日野日出志の「女の箱」論 (連載10)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載10)

清水 正



 頁をめくると11頁、そこには二階の軒下に吊された鳥かごが画面上部に描かれている。画面下部に人家の屋根並がはるか遠くのビル群まで描かれている。画面中部は雲ひとつ浮かんでいない大空が広がっているので、コマ絵全体から受ける印象はさわやかな解放感であるが、しかし鳥かごの中には一匹の鳥もいないので、解放感は空虚感とない交ぜになっている。画面中部に「それから二、三日して残った一匹の小鳥の姿も見えなくなっていた」とコメントがあるので、その不在感は否応なくリアルに伝わってくる。

 「それから二、三日して」とあるから、チチが逃げ去ってから〈二、三日〉の間に、もう一匹の文鳥、女に窓を絞められチチの後を追っていくことを阻まれたあの文鳥がいなくなったことを意味している。問題はどうしていなくなったのか、である。この1コマ絵の解放感あふれた構図を素直に見る読者は、おそらく残された文鳥も大空へと飛び去っていったのだと思うだろう。中空にぶらさがる空虚な鳥かごは、六畳一間に残された女と青年の空虚と不在感覚の隠喩とも受け取れるだろう。しかし、このコマ絵は単純に解釈してすまされないものを持っている。

 残された文鳥が大空へと逃げ去ったとしても、鳥が自力で逃げたのか、青年または女が逃がしたのか分からない。逃げた、あるいは逃がされたのではないとして、可能性として考えられるのは女に首をしめられたショックで死んでしまったこと、女の手にかかって殺されたことなどが考えられる。作者がコメントで、残った文鳥の〈不在〉の理由に関してあえて沈黙を守ったのは、その〈理由〉よりは〈不在〉を全面に押し出したかったのであろう。

 空っぽであることのすがすがしさがある。過ぎ去った過去の〈無〉を〈思い出〉として懸命に箱詰めせずにはおれない女に、このすがすがしさはない。男でも女でも、風のように、一つの場所に定着せずに、軽やかに駆け抜けていく者がいる。こういう〈風〉のひとを、そうでない粘着質のひとが好きになって相手に執着すると、ぎくしゃくした、泥沼をはいずり回るような、悲惨な関係に陥ってしまう。悲惨な関係も、悲劇的な破綻も望まないのであれば、別れ時を間違えてはならない。

 このコマ絵は女と青年の〈不在〉を先取りした絵とも見える。この漫画の結末を知っている者にとって、この空っぽの鳥かごが軒下からぶら下がって微動だにしない構図はまさに永遠の死の光景として予め読者に提示された予告絵ともなっている。風も吹かず、ただ一匹の生物も生息している気配を見せないこのコマ絵には、そう思って見れば背筋がゾッとする静謐さがたちこめている。六畳一間の空間に生きた人間が存在しなくなるのはそれほど遠いことではない。

 2コマ目、画面下部右、テーブルにはビールが並々とつがれたコップとビール瓶、酒の肴を乗せた皿が置かれ、青年は右肘をついて帰ってきた女の方に顔を向けている。画面上部左に着物姿の女が戸襖を開けて「ただいま…………あ〜あ 〜 なんだか今日は疲れちゃった」と言って青年の方をじっと見つめている。青年は「ああ……お帰り、ご苦労さん…………」とねぎらいの言葉をかける。

女が戸襖を開け、青年が女の声に振り向いた瞬間を描いている構図なので、画面に動きが出るのがふつうだが、この絵にも停止感が張り付いている。画面上部に描かれた、テレビに出演して大きな口をあけて歌っている歌手だけが何とかこの静止した画面にささやかな動をもたらしている。

画面は全体に暗く、テレビ画面、積まれた箱、青年のシャツ、女の着物がかろうじて画面に白っぽさを与えている。テーブル、箪笥、柱、戸襖、廊下、トイレのドア、壁、座布団、畳などが黒く描かれることで、二人の関係の〈濃密さ〉が伝わってくる。青年がどんなに軽薄な、自分勝手な功利主義的な人間でも、部屋のディティールを丁寧に微細に描くと、部屋自体が刻んできた歴史と相まって、今、ここにわずか一年ばかりの同棲生活しかしていない二人の関係にもそれなりの濃密さが現出してくるのである。右の白っぽいコマ絵とこの黒っぽいコマ絵の対照も面白い。

 女が部屋の内部と外部の境に立って、じっと青年の顔を見つめている図もなかなか迫力がある。このコマ絵から青年と女の発したセリフを消した図を想像したらいい。畳の目が異様に存在感を持つだけではない。女の片目だけ描かれたその目が異様な怖さをたたえていることがわかるだろう。女の頭部はコマ枠線の外にあって描かれず、女の右目は戸襖の陰に隠れて見えないが、少し想像力を働かせれば、女の右目は赤黒く腫れあがり、髪は乱れて長く垂れ下がり、廊下には何本もの抜け毛が散乱している。つまり、この女は伊右衛門に裏切られ〈毒〉を盛られたお岩さんの怪しい姿をその陰に隠しているのである。

 女の「あ〜あ 〜 」のセリフは、恨み骨髄のお岩が裏切り者の伊右衛門のところに化け出てきて「あ〜あ 恨めしや」と言っているようなものだが、このコマ絵に描かれた青年は想像力が欠如しているので、決してこんな風に思うことはない。作者日野日出志も、青年のレベルに合わせてストーリイを展開していく。

