日野日出志の「女の箱」論 (連載14)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載14)

清水 正
 今まで一コマ、一コマ検証してきて、さて〈女の箱〉とはいったい何であったのかを改めて考えてみたい。女は〈箱〉を集めたり作ったりしているが、その中には何が入っていたのだろうか。作者が示したのは扉頁における壊れた時計、日記帳、能面、般若、蛇であり、見開き二頁のスペースを使って描かれた幼少時の思い出である。羽子板、お人形、手鞠、こけし、あやとり、おはじき、笹舟、お手玉、雪だるま、お地蔵さん、鳥追いなどが自然の雄大な山並みを背景にして具体的に牧歌的に描かれている。ここで注意すべきは、遊び友達の男の子とお婆ちゃんが描かれているが、女の母親と父親が描かれていないことである。

 作者は女の〈思い出〉を東北雪国の幼少時に限っており、女が東京へ出て来るまでにどのような経験があったのか、東京でどんな男たちと関わって来たのかいっさい触れない。つまり女の経歴は田舎の幼少期からいきなり東京でのバー勤めの現在へと一挙に飛んでおり、その間の経緯がまったく分からない。描かれた限りで推測すれば、女は好きな男に何度か裏切られた悲しい過去を持っていたと言うことである。バーで勤めるようになったのも、そのことと関係しているかもしれない。

 さて、女における裏切った〈男〉とはどのような男であったのだろうか。ここからはテキスト深層に埋め込まれた〈謎〉の発掘作業ということになる。ヒントは鳥かごに飼われていた文鳥の一匹が〈チチ〉と呼ばれていたことである。〈鳥かご〉〈六畳一間〉の狭い空間から大空へ向かって飛び去った〈チチ〉を女の〈父〉と見ると、この〈父〉は、東北雪国の閉ざされた空間から出稼ぎに出たまま帰ってこなかったのかもしれない。いくら叫んでも、嘆いても〈父〉は東京へ行ったまま帰って来なかったとすれば、〈チチ〉が飛び去ったその後ろ姿に向かって「チチ……待って! チチ!! 行ってしまったわ………」とつぶやく女の言葉は余りにも悲しい。

女の幼少期の思い出の中には母親も不在であったことを考えると、女は〈父〉だけではなく〈母〉をも失っていた可能性もある。文鳥に付けられた名前〈チチ〉は父親の〈父〉であり、母親の〈乳〉でもあったとすれば、この女が抱え込んでいた闇は途方もなく深いと言わなければならない。女は〈父〉と母親の〈乳〉に見捨てられ、お婆さん一人に育てられていたという過去を背負っていたとすれば、彼女が青年に求めていたものは余りにも大きかったと言わなければならない。さらに恐ろしいことを想像すれば、この女は〈父〉を追って逃げようとした〈母親〉を殺した女であったかもしれないということになる。

 「女の箱」は女の〈過去〉に関しては、そこへ向けての扉が完璧に閉ざされていたわけではないが、しかしその時期は〈幼少時〉に限られていた。青年に関しては彼の〈過去〉は何一つ触れられていない。二人に関する情報は、女の勤めるバーで知り合い、六畳一間のアパートで同棲して一年間が過ぎたということぐらいである。詰め襟の学生が青年を尋ねているから、青年がどこかの大学生であること、ギターをつま弾いているから音楽に興味のある学生であることは分かる。その他のこと、彼の家族関係、大学の学部学科、どのような学生生活を送っていたのか、などに関してはまったく知ることができない。

空間的にも作者は〈舞台〉を〈六畳一間〉に限定している。女がバーでどのような接客をしているのかはもとより、二人が住んでいるアパートですら外側から描かれることはない。読者は六畳一間の部屋の作りから、自らの頭のなかにそのアパートの全体像を想像するしかない。時間的、空間的にきわめて限定された舞台で物語は進んでいくが、読者がこの漫画を読んであまり逼塞感を覚えないのは、女の牧歌的な幼少期の光景が見開き二頁を使って描かれたこと、六畳一間の部屋が二階にあって窓から広々とした外の景色が見えたことなどによる。

結末のコマ絵からはっきりと伝わってくるのは、女が生きることではなく死ぬことによって永遠の至福を得たということである。それも自分一人の死によって獲得した至福ではなく、青年を巻き添えにした死によってであった。一口で言えば心中による至福であるが、見ての通り、これは合意の上での心中ではなかった。青年が女に求めていたのは肉体上の快楽であって、その〈快楽〉は精神的な交わりを必要としなかった。彼の鍛え上げられた筋肉は、彼の精神的な浅薄さを強調するものともなっている。青年が女から逃げようとしたのは、青年からいつまでも愛されることを望んでいた女から見れば裏切りに他ならないが、当の青年にとっては裏切りでも何でもなかった。

青年にしてみれば、若い肉体で女に奉仕していたのだから学費や生活費の面倒をみてもらうのは当然だぐらいに思っている。ただ、女の「愛している?」に、本気で愛してもいないのに「愛している」などと嘘をつき続けていたことに彼なりのやましさがあって、女から逃げきれなかった。結果として青年は毒を呑まされて死んでしまったが、はたして彼は本当に生きることを望んでいたのだろうか。女の世話になって、ろくに勉強もせず、昼間は部屋でごろごろしてギターなどをつま弾いていた青年に、確かな未来が待ち受けていたとは思えない。もし、青年がしたたかに現実の世界を生き抜く力を持っていたなら、殺される前に逃げ出していただろう。青年にも、女から逃げ切ることのできない何かが潜んでいたのかもしれない。

 それにしても、「女の箱」で一番の疑問は、なぜこの女はこんなぐうたらなろくでもない青年に惚れてしまったのかということである。親の財産を抜きにすれば、若者で大金を持っている者はいない。若者に魅力があるとすれば、将来実現できる大きな夢を持っていること、その夢を熱く語り、その夢を実現すべく日々努力していることであろう。そういった若者ではなく、おんなの稼ぎをあてにして、のんべんだらりとその日一日を怠惰に過ごしているような若者を好きになるようなおんなは、そのおんな本人がろくでもないということになる。

「女の箱」の女は妖艶な美女に描かれており、しかも幼少期の思い出場面が東北雪国の山並みを背景に生き生きと牧歌的なタッチで描かれているので、〈彼女=ろくでもない女〉というイメージは思い浮かべようもない。一方、青年の方はどうみても美男子でもなければ聡明な感じも受けない。その無表情な顔は、彼の精気のなさや愚鈍を思わせる。読み進むにつれて、女に対する青年の性的役割がはっきりするが、それにしてもこんな青年に〈愛〉を本気で求めるおんなは、この青年以上に愚かなおんなということになろう。

 女が求めていたのは〈愛〉であって、〈青年の愛〉ではない。女は青年と肉体的な快楽に耽っていたが、その快楽自体を求めていたのではなく、その快楽を通して永遠の愛の成就をこそ求めていた。ここに青年との決定的な違いがある。相互に求めているものが同じであれば、セックスで至上の快楽(エクスタシー)を得ることができる。が、女と青年は求めるものが違っていた。

青年は肉欲を満足させれば事足りていたが、女は身をのけぞらせながらさらなる快楽、死ななければ到達できない快楽の極地を求めていた。この二人の間に生じたギャップを埋めることはできない。あえて埋めようとすれば、相手の意思を無視して、強引に自分の意思に従わせることしかない。女は青年を殺すことを決意する。この決意は、青年の留守中に文鳥を殺して箱に詰め込んだ時に決定的なものになっていた。


日野日出志さんと森嶋則子さん。2011.4.22