日野日出志の「女の箱」論 (連載15)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載15)

清水 正
 女は〈永遠の愛〉のために青年を毒殺し、自らも箱の中に入って自殺した。作者が最後のコマで描いた箱詰めにされた二人の死顔にはみじんの苦悶の痕跡も残っていない。ここには女が望んだ〈永遠の愛〉に限りなく寄り添う作者の優しい眼差しが注がれている。この〈優しさ〉には、青年を毒殺したその〈殺人〉を〈悪〉として厳しく告発し裁く視線が混じっていない。作者は青年を殺した女も裁かないし、女を裏切ろうとした青年も裁かない。女が青年を殺そうとした動機は彼の〈裏切り〉にあるが、その〈裏切り〉に対する〈復讐〉の念も、女が望んだ死を通しての〈永遠の愛〉の前では雲散霧消してしまうのである。

 さて、問題はこの〈永遠の愛〉がどのような性格をはらんでいたのかということである。ふと、脳裡をよぎったのは宮沢賢治の童話「よだかの星」である。よだかは食物連鎖の地上世界に嫌気がさし、ここではないどこか遠くの世界への逃亡を試みたが、太陽にも夜の星座にも頼みを拒まれ、執拗な飛翔の繰り返しの果てに、ついに力尽きて地上に落下し、血塗れになって息絶える。が、作者宮沢賢治は地上に叩きつけられた無惨なよだかの死骸を注視し続けることなく、〈星〉になったよだかに読者の眼差しを向けさせる。

「女の箱」の最後のコマ絵もまた、女の理想に同調した〈永遠の愛〉の成就こそが強調されている。作者がリアルに描いた〈死〉は、女に殺され箱詰めにされていた文鳥の、蛆が這いずり回っている死骸であった。もし、作者が毒殺された青年と自殺した女のリアルな〈死骸〉にこだわったとすれば、眼を覆いたくなるような腐乱した二人の死体を描かなければならなかったであろう。腐敗して崩れ落ちた肉片にまとわりつく無数の蛆、部屋いっぱいにたちこめた腐臭……これが〈死〉の現実であり、女が望んだ〈永遠の愛〉の紛れもない赤裸な姿である。

 女と青年の結合は、相互に肉体的次元での快楽をもたらしていたが、そもそもの初めから二人の間には埋めることのできない深い溝が横たわっていた。この溝は肉の結合時に埋め合わされたかのような錯覚を女に与えていたが、青年の方はセックスの時にも冷静な自意識を保持していた。青年が女をはるかに上回るしたたかな処世術を心得ていれば、毒殺される前にトンズラしていたであろうが、彼はどこかでこの女をみくびっていた。結果として彼は女の妄想とも言うべき〈永遠の愛〉の犠牲となった。

 女が望んだ〈永遠の愛〉は生きてある現実の未来に実現できるものとして想定されていなかった。彼女にとってのユートピアはすでに過ぎ去って〈ない〉、過去の〈幼少期〉にしかない。女は現実の世界で、この〈ユートピア〉が実現しないことをよく知っている。女が選んだ青年は、人生の喜怒哀楽を共に生きる者ではない。女はそれを十分に知った上で、彼を殺す口実を見つけようとしていたに過ぎない。女にとって青年は、現実を共に生きる伴侶ではなく、死の道連れとして選ばれていただけのことである。しかも、この〈道連れ〉は、女にとって〈この青年〉でなければならなかったわけでもない。

 愛し合っている二人が心中によって〈永遠の愛〉を獲得したというのであれば、最後のコマ絵は真に読者の感動を誘ったかもしれない。が、このコマ絵は女の一方的な願望の成就でしかないことによって、それがとどんなに美しく描かれようと、欺瞞の〈永遠の愛〉でしかない。

 女が青年によって得たのは肉体的快楽であって〈愛〉ではなかった。女が肉体の快楽を超えた〈愛〉を真に求めていたのであれば、青年のような男を選ぶこともなかったであろう。結局、女はろくでもない男を選んで同棲しながら、ないものねだりの末に殺人事件を起こした愚かな女ということになる。この、現実的な文脈で考えれば愚かな、狂った妄想女を、いかに美しく描くかということが作者が担った課題であったのかもしれない。

生ききるということは、現実の垢にまみれて汚れていくことを意味する。老醜という言葉はあっても老美という言葉はない。どんなにがんばっても、歳を積み重ねれば老醜を晒すことになる。そのことを自覚しない老人はさらに醜い。が、近頃つくづく思うが純粋や無垢を感じる青年が実に少ない。「女の箱」の中に登場した青年と詰め襟学生など、老醜を晒して生きている老人以上に醜く、微塵の美しさも感じない。

 女が求めた〈愛〉は箱積めにされた〈愛〉であり、そもそもの初めから本来的な愛の姿に背いていた。愛は生成流動する時の流れの中に生起するものであって、密封され凝固されたものの中で生起するものではない。自由な、重力の呪縛からとき放たれた飛翔する精神は、襲いかかる幾多の困難と闘いながら決して屈することのない強靱な精神であり、こういった精神こそが愛を求め愛を生きることができる。愛は、箱詰めにされた弁当のようにコンパクトにまとめられ、都合のいいときに食せられるものではない。

女は幼少期の牧歌的なユートピアを頭に想いうかべながら、若い男に抱かれて肉の快楽に耽っていた。女は自由な、解放された精神で青年と共に生きるという志向性はない。女にあったのは青年を自分のモノとして永遠に所有したいという自己本位な願望であり、その願望の実現のために青年を殺してしまったのである。

 男と女の間で、永遠に続く〈愛〉などはない。宇野千代は男と女の性愛は三年が限度であると言っていたが、まさに二十年も三十年も続く関係は性愛の次元を超えている。お互いに愛している振りをしたり、世間体をはばかったり、経済的な理由で別れられない夫婦も多いだろう。

〈愛〉はお互いの自由を前提にしているから、恋愛において第三者が登場した場合は必ず嫉妬、憎悪、殺意が入り込んでくる。この時、強靱な精神はこれらの負の情念に打ち克つことができるが、弱い精神はこの負の津波に襲われて相手の自由を奪おうとする。「女の箱」の女は、その意味では弱い精神の持ち主であった。青年の別れたいという〈自由な思い〉を認めることができず、一方的に〈毒殺〉という手段で彼の〈自由〉を抹殺してしまった。

女は相手の自由を認めるほどに強靱な、自由な精神を生きることができず、〈裏切り〉に対しては〈死〉という鉄槌を下してしまった。大きな木箱に詰められた〈永遠の愛〉のきらびやかな衣装をはぎ取れば、そこに現れるのは腐臭を放つ死骸であり、その死骸が風化した後に残るのは虚無という無でしかない。女が孤独な胸のうちに抱いていたのはこの〈無〉にほかならない。