女の自分勝手な思い(妄想)に基づいており、そこには他者との実存的な交流がない。女は〈思い出〉を箱詰めすることで客体化してしまう。つまり〈思い出〉をモノ化することで、それから命を奪ってしまうのである。〈思い出〉を宙を生き生きと飛翔する蝶のように蘇らせるのではなく、コレクターのように虫ピンでさされた標本の蝶(死と化したもの)としてしか眼前に取り出せない。女が望んだ〈永遠の愛〉とは、まさに〈標本にされた蝶〉のようなもので、相手を殺して箱詰めしなければ獲得できないという、本来的な愛とは真逆の倒錯愛ということになる。

青年は女の倒錯した〈永遠の愛〉にモノとして参加しただけのことで、その実質的な精神の世界に参入することはできなかった。描かれた限りでみれば、女は他者が自らの精神領域に一歩として踏み込むことを許していない。女はしばしば相手の青年に「愛している?」と聞いているが、この問いは彼女自身を含め、青年そして読者にすら、その本質的な意味が理解されていないと言っていいだろう。女を真に愛しているなら、彼女の〈愛〉の虚妄を突いて、本来的な愛の姿を見せてあげなければならない。

様々な大小の箱に詰め込まれた〈虚無〉の実体をさらけ出し、箱を必要としない愛を実現しなければならない。そのためには、女がどうして〈箱集め〉というマニアッックな趣味にのめり込んでいるのか、その原因に肉薄していく思いやりがなければならない。青年は女の望む虚妄の〈永遠の愛〉に便乗し、肉の快楽をむさぼろうとしたにすぎない。虚妄の愛に生きる女は青年の功利主義的な打算を撃つことができない。同棲して一年間、女の愛の〈虚妄〉と青年の快楽と生活上の〈打算〉はそれなりにバランスをとれていたが、青年が〈打算〉の対象を女以外のものに求め始めたことで、破綻の罅を決定的に深めた。

青年の想像力のなさについてはすでに指摘したが、このことは女も同様である。青年が女の何を求めていたのか、この点に関する的確な認識を持っていれば、それなりに割り切った関係の次元にとどまれたと思うが、女は同棲相手の青年にいわば過剰な期待を寄せてしまった。そもそもの初めから二人の間には溝があり、その溝をセックスという肉体上の合体で埋め合わせたような錯覚に陥ったのが女であった。

本来的な愛の関係の構築を望むのであれば、女は青年との間の溝を凝視し、その性格を的確に把握し、その上で橋を架けなければならない。人間は孤独な存在である。自らの孤独に徹することでしか、相手の孤独と触れ合うことはできない。女が己の妄想的願望にとらわれている限り、青年の姿を的確にとらえることはできない。青年の肉欲や打算を見極めた上で「愛している?」と聞くようなおんなであったのならば、女は現実の世界をしたたかに生き抜いていったであろう。が、見ての通り、女が望んでいたのは〈永遠の愛〉であり、その虚妄の愛を実現するためには相手を的確に認識してはならなかった。

二人の間に横たわる溝を凝視すれば、彼女が望んでいた〈永遠の愛〉はその虚妄性を否応なく晒すことになる。相手を〈毒殺〉し、一つの箱に二人で〈死体〉として入り込んでも、それを〈永遠の愛〉と言うことはできない。〈毒殺〉は相手の意思を無視した殺人であり、〈永遠の愛〉という欺瞞の衣装を被せた〈愛の破綻〉である。否、二人の間には肉体的次元での結合はあっても愛はなかった。その意味では女は〈愛の破綻〉すら実現することができなかったと言える。

 空(から)の鳥かごがぶら下がっている光景が鮮やかに蘇ってくる。二人の死体が入った大きな木箱もやがて片づけられ、二人が一年間過ごした六畳一間のがらんどうを想うと、二人の〈愛〉の実体(無)を全身に感じる。そこにはただ風が吹いているだけ、といった感じで、畳の目だけが異様なリアリティを刻んでいる。