日野日出志の「女の箱」論 (連載3)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載3)

清水 正

日野日出志先生の仕事場で。2004/9/18>
お互い、今よりは少し若いですかね。太ってもいました。

つげ義春の「チーコ」に関連して

「チーコ」の場合、若い奥さんは芸術漫画を志している夫に文鳥の雛をねだる。たまたま駅前の鳥屋で売られていた文鳥の雛を奥さんはどうしても欲しいと言うのだが、夫は「鳥なんか飼ってどうするんだい」と素っ気ない。このコマ絵は小さく、夫の横顔は黒くベタ塗りされている。つげ義春は重要な場面を小さくさりげなく表現する。このコマ絵は男と女の価値観の違い、極端に言えば二人の関係の破綻を意味している。

 漫画の展開は〈二人の関係の破綻〉を深く隠して表層をなぞっていくので、大半の読者はこの漫画に秘められた謎を発見することもできない。批評の醍醐味はテキストの解体と再構築にある。奥さんがなぜ文鳥の雛にこだわったのか。かつて書いた「チーコ」論を簡単にまとめて言えば、実は奥さんは男の子供を身ごもり、堕胎した経験がある。再構築すれば「私、今日、駅前の産婦人科に行って診てもらったの。そしたらオメデタだって。もう三ヶ月なの。ねえ、産んでもいいでしょう」それに対する夫の返事は「子供なんか産んでどうするんだい」である。このように再構築することによって二人の価値観の決定的な違いが鮮烈に浮上することになる。

 奥さんが望んでいることは、例え一間の安アパートに寝起きしても、愛する夫との間に子供を産んで、貧しくても平和で幸福な生活をすることである。つげ義春はこの奥さんのささやかな幸福願望をカーテンや掛け布団の模様(◎)によって暗示している。ところが、夫の望んでいることは、家庭の幸せよりは芸術漫画の達成である。描かれた限りでのテキスト「チーコ」には、堕胎のことも、男が何を目指しているのかもいっさい触れられていない。これはあくまでも私がテキストを読んで再構築した描かれざる内容である。

 男は売れる漫画家を志していない。結果として奥さんが家計を支えなければならない。奥さんは仕方なく水商売の仕事をしている。五時過ぎに家を出て深夜まで酔客の相手をして帰ってくる。夫は駅まで迎えに行く、そんな生活を繰り返している。とても子供を産んで育てられるような状況ではない。奥さんは夫の〈意思〉を酌んで堕胎を決意する。「チーコ」の男は自分の口から〈産め〉とも言わないし〈堕ろせ〉とも言わない。決断は女がするほかはないのである。

 テキストに戻れば、どこにも文鳥の雛を買うことに決定した言葉はない。二人は一緒に駅前の鳥屋まで腕を組んで歩いて行き、そこでごく自然に雛を購入している。再構築の〈堕胎〉も、テキストの〈雛購入〉に関しても、決定しているのは奥さんである。

 テキスト表層だけを見ている読者には、二人の関係の溝の深さは感じられないであろう。ましてやこの時の奥さんの内心の思いなどは……。

 『私はあんたの子供が欲しかった。妊娠を知ったとき、私がどれほど喜んだか。しかしあんたは「子供なんか産んだら生活できないとか、自分の目指す漫画が描けなくなるとか言って、どうしても子供を産むことに賛成してくれなかった。私がどんな思いで子供を堕ろしたか、あんたにはわかっているの。私が文鳥の雛を飼いたいと言ったのは、子供の代わりだったのよ。それなのにあんたは私の気持ちなんかひとつも分からないで「鳥なんか飼ってどうするんだい」って言ったわね。ああ、あんたみたいな、ひとの気持ちも分からないウスラトンカチとはもうこれっきりね。二度と顔も見たくないわ』

 これ位の怒り悲しみを抱いていたのが「チーコ」の奥さんであるが、つげ義春は表層テキストにおいて奥さんの内心の悲憤をいっさい描くことはない。というより、つげ義春の描き方は実に巧妙と言おうか、自分の作品を鑑賞する読者の水準を目一杯高い胆地点においているので、いっさい説明しないということである。

