日野日出志の「女の箱」論 (連載4)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
http://www.youtube.com/watch?v=yONKW3e3tRg&NR=1

日野日出志の「女の箱」論 (連載4)

清水 正

つげ義春の「チーコ」に関連して

 6頁目(タイトル頁の次の頁を1頁目として数える)の最後のコマで作者はやや俯瞰的なカメラワークで男の顔を画面下部に描き、その背後に紙屑が散らかった駅構内とプラットホームに続く階段を描いている。もはや駅構内には男を除いて人っ子一人いない。コマ枠は小さいが、駅構内の寒々とした感じがよく伝わってくる。男は不安げな顔つきで「どうしたんだろう」とつぶやいている。この男のつぶやきは、妻の内心を何一つ理解していないことを示している。彼はいつものように、妻の帰りを駅で待っていただけで、昼間、「鳥なんか飼ってどうするんだい」と言った言葉がどれだけ妻の気持ちを傷つけたのか、まったく認識できていない。こんな鈍感な男が、いくら芸術漫画を志してもろくな作品しか描けないと思うのだが、男を鈍感な男に描いて「チーコ」を描ききったつげ義春はただものではない。たいていの読者はこの男の鈍感さで「チーコ」を読み進んでいく。つげ義春は読者に媚びることはない。作品の中で説明や解説をしてしまうことほどみっともないことはない。

読者が「チーコ」を読むとき、5頁目は右頁、6頁目は左頁になっている。右頁の最後のコマ絵は全力で走る電車を描き、画面左は電車のヘッドライトが棒状に白抜きで描かれている。このヘッドライトの延長線上に左頁最後のコマ絵が存在する。男は、終電まで待ち続けながら妻の内心に照明を与えることができなかった。電車のヘッドライトもまた男の無意識の領域に光を注ぐことはできなかった。

7頁1コマ目は「先に帰ったのかな?」と思いながら帰路につく男を屋根越しの眼差しでとらえている。屋根と電信柱をベタ塗りして、男の姿を鮮明に描いている。作者のこういった描き方は、男に優しく寄り添っているが、同時に冷酷に突き放してもいる。黒い電車のヘッドライトのような容赦のない照明で男の内部をくまなく照らし出すというよりは、或る一定の冷徹な距離を置きながら男を見守っているかのような眼差しである。
 
2コマ目は男がアパートの前にたどり着いた姿を背後から、3コマ目はアパートの玄関を入って廊下に足を掛けた瞬間の男をやや前方から描いている。4コマ目は自分の部屋の前に来て、鍵が開いているのを発見して不思議に思う男の横顔をアップでとらえている。5コマ目は、ガラッと勢いよく入り口の引き戸を開けた男の立ち姿を正面からとらえている。作者は、男がいろいろなことを考えながら駅からアパートの自分の部屋にたどり着くまでの〈時間〉をわずか五コマで簡潔に描いている。

 もしこの男が『罪と罰』のロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのような青年なら、部屋に帰るまでに百や二百のコマを必要としただろう。欲しい欲しいとねだって、やっと買った文鳥の雛がいるにもかかわらず、その日に限って妻は終電になっても帰って来ないのである。どんな鈍感な男でも、考えられるあらゆることが脳裏をよぎっていったはずである。ドストエフスキーはロジオンに限っては徹底的に彼の内心の思いを描いて、彼の途方もない観念世界に読者を取り込んでいくが、つげ義春は男の内心の思いを徹底して省略する。こういった手法で描かれた作品は、読者が想像力を限りなく発揮して読み込んでいかなければならい。


 6コマ目は縦コマで、つげ義春にしては異常と言っていいほどの大きなコマである。男が目にしたのは、外套を身につけたまま畳にうつ伏せに倒れている妻の後ろ姿である。この妻の姿は、部屋に入ってすぐにうつ伏せに倒れたことを意味している。白い両足が戸を開けた光で照らし出されている。

この妻の部屋の中での倒れ方に、膨大な内心のドラマが隠されている。妻は家の奥の方へ顔を向けている。妻が望んでいるのは家庭の幸福、平和、安泰である。夫との貧しくても幸せな生活を望んでいる。男が第一に望んでいるのは自分の理想とする芸術漫画を達成である。〈文鳥のヒナ〉に象徴される〈子供〉を欲しがる妻と、それを拒む男との間には、決定的な価値観の相違がある。その決して埋めることのできない淵をまざまざと見てしまったのが、「鳥なんか飼ってどうするんだい」のセリフが男の口から発せられた時であった。しかし、この〈淵〉を妻が隠し、作者がそれに加担した。つげ義春の描き方は実に巧妙で、妻の内心の領域は完璧と言っていいほどに覆い隠される。男が決定的なセリフを口にしてしまった後の二人の会話場面を追ってみよう。

 妻は男の思いがけないセリフにハッとする。作者は妻の顔の上部に点線を描いて、彼女のショックをさりげなく、しかしはっきりと描いている。妻は「どうするって…………」と言って口ごもる。この「……」に妻の膨大な言い分が含まれているが、妻はいっさいそれを口にしない。次の5コマ目で妻は「可愛いじゃないの」と言い、男は胡座をかいた姿勢で額に手をおきながら「文鳥ってどんな鳥だっけなあ」と言う。会話は妻の内心の深みに降りていくのではなく、日常の表層に頑ななまでにとどまろうとしている。妻の顔は明るく端正に描かれている。その表情には内心の屈折、葛藤はすべて見事にぬぐい去られている。6コマ目の「ほら、まっ白で嘴だけ真っ赤な………」と口にする妻のアップにされた顔は純真な乙女のそれである。黒い瞳は大きく輝き、純な明るさを放っている。

