意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載12)

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー


意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載12)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

文芸GG放談 熱海「ラ ビスタ」にて。2010.12.26 山崎行太郎清水正
ドストエフスキーを四十年読み続けてきても基本的な〈読み〉の姿勢が変わることはない。『カラマーゾフの兄弟』を読めばやはりイヴァン・カラマーゾフの言葉に最も耳を傾けることになる。彼は言う「ぼくは人類一般の苦悩について話すつもりだったんだが、それよりむしろ子供だけの苦悩だけに話をかぎろう」と。イヴァンは数々の幼児虐待の事例を語り続ける。しばしイヴァンの語るところに耳を傾けておこう。

 たとえば、五歳になる小さな女の子が、《世人の尊敬を集めている官吏で、教育も教養もある》両親から目の敵にしていびられる話がある。いいかい、ぼくはもう一度はっきりと断言しておくがね、かなり多数の人間には一種特別の性向、つまり幼児虐待の嗜好があるんだ。それも、相手は幼児にかぎられている。それ以外の一般の人間に対しては、この同じ虐待者がむしろ親切で柔和な態度を見せるくらいで、いかにも教養ある、人道的なヨーロッパ人といった感じなのだが、そのくせ子供をいじめるのは大好きだ、いや、その意味では子供好きとさえいえるほどなのさ。つまり、幼い子の身を守るすべも知らないたよりなさ、それが虐待者の心をそそるのだし、どこへ逃げかくれようもなければ、だれにすがりようもない幼な児の天使のような信じやすさ、それが加虐者のいまわしい血潮をたぎらせるんだね。むろん、あらゆる人間の心には野獣がひそんでいる。怒りに人を狂わせる野獣、責めさいなまれる犠牲の悲鳴に情欲の血をたぎらせる野獣、鎖を放たれてなんの歯止めもきかなくなった野獣、放蕩生活の結果、通風だの肝臓病だの、いろいろな病気にとりつかれた野獣、その他さまざまだ。そんなわけで、このかわいそうな五歳の女の子を教養ある両親がありとあらゆる拷問にかけたんだね。(273〜274)

 この後、イヴァンは教養ある両親が五歳の娘に加えた数々の虐待を具体的に語った直後、次のように言う。

 え、アリョーシャ、おまえにはこのばかげた話が理解できるかい、おまえはぼくの心の友で、神に仕える敬虔な修道僧だ。どうしてこんなばかげたことが必要なのか、神によって創造されたのか、おまえには理解できるのかい? こういうことがなければ、人間は善悪を識別できず、この地上に存在できないなんて言うやつがいる。しかし、こんな代価を払ってまで、くだらない善悪なんか認識する必要がどこにあるんだ? 認識の世界全体をもってきたって、この子供が《神ちゃま》のために流した涙ほどの価値もないじゃないか。ぼくは大人の苦しみについては言わない。大人はりんごを食べてしまったんだから、どうなろうと知ったこっちゃない、悪魔にでもさらわれるがいいんだ、だがこの子供たちは、子供たちはどうなんだ!(274) 

しばしわたしはイヴァンの声に自分の声を重ねていたい。


 いまは理解したいとも思わない。ぼくは事実にとどまるつもりだ。もうずっと前から、ぼくは理解なんかすまいと決めてしまったんだ。何かを理解しようなんて気を起すと、たちまち事実を曲げにかかるからね、だから事実にとどまろうと決心したのさ・・・(276)
 я и не хочу теперь ничего понимать.Я хочу оставаться при факте.Я давно решил не понимать.Если я захочу что-нибудь понимать,то тотчас же изменю факту,а я решил оставаться при факте…(ア222)    

 ぼくは自分のこの目で、鹿がライオンのすぐ横に寝そべり、斬り殺された男が立ちあがって、自分を斬り殺した男と抱き合うさまを見たいんだよ。この世のすべてがなんのためにこうなっていたかを、万人が忽然と悟るようになるとき、ぼくもその場に居合わせたいんだよ。この地上の一切のり宗教はどれもこの願望を根拠にしているけれど、ぼくもその実現を信じているんだ。しかしだよ、あの子供たちはどうなんだい、そうなったとき、ぼくはあの子供たちをどうすればいいんだ? これが、ぼくの解くことのできない問題なのさ。(276〜277)

 いったいこの世界に赦すことのできる人、赦す権利をもった人がいるものだろうか? ぼくは調和なんて欲しくない、人類を愛するからこそ欲しくないんだ。ぼくはむしろあがなわれることなく終った苦しみ、癒されされなかったぼくの憎しみを、たとえぼくがまちがっていようと、いつまでも抱えていたいんだ。(278)
 Есть ли во всем мире существо,которое могло бы и имело право простить? Не хочу гармонии,из-за любви к человекчеству не хочу.Я хочу остваться лучше со страданиями неотомщенными.Лучше уже я останусь при неотомщенном страдании моем и неутоленном негодовании моем,斜体хотя бы я был и неправ.斜体(ア223)
カラマーゾフの兄弟』を読み返すたびにイヴァンの言葉が胸に突き刺さる。〈神に仕える敬虔な修道僧〉アリョーシャのうちにも悪魔の子供は潜んでいる。父親スネギリョフがみんなの前で侮辱されれば、決闘をもってしても辱められた誇りを奪回しなければならないと考えるイリューシャ少年もまた、巧みにそそのかされれば飢えた番犬に針の入ったパンを投げ与えたりもする。子供を犠牲にした人類の調和よりは、むしろ悲嘆と苦悩と共にあることを選ぶ、そのイヴァンですら、その内部に父親殺しを唆す野獣が潜んでいる。が、ここではイヴァンが問題にしている幼児虐待に焦点をしぼろう。わが子を虐待することに快楽をおぼえる親を批判し、虐待される子供の側に立って、その悲しみと共にあり続けようとする者にすら、幼児虐待に快楽を覚えるような〈悪魔〉が潜んでいるということ、このことを認めたときに、いったいひとは何を言うことができるのだろうか。

清水正ドストエフスキー