荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載57)

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荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載57)
山松ゆうきち
誰も書けなかった山松ゆうきち
だがないや〜初期山松漫画に見る敗者の哲学(その①)

特殊漫画家の重鎮、山松ゆうきちの洗礼を受けろ!〜山松ゆうきち論、初めに

山松ゆうきちという漫画家をご存知だろうか。

また、山松ゆうきちなら読んだことがある、という方がいらっしゃれば、彼の描く漫画作品にどんな印象をお持ちになっていらっしゃるだろうか。

「ギャンブル漫画ばっかり描いている漫画家ですよね」、その通りである。
「絵柄の汚い、だらしない作風の漫画家ですよね」、これも、その通りだ。
「擬音が面白い、ザカザンザカザンって漫画家ですよね」、まったく以ってその通りである。

しかしながら、どれを取っても山松ゆうきちの漫画作品の本質を捉えているとはとうてい思えない。なかなか一言にまとめるのは困難であるが、私ならこう答えるだろう、「人間の業、煩悩を描き切った漫画家である」と。

1965年にデビューして以来、今現在も現役漫画家として活躍中の山松ゆうきちは、46年の漫画家歴を持つベテラン中のベテラン、本来なら大御所漫画家と呼ばれても差し支えないはずである。今までに刊行された作品集も40冊を数えるのだ。

そんな山松ゆうきちがである。少なくとも、私の記憶の中では、一度たりとも陽の当たる場所に出たことがないという事実は如何なることであろうか。40冊を数える作品集も、再版されることはなく、その殆どは初版にして絶版となっているのだ。

人気がないのか、と言えば、それも違う。数少ないが、特定の根強いファンをしっかりと掴んでいることは間違いない。だからこそ、46年の永きに渡って漫画家として執筆活動を継続できる分けだ。

特殊漫画家の宿命、と言ってしまえばそれまでであるが、山松ゆうきちご本人は、ご自身が特殊漫画家というカテゴリーで括られるとは考えている分けもなく、寧ろ迷惑な話でもあろう。

まだ原孝夫先生がご健在だった頃である。

清水正先生の出版記念パーティで、確か清流出版から発行された「ウラ読みドストエフスキー」の出版記念パーティだったと記憶するが、原先生と同席する機会に恵まれ、お気に入りの漫画家について雑談したことを覚えている。

私は、その席でお気に入りの漫画家に、やはり日野日出志、そして山松ゆうきちの名を上げた。原先生は、山松ゆうきちは自分もファンであるとおっしゃっていた。

その言葉を裏付けるのは、原先生が装丁をご担当され、2002年に、青林堂から出版された「自選短編集1 ああ!!あとがない」、「自選短編集2 中年死刑囚」である。この装丁は、山松漫画の特徴を上手く捉えており、ファンでなければ制作できない仕上がりとなっているのだ。

こう言っては何であるが、山松ゆうきちは、玄人受けする漫画家なのだ。

D文学研究会から発行された研究情報ミニコミ誌「D文学通信」に「偏愛的漫画家論」を連載していた5年前にも、「山松ゆうきち論」を着手し始めて挫折したことがある。
私にとっては、正に巨星なのだ。真剣に向き合っても言葉が出ないほどだ。あの、子リスのようにクリッとしたチャーミングな山松ゆうきちの瞳が、実はレントゲンよろしく宇宙の全事象を見透かしていることを、私は知っているのである。

ここでは、1970年代に発行された、初期作品をご紹介しながら、山松漫画の本当の魅力を検証して行きたいと思う。


山松ゆうきちプロフィール〜俺は江戸に行って漫画(デコ)描くがな!!


山松ゆうきち、1948年7月8日、鳥取県倉吉市生まれ。血液型A型。1964年、久米中学校卒業後、京都マネキン会社に入社、1965年、大阪日の丸文庫に漫画を持ち込み、「田舎医者」で日の丸文庫よりデビュー、そのまま編集者としても日の丸文庫に居座る。「喜劇新思想体系」、「光る風」の山上たつひこ(私は「がきデカ」を氏の代表作とは評価しない、念の為)とは、日の丸文庫の同期である。

1967年より高信太郎などの漫画家のアシスタントを経験後、1968年、「やくざ無情」で芳文社「週刊漫画TIMES」より漫画誌デビュー。

代表作は、「2年D組上杉治」、「エラヅヨの殺し屋」とウィキペディアにあるが、果たしてその2作品を存じ上げている漫画読者様がどれぐらいいらっしゃるのだろうか。はっきり言って、皆無であろう。
逆に、山松漫画には駄作が見当たらず、全作品が高い完成度を持っているとも言える。強いて代表作を上げる、という行為は、山松漫画には通用しないのだ。