 この2頁目2段目の三コマの配置も見事である。2段目1コマ目の右端に「鳥なんか飼ってどうするんだい」と言い放った男の横顔を黒くベタ塗りし、一コマを間に挟んだ3コマ目に妻の明るい顔を画面いっぱいに描いてその〈まっ白〉を強調している。さりげなく配置されている右端の〈黒〉と左端の〈白〉であるが、つげ義春のコマ割はその内容を実に効果的にアピールしている。

 2頁3段目1コマ目、妻はやや前かがみの姿勢で「今日鳥屋のオヤジにきいてきたんだ。ヒナのうちから飼えばすごくなついて絶対逃げたりしないって」と賢明に夫を口説く。男は「ふーん」と言ったきり、顔を下へ向けている。が、妻はくじけない。次のコマでは右人差し指を男の左頬に軽く当てて「ねえ、買って」と可愛くおねだりする。男は乗り気でない渋い顔で「めんどくさいぜ、毎日餌やったりするの」と言う。

 2頁4段目1コマ目、妻は「チェッ、駄目なのか」と言って壁に背をもたせ両膝をたてた姿勢で軽くうつむく。男は妻の方へ顔を向け「いくらするんだい」と言う。ここで男の一連のセリフに改めて注意しよう。「鳥なんか飼ってどうするんだい」「めんどくさいぜ」「いくらするんだい」……男のセリフに〈鳥〉に対する愛情も関心も見られない。それにもまして、妻が文鳥のヒナにこだわるその内心のドラマに男はまったく関心を寄せていない。男は自分の傍らで生活を共にしている妻のせつなく悲しい思いを察することができない。文鳥のヒナを欲しいと明るくねだる妻の秘めた気持ちがわかっていれば、いくら生活資金に逼迫していたにせよ、ヒナの値段など二の次、三の次のはずなのに、この男にはそういった妻に対するデリカシーが欠けている。

 妻の内心に迫っていくと、この男は女心に関して全く無知であり、なんでこんな男と一緒にいるのか理解に苦しむのだが、つげ義春が描く男は善良そのもので憎めない。予め何の先入観も与えずに「チーコ」を読ませれば、この男はとりたてて責められるような男ではない。貧しいながらも、けっこう二人の生活をエンジョイしているカップルに見える。読者はそんな軽い感じで作品を読み進んでいく。だからこそ、文鳥のヒナを購入したその日に限って、妻が終電でも帰ってこないことに、男と同様に不可解な思いにかられるのである。

 男がヒナを飼うことに同意したコマはない。つげ義春は省略の名手である。その省略された場面をどのように読むかで読者の〈読み〉が試される。わたしの解釈によれば、男はヒナ購入に関してはっきりとイエスともノーとも口にださなかったと思う。わたしの再構築(妻の堕胎経験)で言えば、その時も、今度のヒナ購入時においても男ははっきりと自分の意思を表明せず、曖昧なままに、妻の判断に委ねたと思う。

作品の中で明確に記されていないが、男の仕事(漫画)で収入があったとは思えない。あったにしろ家計を支えられない収入だったからこそ、妻が酔客相手のしたくもない水商売に出かけなければならなかった。つまり、二人の生計は妻の仕事に依存していたのだとすれば、妻が男にヒナ購入の600円を甘えた様子でおねだりすること自体がおかしいということになる。生活力のない、二人の生活を支えるだけの一定の収入がない男には、ことを決定する権限がそもそもないということである。

 にもかかわらず、妻は男をたてて、あえて甘えておねだりをしている。にもかかわらず男は、二つ返事で妻の申し出に同意することができない。ああ、なんでこんな男と一緒にいなければならないんだ。妻の思いは深く屈折する。改札口で階段を急ぎ足で駆けあがっていく妻の後ろ姿に反映しているのは、男に対するぐちゃぐちゃの屈折した思いである。こんなデリカシーのない、女心を理解しない、無神経な男、こんな男と生活を共にすることなどまっぴらごめんだ、もう二度と戻ってこない、そう精一杯思いながら、同時にやっぱり自分はこの男のところへ戻って来てしまうのだ、ということを厭なほど知っている女が、この妻なのである。

テキスト表層の流れにおいて、男は完璧にデリカシーのない男として描かれているが、作者つげ義春は読者の再構築を許容するものとして描いている。妻が階段を駆け上る場面に関するわたしの批評に関して、つげ義春はそこまで考えていなかったと話したが、いったん描かれた作品は作者の意識を越えた〈意図〉をも浮上させるのである。創作において無意識の意図が反映しない作品は面白くない。換言すれば、神や悪魔が加担しない創作はひとの魂に衝撃を与えないと言うことである。



懐かしの写真。右は原孝夫さん。2005年10月7日。新宿ロフトで。この日、日野日出志さんを囲む漫画シンポジウムがあった。司会者は志賀公江さん。