日野日出志の「女の箱」論 (連載6)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載6)

清水 正

つげ義春の「チーコ」に関連して

 9頁の最後のコマ絵は、天井近くから部屋の中を俯瞰的に描いている。画面左、妻はすでに布団に頭まで被って寝ている。画面下部、ちゃぶ台の前に座って食事中の男が、伏せ目がちに妻の方へ顔を向けて「文鳥見ないのかい」と声をかける。が、布団の中にもぐった妻は一言も返さない。画面下部中央に電気で暖めている文鳥のヒナを入れたダンポール箱が置かれている。

 ヒナは箱の中で三時間ほど暗い部屋に据え置かれ、鳴き声一つたてずにいたことになる。妻は、欲しい欲しいと言っていたヒナを見ようともしなかった。布団を被って寝床についてしまった妻と、箱の中でひっそりと息づいている文鳥のヒナの同質性に注目しておく必要があろう。妻の望んでいるのは、とりあえず暖かい布団にくるまって眠りにつくことであり、ヒナもまた電気で暖かくされた箱の中で深い眠りにつくことである。一人起きて孤独な食事をしている男は、妻とヒナの同質性から疎外されている。

 10頁1コマ目は部屋の中を自由に飛んでいる文鳥が描かれている。ヒナが日々成長していくプロセスは省略され、ヒナはいきなり成鳥となっている。2コマ目には台所の窓枠にとまって外を眺めている文鳥が描かれ、画面左の妻は描かれざる男に、さわやかな微笑みの表情で「ほらあんた、もう窓をあけといても逃げたりしないわよ」と言う。窓を開けておいても逃げない文鳥とは、そう言った妻本人でもある。文鳥に付けられた名前はチーコであるが、この呼び名はそのまま妻にも当てはまる。

 11頁、男は「ぼくたちチーコが来てからけんかしなくなったね」と言い、妻は「チーコは幸せの青い鳥よ」と言う。このコマ絵に注目しよう。妻は仰向けになって男の膝に頭を置いて寝そべっている。その両掌の上に文鳥がとまっている。一見、仲のよい夫婦の姿に見えるが、この構図で重要なのは、妻は文鳥のチーコを掌に、男は妻のチーコを掌にのせているということである。

つげ義春はこのコマ絵以降も以後も、文鳥のチーコと妻のチーコを合わせ鏡のようにして描くことで、その性格の同質性を繰り返し強調している。しかし、この同質性に気づかない読者には、妻は妻、文鳥文鳥にしか思えないであろう。つげ義春の強調は読者の誰にとっても明確に受け止められるわけではない。

さて、ここで一度「女の箱」に立ち戻ろう。窓の外に吊された鳥かごの中にどんな鳥が入っているのか描かれていない。ただ、鳴き声が記されているので、このかごの中に鳥が飼われていることは明らかである。漫画はコマ絵の中にすべてを描き込む必要はない。とりあえず最低限の情報が伝えられれば後は読者が勝手に想像力を発揮すればいいということになる。

1コマ絵に限って言えば、このコマで強調されているのは箱づくりに熱心な女と、ギターをつま弾いている青年であり、鳥かごは背景に押しやられている。作者が読者に向けてその関心の矛先を向けさせたいと思っているのはタイトルともなっている〈女の箱〉であって、〈男のギター〉でもなければ〈鳥かご〉でもないし、〈開かれた窓〉でもない。今のところ〈鳥かご〉は二人のドラマの背景に置かれていて、その意味することを前面に出していない。

「チーコ」との関連で言えば、「チーコ」では文鳥チーコが鳥かごに入れられている場面は一カ所もない。ヒナの時に段ボール箱に入れられていたが、成長してからは一度も鳥かごで飼われたことはない。チーコは部屋の中を自由に飛び回っており、その意味でチーコが狭い空間に拘束されているという感じは全く受けない。しかし、見方を換えれば、チーコにとっての〈鳥かご〉はこのアパートの一室そのものであったとも言える。この見方に立てば、文鳥チーコはたちまち妻チーコとぴったり重なることになる。
 
