日野日出志の「女の箱」論 (連載1)

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日野日出志の「女の箱」論 (連載1)

清水 正

 タイトル頁に〈女の箱〉が描かれている。箱の中には般若のお面と能面、日記帳、針のない丸時計、般若の口からは蛇が箱の外にまで顔を出している。箱の模様は二匹の太ったネズミのシルエットのようにも見える。箱の蓋は開けられているから、これは作者による〈女の箱〉の種明かしと言ってもいい。時計に針がないことは時間が計測不可能という意味以上に、時の停止、〈女〉の〈死〉を暗示している。日記帳は女の人生の記録であり、彼女の全歴史を意味している。般若はこの世に残した怨念の隠喩であり、その口から長い身をさらして箱の外に出て来た蛇は、未だ〈女〉が成仏しきっていないこと、現世に対する恨みつらみが解消しきっていないことを意味している。はたして、この〈女の箱〉の蓋を締め切る者は誰なのか。このタイトル頁の絵は読者に対する一種の挑発ともなっている。

 1頁1コマ目は二分の一のスペースで、画面中央下部にに主人公の女を描き、画面左丈夫にギターを抱えた青年を描いている。画面右上に「女は箱を集めるのが好きだった」とあり、青年はギターを爪弾きながら「また何か箱を作っているのかい?」と訊いている。それに対する女の返事は画面左下に「ええ……とっても大切な大切な箱をね…………」と書かれている。

女は白いタートルネックの長袖の上着で豊満な肉体を包んでいる。日本の美しい女を代表する瓜実顔にはキリッとした細い眉、切れ長の目、小さいが豊かな厚みを持ったそそられるような赤い唇、高くも低くもないほっそりとした鼻が描かれている。清潔感あふれる黒髪はアップにしてきれいにまとめあげている。顔全体から受ける印象は、清楚であるが同時に妖しい色香を放っている。内面に秘めた一途な思いがその憂いを含んだ顔にかすかに滲み出ている。

女の下半身は大きな机の下に隠れて見えないが、上半身の端正な姿勢からおそらく正座していると思われる。コメントには「女は箱を集めるのが好きだった」とあるが、机の上で女がしているのは明らかに〈箱作り〉である。出来合いの箱を購入して集めるというのではなく、青年が彼女の背後から「また何か箱を作っているのかい?」と訊いていたように、女は自分の手で鋏やノリを使って箱を〈作る〉ことに興味があったと見ることができる。女の手、その指は白く、細く、まるで独立した生き物のような魅力を放っている。

女の正面にすでに作り終えた箱が置かれている。この箱には蓋がなく、中ががらんどうである。全体的に黒っぽく描かれているので、箱の〈空っぽ〉は特に強調されていないが、女が〈箱〉に特別の関心を持っている以上、この〈空っぽ〉を見落とすわけにはいかない。女にとって〈箱〉と言えば、すぐに想い浮かぶのは〈子宮〉ということになる。〈子宮〉が空っぽということは、少なくとも二つの象徴的な意味をはらんでいる。一つは、女が愛する男の子供を望んでいること、もう一つは、すでにこの女が身ごもった子供の堕胎を経験しているということである。堕胎と見た場合、机の上に置かれた読者の側に刃先を向けた鋏は、まさに堕胎手術に使われた道具を意味することとなる。

女の表情は艶めかしくも、こわばった緊張を見せて、実に意味ありげでもある。今、女の白い手が作ろうとしているのは、この空っぽの箱の蓋であろうか。机の上に端正に置かれた箱は正方形だが、これを二倍ほど横に延ばせば棺桶とも見えよう。箱が遺体を入れる前の棺桶に見えれば、女が作業机にしているこの机もまた大きな棺桶に見えてこよう。女はすでにこの時点で、机(棺桶)に下半身を入れていたことになる。

 青年は開けられた窓のそばに座ってギターを弾いている。ギターは流しの商売道具であり、流浪、漂浪の隠喩である。この青年は一カ所に定住できない男として、いつでも逃げ出せる窓際に身を置いている。

女は窓から遠く離れて、部屋の奥そのものに座している。女が望んでいるのは〈部屋〉に象徴される安住・安逸であり、ささやかな幸福である。女は〈大切な大切な箱〉を作ろうと情熱を傾けているが、しかし描かれた女の表情にポジテイブな情熱を感じることはできない。女の表情の底には、彼女自身の力ではどうすることもできない虚無が潜んでいる。どんなに立派な箱を作っても、結局その箱の中身を満たしているのは〈空虚〉でしかないことを、この女は予め承知しているのである。

虚無をはらんだ情熱は妖しい力を発揮する。はたしてギターを抱えた青年のまなざしは、箱作りに熱中している女の背中に、この妖しさを感知することができたであろうか。