 従って、説明してもらわなければ分からない読者ははじめから相手にされていない。これは作者の高慢とか読者に対する蔑みを意味していない。逆に表現者としての誠実、作品に対する妥協のない真摯な姿勢を示している。「ガロ」時代のつげ義春に商業主義に汚染された作品は一つもない。余談になるかもしれないが、「ガロ」編集長の凄さはいくら評価してもし過ぎるということはない。

 奥さんの言葉に表すことのできない夫に対する悲憤は、駅の改札を通ってプラットホームに続く階段を早足で歩いていく、その後ろ姿に表現されている。途中、駅前の鳥屋で時間をとられたので、仕事に遅れまいとして急いでいたのだ、などとばかり思っていたのではこの「チーコ」という作品を何も理解していないことと同じである。

夫は改札口で階段を駆け上がっていくその後ろ姿を見送っている。作者は、この時の夫が何を考えていたのかいっさい触れない。改札口で二人が交わした会話は、「じゃあんた行ってくるわね。餌は水でやわらかくしてからよ」「うん」だけである。彼らの会話は見事に内心の声が封じ込められている。特に奥さんの内心の声は完璧に押さえ込まれており、従ってテキストの表層だけを負っている読者には、単なるあまりにもふつうの日常的な会話に受け止められてしまう。
 
 この日、夫は家にもどると購入した文鳥の雛に餌を作って与えたり、自分たちの食事の用意をしたりと大忙しである。置時計の針が十一時を示している。夫はあわててブレザーを着込んで駅に向かう。どうやら奥さんは十一時過ぎに仕事を終えて駅に着くらしい。が、待てど暮らせど奥さんは帰って来ない。駅の時計は夜の十二時三十五分を告げている。夫は煙草を何本も吸ってひたすら待つ。時計は夜中の一時二十五分。帰宅するひとたちは黒くベタ塗りされ、夫は柱の陰から奥さんの姿を必死のまなこで探す。が、ついに奥さんは帰って来ない。駅員は冷たく「終電」を告げる。

 つげ義春の描き方は実に巧い。前頁の最後のコマで轟音で走る電車を黒くベタ塗り、窓という窓をすべて白抜き、車内の灯りを強調して運転手と乗客すべてを省略している。行き先を表示するプレートも白抜きすることで、男とは女が住む場所の特定化を避けている。画面下部に「ゴー」という轟音が手書き文字で大きく白抜きされている。電車のヘッドライトも棒状に大きく白抜きされ、この光を湛えた黒い電車が担っている象徴的な意味を全面に押し出している。鉄の巨大な塊である汽車は十九世紀においては神の隠喩として、しばしば小説にも登場した。最も有名なのが『アンナ・カレーニナ』でヴロンスキーと不倫の関係を結んだアンナの飛び込み自殺である。

 「チーコ」の夫の〈罪〉は本人には何ら自覚されていない。テキストの表層においては、二人は多少の意見の食い違いはあったにしろ、ふつうの、貧しいながらも幸せな生活を送っていたと言えるかもしれない。問題は、彼ら二人が内心深く押さえ込んで、無関心を装っている事柄である。黒い電車のヘッドライトの光は、やがて夫の無意識の領野を照らし出すことになるだろうか。

 次の頁の1コマ目に作者が描いたのは、駅についた夫が柱の陰に身を寄せて、改札口に向かって階段を降りてくる人々を眺める姿である。ひとびとはすべてベタ塗りされ、夫が捜しているのは〈奥さん〉一人であることが示されている。時を示す時計、足下に捨てられた煙草の吸い殻、柱の陰から帰宅につく客たちを覗きみる夫の顔、柱にもたれ掛かってしょげ込んでいる夫、駅員に終電を確認する夫……一頁十コマで、作者は終電でも帰って来ない妻を待ち続ける夫の不安と焦燥の姿を見事に描き出している。コマの大きさ、形、構成、セリフ、人物の描き方、それらすべてを効果的に使って、読者の目を釘付けにしてしまう。つげ義春の作画法は恐ろしいほどに巧妙である。