初期作品を発表していた頃に傑作なエピソードがある。山松ゆうきちは、突然ペンを絶って鳥取に帰ってしまったのだ。競輪好きが高じて、競輪選手になるべく鳥取砂丘へ猛練習に行ったとのことである。しかしながら、競輪学校の入学年齢制限に引っかかり、余儀なく漫画家を継続することになるのだ。
山松ゆうきちらしい、と言えば、らしいエピソードである。


●第一作品集「くそばばの詩」〜負け続ける婆たちへの生命の賛歌

山松ゆうきち記念すべき第一作品集「くそばばの詩」は、1973年に青林堂より発行される。

「くそばばの詩」は、寒村で、家族から疎外されながらも、競輪に生きる老人たちの喜怒哀楽を描く「競輪ばあさん」、田舎町で逞しく生きる金貸しの婆を描く「一六ばあさん」、往年の凄腕パチンカーと、凄腕釘師の、死と、最後の愛を賭した対決を描く「西陣おとく」、73歳になる売春婦の生い立ち、そして強い生き様を描く「春を売る青春 その年73」、齢50を超えて、人並みに幸せな家庭を夢見る汲み取り屋の婆社長の青春を描く「純情らっぱ」、人斬りを生業とする婆が、孫娘に現場を目撃されてしまったことによる家庭の軋轢を描く「人斬りばあさん」、愛する男を待ち続けて40年、同じ名前でストリップ劇場で踊る60歳のストリッパーを描く「がんばれストリッパー」、他、日鸞の、禁欲された修行への葛藤を描く「聖日鸞」、食うに食われぬ百姓から、一旗上げようと剣豪に戦いを挑む、もう一つの宮本武蔵伝、「剣聖 宮本助兵衛」などの短編10作品と、3ページのギャグ漫画「重い山脈」の全11作品が収録されている傑作作品集である。

どれをとっても甲乙付け難い傑作揃いである。この中から、一作品だけご紹介しよう。ここでご紹介するのは、「くそばばの詩」、第一話に当たる「競輪ばあさん」である。

とめは、四国の寒村で、田畑で働く息子夫婦、孫の朱美と暮らす64歳の婆である。この村に住む老人たちの楽しみは、月に6日間の競輪だ。一人100円を握り締めて競輪場に向かい、とめの予想に託すのだ。
とめの予想は神がかり的なのだが、それでも競輪は、車券を買い続ければいずれは外すのが常である。狭い寒村である、とめの競輪狂いは有名で、家族の貯金を競輪で負けたこともあり、とめは、村人たちからも後ろ指を指されている。

朱美は、とめが許せない。とめは、まだ幼い朱美を競輪場に連れて行き、混雑の中で人ごみに押し倒された朱美は、足の骨を折り、今でも片足を引きずっているのである。

そんなある日、突然の事故は起こる。息子が自動車事故に合ってしまったのだ。自らの信号無視の事故の為、一切の補償は下りず、治療費もかさむ。殊勝な朱美は、自分の修学旅行の為に積み立てた3万円を差し出すのだが、とめは、家族の隙を見てその3万円を持って競輪場へ走るのだ。

最後の大勝負だ。とめの、競輪人生を賭けた、最後の大勝負である。とめの後を追い、競輪場に駆け付ける嫁と朱美であったが、時はすでに遅し、3万円は車券となり、じゃんが鳴り響く。その中で、各車次々とゴール。

とめは震える。

取った。1ー6だ。大穴である。3万円が240万円となる。田んぼを失った。可愛い孫の足を折った。何もかもをあの穴場に入れた。もう後はないのだ。

ところが、無情にも、アナウンスが告げる当たり車券は6ー1である。わずか5センチの差であった。

とめは、その場に泣き崩れる。「最後までわしを人間にしてくれへん!!」、とめは長いことそうして泣き続けるのだった。

山松ゆうきちの漫画に、変なセンチメンタリズムは無用である。奇跡もない。ドラマティックな展開を見せながらも、本質は何も変わりようがないのだ。実際に競輪で大金が残る訳がない。それが現実である。根っからのギャンブラーである山松ゆうきちだからこそ、充分過ぎるぐらい分かっている現実なのだ。

誰もが、ここまで引っ張ったら勝つだろうと思うだろう。これは漫画である。山松ゆうきちは、「そういう時、99.9%は負けるもんだと思っている」と言う。「これは作りですよ」という設定では描けないことはないが、リアリズム、と言うより、山松ゆうきちのギャンブル哲学に反する、と言うことだ。

この「競輪ばあさん」を描いた山松ゆうきちは、まだ20代前半である。これも凄い。

老人たち、そして、とめ。寒村での生活。とんでもない洞察力で描き切っている。決して画力のある漫画家ではないが、くどいぐらい細かく描き込んだ顔の表情が、嫌が応でもキャラクターを立てる。また、独特のネーム。方言、言い回し、これもキャラクターの存在感に一役買っているのだ。

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)のプロフィール
漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。 現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。
思い出のアルバム

原孝夫さんと森嶋則子さん
右から原孝夫さん 山下聖美さん 猫蔵さん