3コマ目、女は何事もなかったかのようにテーブルについて「ちゃんと勉強してたの? ビールなんか飲んで……」と言う。手には四角い箱を持っている。青年は左手で頬杖をし、右手はテーブルに置いたコップを握って「うん……まあね」と答える。この会話から分かるのは、青年が女の留守中にビールを飲むのはめったにないこと、女が勤めに出ている間は勉強していることなどである。しかし、そんなこと以上に明白なのは、二人の間にできたどうしても埋めることのできない溝の存在である。

なぜ、彼らは逃げた文鳥のことを話題にしないのだろうか。チチに関しては、読者は窓から大空へと飛び去ったことを知っているが、残されたもう一羽に関しては何も知らされていない。文鳥は、いわば女と青年の分身的存在と言おうか、彼らの内心のドラマを反映している存在である。彼らが文鳥に触れるためには、彼らが心の奥底に秘め隠したことにも触れなければならない。彼らは、お互いにそこにだけは触れまいとして、その内心の思いを〈……〉に封じこんでいる。彼らの会話に〈……〉が異様に多いのはそのためである。

 4コマ目、画面右の女は箱の包みを広げ、大事そうに箱に手を添えながら「ふふ……いいでしょ、これ」と意味ありげな目つきで青年を見る。青年は前コマと同じ姿勢を保ちながら「なんだい、また箱を買って来たのかい?」と言う。そのあきれかえったような目には、かすかな怯えもうかがえる。

 5コマ目、女は青年の胸にすり寄り「ねえ………本当に私のこと愛してる?」と言う。青年は「あれえを酔ってるのか……」ととぼけて見せるが、もちろんもはやとぼけきることはできない。6コマ目、女はさらにしつこく「ねえ! 愛してるって言って!! お願い……」と迫る。青年は顔に冷や汗を浮かべながら「も、もちろん愛しているさ。だけど何で急にそんな」と、いつものようにその場しのぎの甘い言葉を発している。女のすねた目つきと青年のとぼけた点眼のドングリ眼の対照が際だっている。

 次の12頁1コマ目、カメラは女と青年の顔をアップ。女はすねた顔から一変「うれしい………」と言ってさらに青年の胸に身を寄せる。青年は困惑を隠しきれない。2コマ目、青年は仰向けに寝かされ、シャツを下から胸もとまでまくられる。画面右下に青年の顔が描かれる。事情を飲み込めずに「な………なにをするんだい」と口にするが、女の「いいからじっとしていて………」の言葉に従っている。女は両手を青年の裸の腹と胸に這わせ、3、4、5コマで青年の胸に唇をあて、強く吸い上げる。3コマ目で青年は「く……くすぐったいじゃないか」と言っているが、4コマ目では「い……痛い!」と悲鳴をあげる。

5コマ目、青年は黙って痛さに耐えているのか声はない。女の表情はますます陶酔感を増し、その唇からは血が二筋、ねっちりと垂れている。女の黒髪、女の爪に塗られた真っ赤なマニキュア、女の真っ赤な唇から滴り落ちる真っ赤な二筋の血、この画面はモノクロで描かれているが、画面に黒と赤の色彩を塗り込めば、ゾッとするほど鮮烈な映像として迫ってくる。

注意すべきは青年の無抵抗である。この青年は、日常的に女主人の言うことに従順な飼い犬のポーズをとり続けながら、ひたすら裏切りの時を慎重に準備しているのである。飼い主の頭や手に乗って、ずいぶんとなついていたかのように見えていた文鳥が、突然、開かれた窓から大空へ向かって飛び去っていったようにである。女は逃げ去ったチチ(文鳥)を呼び戻すかのような烈しい思いを込めて青年のチチ(乳・胸)を吸い、チ(血)を吸い上げる。この画面には女の描かれざる過去の秘密もかいま見える。

 6コマ目、画面右、青年は身を起こし、胸の血を右人差し指で確認して「血………血が出てるじゃないか………」とショックを受ける。画面左、女は箱を両手に持ち、何事もなかったかのように平然と「ごめんなさい。あなたが心変りしないように、あなたの胸の血を」と言う。7コマ目、女は「こうしてしまっておくの……」と言いながら、口から吸い取った青年の血液を箱の中に垂らす。

8コマ目、画面右に箱の蓋をカチッとしっかり閉める女の横顔と上半身が描かれる。画面上部左に「最初の頃、女が箱を集める趣味を、男はかわいいと思っていた」とコメントがついている。9コマ目、画面右に青年の陰鬱な顔とシャツを胸までたくしあげた上半身が描かれている。青年の右胸は女に吸われて血が滴り、右人差し指の先には血がたっぷりとついている。画面上部左に「だが、この頃では女の箱に対する異常な執着にいい知れぬ不安をひたひたと感じはじめていた…………」とある。

 青年と女がどうして同棲するにいたったのか、作者はそのいきさつを詳しく語っていない。女の勤める店に青年が客として通っていたくらいのことしか報告されていない。一読者として一番の疑問は、女がこの青年のどこに惹かれたのかという点である。

今までの描写から考えられるのは、青年がセックスを通して与えてくれる肉の快楽にのみ惹かれていたとしか思えない。青年は経済的に自立していないので、女の稼ぎに全面的に頼っている。青年はアパート代や食事代を自分のからだで支払っているような気分でいたのだろうし、女もまた青年を性的ペットのように扱っていたふしがある。

お互いに利用し合っていたような関係であるから、そこに善し悪しの判断を持ち込んでも詮方ない。女は青年と同棲する前から箱を集めていたのであり、極端な言い方をすれば青年もまた一つの蒐集物であった可能性もある。青年は自分でも分からないままに、六畳一間という箱の中に、快楽を与えるペットとして女に飼われていたというわけである。