日野日出志の「女の箱」論 (連載9)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載9)

清水 正


 さて、「女の箱」は次にどのような展開を見せるのか。頁をめくると、そこにはセックスを終えて布団の中で安らぐ青年と女が描かれている。女はセックスの時もずっとセットした髪が乱れないように豹柄の頭巾(ナイトキャップ)をかぶっていたが、ここでもそれをつけたまま布団に横たわっている。青年は煙草を右指にはさんだまま黙りこくっている。枕元には灰皿、電気スタンドが置かれ、畳の目も丁寧に描かれている。掛け布団は一色に塗られ、特別な象徴的意味を付与されていない。「チーコ」の場合、妻が頭から潜り込んだ掛け布団の模様は◎で、家庭の幸福、平和を象徴していたが、「女の箱」の場合、強いて言えば、激しいセックスを展開したわりには、二人の広漠とした空しさが表現されていると言えようか。見ようによってはこの掛け布団の模様は砂漠そのものである。女がかぶっている頭巾の豹柄は、彼女の肉食性を端的に示している。青年は知って知らずか、薄闇の中でひたすら沈黙を守っている。この青年の沈黙の顔は、深い思索の反映ではもちろんない。自分に都合のいいことしか考えていない、卑劣な打算家の顔であり、こういった男は相手に言質をとられることを恐れてひたすらだんまりをきめこむのである。布団から出された両腕は、居候には不似合いな筋肉質でたくましさを感じさせるが、鍛え上げられた強靱な肉体に浅薄な内面を反映したアホ面がついているので、全体として不快を伴うちぐはぐさを感じる。

青年の顔に表情がない。これは彼が内心の思いを女に気取られないように構えていることを意味している。しかし、そのことがかえって内心の思いを相手に伝えてしまうことになる。女は青年がどんなことを考えているのか敏感に察している。2コマ目、女は相手をなじるような悲しげな目で見つめながら「ね………何を考えているの?」と訊く。相手の気持ちが分かっていながら、未練のある女は訊かずにはいられない。3コマ目、カメラは青年の表情を消した顔をアップする。青年は吸いかけの煙草を指にはさんだまま身動きひとつせず「ん? 別に………」とおとぼける。

4コマ目、女は枕に左手指を添え、すがるような目で「うそ……そろそろあたしを捨てるつもりなんでしょう?」と言う。青年は目線だけを女に向けながら「また始まった。誰もそんなこと考えちゃいないよ」と言う。青年のセリフに「また始まった」とあるから、女はこの日に限らず、同じようなセリフを吐いて青年を困らせていたのだろう。画面中央に煙草の煙が画面を左右に切り裂くように描かれている。女と青年の関係の破綻を端的に象徴していると言えよう。青年の弁解は「誰もそんなこと考えちゃいないよ」で、「俺はーー」とは言っていないことに注意しよう。青年は主語主体をあいまいにすることで、責任を回避しようとしている。

5コマ目、女は青年に寄りすがりながら「うそうそ! じゃあ何を考えてたの? ねえ………何を考えていたのよ!!」と責める。青年は相変わらず身動きひとつせず、顔を曇らせる。6コマ目、青年は女の豹柄の頭巾に左手を回し「だから何も考えてなんかいないといっただろう」と言う。女は青年に体をぴったりと寄せるが、青年の顔は額から目の部分にかけて縦線が何本も細かく引かれ、青年の疚しさが端的に表現されている。青年が女を「捨てるつもり」なのはこの顔の表情によって明白である。

 次の8頁1コマ目は、青年、女の二人ともにうつ伏せになっている。画面右、青年は枕に顎を乗せ横目で女を見ている。女は青年の右腕に手を添えながら「ほんと? じゃあ、あたしのこと愛してる?」と甘えた感じで愛の確認を迫る。2コマ目、電気スタンドの近くに置かれた灰皿に煙草の火をもみ消す青年の右手をアップ、画面上部に「ああ……もちろん愛してるさ……」の青年の言葉。「折れた煙草の吸い殻であなたの嘘がわかるのよ」は歌謡曲の文句だが、この青年の場合、すでに嘘は見え見えである。

この男は、女の詰問をのらりくらりとかわし、自分の本音を絶対に口にしないが、この曖昧な応答それ自体が端的に嘘を暴露してしまっている。女はそんなことは十分に承知の上だが、このチャランポランな青年との関係を断ち切って新しい生活に踏み出すことができない。