「女の箱」の〈鳥かご〉に注目してみよう。この〈鳥かご〉は昼間、天気のいい日には窓の外に吊され、我が身はかごの中に閉じこめられていても、無限に開かれた外界に接しているような気分にはなっていただろう。夜、〈鳥かご〉は六畳一間の部屋にとりこまれたであろうから、この〈鳥かご〉は外界の中の〈鳥かご〉と、部屋の中の〈鳥かご〉という二重の意味を担っている。女は箱づくりに熱中していることでも分かるように、外に働きに出かけている女ではあっても、どちらかと言えば部屋の中に居続けることを願っている。窓の外に吊された〈鳥かご〉一つが、この漫画の中で占めている役割は大きいのだが、今はその意味を前面に出すことなく、背景にひとつに甘んじている。

 2コマ絵は、画面一杯に様々な箱が描かれている。画面左上部に「六畳一間の女の部屋は色とりどりのたくさんの箱によって占領されていた……」とある。〈女の部屋〉という〈箱〉の中に〈整理箪笥〉や〈洋服箪笥〉という〈箱〉、〈人形ケース〉という〈箱〉、〈テレビ〉という〈箱〉、文字通りの〈箱〉など、まさに〈色とりどりのたくさんの箱〉が所狭しと描かれている。ここまで様々な〈箱〉が描かれると、主人公の妖艶な〈女〉そのひとが〈箱〉の隠喩とも見えてくる。〈子宮〉という〈箱〉を抱え持った〈女〉という〈箱〉が、青年をどのように取り込んでいくのか。

 佐渡人形の入ったケースと言えば「チーコ」の一場面(11頁6コマ目)が鮮烈に蘇ることになる。妻がいつものように水商売に出かけた後、男は部屋でチーコと戯れ遊んでいる。この一見平和そうな光景を上から眺めているのが黒くベタ塗りされている踊る佐渡人形である。この黒い人形は、このアパートの一室でこれから展開される恐るべき光景をあたかも予知しているかのように不気味である。

このコマ絵は上部を広くとり、画面も白っぽく描いているので、ふつうの速度で漫画を読む読者は、狭いスペースに黒くベタ塗りされた箪笥と佐渡人形を見逃すことになる。ここで作者は佐渡人形をケースに入れていない。もともとこの人形が硝子ケースに収まっていることは1頁1コマ絵で明らかである。ここでは画面右端下部に硝子ケースだけを描き、11頁6コマ絵ではケースを省略して人形だけを描いている。これはつげ義春が作品展開上のリアリティを重んじていることの証であり、漫画作法上の高等テクニックとも言える。重要なコマを小さくとり、重要な小道具を密かに描くことで最大限の効果を、結果としては存分に発揮させている。

 次のコマで、男は右手に持っている手鏡を文鳥チーコの前に差し出している。このコマ絵に関しても、テキストの表層をなぞっているだけの読者にはその恐るべき隠喩が全く読みとれない。このコマ絵は3頁4コマ絵と重ねて見ることができる。働きに出る前に、妻は鏡を見て髪を整えている。このコマ絵の鏡には妻の顔が描かれていないが、ここに〈文鳥チーコ〉の顔を映し出せば、〈妻チーコ〉と〈文鳥チーコ〉の分身関係は際だつことになろう。11頁7コマ目の鏡には文鳥チーコの顔が描かれているが、ここに妻の顔を描いても同じことが言える。

 「女の箱」では佐渡人形は硝子ケースにきちんと収まっている。この漫画において佐渡人形は、「チーコ」の場合のように特別の象徴的な意味を担っていない。佐渡人形の入った硝子ケースも、様々な映像情報をもたらすテレビも、洋服や下着を納めた箪笥も、すべて《箱》であるという以上の意味を賦与されていない。

ここに描かれたすべてが《箱》という一つの顔を前面に押し出している。しかもこれらすべてが整然と並べられていることに注意したい。この漫画の女主人公にとっては、部屋の中にある物が《箱》という一義的な価値に収斂されており、そこからの逸脱は許されない。混沌、多義性を許容しないということは、《箱》に絶対的、一義的な価値を当てはめているということである。換言すれば、この女は同棲している青年の価値観を認めず、自分が定めた絶対価値に従わせるということである。
 
佐渡人形は硝子ケースから飛び出すことはなく、テレビはスイッチをきられ、箪笥の扉と引き出しは固く閉められ、整然と並べられた箱はすべて蓋を閉じている。ここには女の潜在願望が端的に表れている。外界から完璧に遮断された箱の中に閉じこもること、これが女の最終的な望みである。はたして青年はどこまでこの女の危険な願望に気づいていたであろうか。


2005年10月7日 新宿ロフトで。日野日出志先生を囲んでの漫画シンポジウム。右から志賀公江・清水正・原孝夫・日野日出志・猫蔵。