 3コマ目、女は青年の体へ身を寄せ、左手を相手の胸に当てて「じゃあ、もう一度抱いて……」とおねだりする。このコマ絵においては、画面右、すなわち今まで女が身を横たえていた場所の空白を強調している。積極的に相手を求めているのは女であって青年ではない。青年はほとんど身動きせず、女の熱い思いに冷めた反応しか示していない。4コマ目、カメラは二人の頭部をアップ。画面下部に青年の左手を添えられた女の豹柄の頭巾、画面上部に青年の疚しさいっぱいの凍りついたような顔が描かれている。青年の「…… …… ……」に言い訳しようのない重い沈黙が表れている。

女はただひたすら肉体の接触を求めることで、相手との距離を埋めようという徒労の、空しい情熱に身を焦がす。青年は女との関係に肉体的な快楽しか求めていないから、それ以上の欲求を女から求められると困惑する。同棲して一年、二人の求める方向性の違いは歴然とその姿を露呈させているが、青年に未練のある女は相手を手放すことができない。青年は青年で自分の正直な思いを相手に対して封じ込んでしまっているので、その場凌ぎの嘘をつき続ける羽目に陥っている。

この関係がずるずる続けば文字通り〈腐れ縁〉ということになるのだが、青年はもちろん女とそんな関係を続ける気はない。どこかで女との関係をきっぱりと断ち切りたいと思いながら、しかし女の欲求を拒みきれない弱みを持っている。5コマ目、男は再び女を抱くが、その顔に快楽に没頭する表情は見られず、明らかにこれは〈労働〉である。一方、女は頭をのけぞらせ相変わらず快楽をむさぼっている。画面左には、鳥かごの中の二匹の文鳥が描かれている。六畳一間で展開される女と男のドラマが、狭い狭い鳥かごの中で一生を終えなければならない文鳥のそれに重なってくるような構図となっている。

 「チーコ」の場合、文鳥は一羽しか登場せず、しかもこの文鳥は奥さんの存在性格とぴったり重なっている。チーコは文鳥の名前であると同時に、奥さんの名前をも指示していると言っていい。「女の箱」の場合、文鳥は二匹であるが、名前は付いていない。この二匹の文鳥は女と青年二人を象徴的に体現しているが、しかしその象徴性は特別な読みを駆使しなければ明らかにならないような秘められたものではない。

部屋の中を自由に飛び回るチーコと漫画家の夫は、妻が仕事に出かけた後で、かなり親密な関係を結んでいる。手鏡でチーコの顔を映したり、チーコの似顔絵を描いたり、ピースの空箱にチーコを詰めて空中に放り投げたりなど、男とチーコの関係は実に密度が濃い。「女の箱」の場合、文鳥はつがいで飼われていることもあって、鳥同士はかごの中で仲むつまじいが、鳥と人間の間に親密な関係はない。

頁をめくって9頁1コマ目、女は左手人差し指に文鳥を乗せ「チチ………チチ………」と呼んでいる。この文鳥の名前がチチであることが分かるが、チチは女に顔を背けている。女とチチの間に「チーコ」の場合のような親密な関係はない。

 2コマ目、画面中央、チチは突然大きな羽音をたてて女の指から飛び立つ。女は予期せぬ場面に立ち合ったかのような驚きの表情で「あ……」を声をあげる。画面右下には青年とその頭に乗った文鳥が描かれている。この絵を見る限り、文鳥は女と青年にだいぶ慣れていたように見え、それだけに女はショックを隠せない。

 3コマ目、女の手から飛び立ったチチは窓から外の大空へと飛び去っていく。女は開かれた窓際に立って「チチ……待って! チチ!!」と叫ぶ。が、チチが帰ってくる気配はない。画面左上部に「行ってしまったわ………」という女のあきらめの言葉が置かれている。

 4コマ目、カメラはチチに飛び去られてしまった女の嘆きの顔を正面からとらえる。女は窓の桟に右手を添えて「あなたと一緒に暮らし始めた時から、一年も飼ってあんなによく慣れていたのに、どうして」と嘆く。

 5コマ目、青年の頭に乗っていた文鳥が、とつぜん、開かれた窓に向かって飛ぶ。画面左下の青年が「あっ! また逃げるぞ」と叫ぶ。画面上部に立ち姿で描かれた女は声に驚いてとっさに振り返る。画面上部やや中央にはチチを追って外へ飛び立とうとしている大きく翼を広げて飛ぶ文鳥の後ろ姿が描かれている。この文鳥の姿は画面下部に描かれた右手を前に少し差し出した青年の後ろ姿と重なる。この外へ飛び去ろうとしている文鳥と、女と別れようとしている青年は〈小さな鳥かご〉〈小さな六畳一間〉の暮らしから逃げだそうとしていることにおいてぴったりと重なる。

 6コマ目、女はすばやく窓を閉める。柱と窓の桟が強く当たり「ピシャ!」と大きな音をたてる。画面中央に描かれた柱と桟の激しい衝突音「ピシャ!」は大きく手書きされ、その音自体は白い半楕円に鋭い棘を付けたかたちで表現されている。ここには女の妥協のない決意が反映されている。

 7コマ目、文鳥はいきなり強く閉められた窓にぶつかる。が、チチを追って外へ飛び出そうと羽をバタつかせる。画面右の女はしばしその様子を呆然と見ているが……。

 次の10頁1コマ目、女は左手を延ばして文鳥を捕まえる。文鳥は依然としてバタバタして落ち着きを取り戻さない。2コマ目、女は右手で文鳥の首を締めながら「ひ………ひどい! ひどいわ!! あたしを裏切って………」と嘆きと怒りの顔で叫ぶ。文鳥は首を締められながら「チーチー」と鳴き声をあげている。3コマ目、首を締められている文鳥の顔をアップ、画面右に手書き文字で「ぎゆっ!」、画面左上部に文鳥の断末魔の鳴き声「チ〜ッ チ〜ッ………」が記される。嘴は小刻みに震え、女のヒステリー染みた憎悪と殺意が生々しく伝わってくる。

4コマ目、青年が女の文鳥を締めている右手首を左手で押さ「そ、そんなに絞めたら死んじまうじゃないか!」と叫ぶ。女はハッと我に帰り少し冷静さを取り戻す。5コマ目、青年は女を抱き寄せ、その体を揺さぶりながら「どうしたって言うんだい、急に………」と言う。女は文鳥を掴んでいた手指をひろげ、文鳥は勢いよく飛び立つ。

 さて注意すべきは、ここで青年が初めて感情を露わにして、文鳥を絞め殺そうとした女に激しい言葉を投げかけていることであろう。それまで、青年は女の肉体的次元での欲求には抵抗を示さず、自分の感情などはいっさい表に出さなかったが、ここでは人間的な感情を発露している。

6コマ目、女は暗い顔をして「だ………だって」と口ごもる。アップされた女の顔には、額から両目の下まで縦の細い線が何本も引かれている。女は今まで強く押さえ込んでいた青年に対する不信の思いを、もはや抑制しきることができない。

7コマ目、ついに女は内心の思いを口に出す。画面左に描かれた女の顔に縦線は消え、白く輝いている。画面右の青年は再び寡黙な固い表情に戻って女の顔を見つめている。画面中央に白い楕円が浮き彫りにされているが、しかしこれは二人の関係に光りが射し込んでいることを意味しない。女は自分の不安を青年の顔の表情で払拭することはできない。否、青年の石化したような顔は、むしろ女の不安を端的に実証している。が、女は青年を捨てて窓の外へ飛び立つことはできない。その意味では、女はチチを追って窓の外へと逃げ去ろうとして、女に阻まれ首まで絞められた文鳥と同じである。つまり女は自分で自分の飛翔を拒み、自分で自分の首を絞めるような女なのである。

8コマ目、女は青年にひしと抱きつき「いやいや、そんなこと! 捨てないで、あなただけは私を捨てないで、お願い!!」と叫ぶ。青年は女を両手で抱きながらも、その顔は暗く曇っており、内心は女を裏切り続けている。女と青年はセックスで結ばれても、気持ちの食い違いをどうすることもできない。女は青年の気持ちが離れていることを察しているが、別れることを決断できず、未練たっぷりにとりすがる。青年にしてみれば、女がしつこく迫ってくればくるほどにうざったさを増していくが、そのことを率直に吐き出すことができず、表向きは女の言うことを聞き入れているようなポーズを取り繕っている。こういった関係に陥った男女関係はお互いにますます腐っていくか、極端な破綻を迎えざるを得ない。さて、青年はどうするか。放たれた窓から、チチのように大空に向かって飛び去ることができるのか。
思い出のアルバム