意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載11)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載11)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

文芸GG放談 熱海「ラ ビスタ」にて。2010.12.26 清水正
カラマーゾフの力は限度を越えて燃え尽きるまで突き進む。ドミートリイはグルーシェンカをめぐって父親と骨肉の闘争の渦の中に飛び込んで行く。フョードルもまた同じである。彼らはお互いに家族の一員であるなどという意識は欠片もない。金と女の絡んだ争いは、フョードル殺しが発覚した時点で、ドミートリイに嫌疑がかかる。『カラマーゾフの兄弟』の魅力の一つが、父親を殺した者はいったい誰なのかという、犯人探しにあることは否めない。ところで今、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいて最も興味深い人物はフョードル・カラマーゾフである。
 ドストエフスキーの全作品の中で、フョードルと血縁関係にある人物は『おじさんの夢』のファマー・フォミッチ・オピースキンであろうか。ドストエフスキーの人物たちはみなそれぞれ道化的な自意識過剰に苦しんでいるが、ファマーという人物のグチャグチャぶりは中でも特に常軌を逸している。彼に下す一義的判断は悉く、彼の得体のしれない煮込み鍋の中でたちまち溶かされてしまう。彼の内部世界を共に生きることは危険きわまりない。処女作の自意識家マカール・ジェーヴシキンは狂気の一歩手前でかろうじて身を守ったが、二作目のゴリャートキンはマカールの未だ顕在化されなかった精神の分裂を先鋭的に体現してしまった。ドストエフスキーは狂気に陥った主人公を描く側にかろうじて立っていたが、もちろんゴリャートキンの狂気を自らの内に抱え込んでいた。物書きとしての〈純粋意識〉が、主人公の狂気に襲撃されてその役割を全うできなければ、作者もまた狂気の渦にさらわれていくことになる。『分身』執筆当時のドストエフスキーが精神的な危機状態にあったことは事実だが、しかし彼は物書きとしての、演出家としての〈純粋意識〉を破綻させることなく保持した。
 ドストエフスキーは『ポルズンコフ』で半職業的道化師ポルズンコフを、『白痴』で本格的道化師レーベジェフを描いたが、ファマー・フォミッチやフョードル・カラマーゾフはまさにカオスそのものと言ってもいい、巨大な道化である。ところでドストエフスキーは、このファマーやフョードルの血縁関係に関してはいっさい触れていない。彼らはこの地上世界に孤児として投げ出された寄宿者であり、大地にしっかりと根付くことを予め拒まれたような存在であった。フョードルは貴族の令嬢アデライーダと結婚し、彼女の財産のすべてを自分のものにしてしまった。まるで妻の財産目当てのために結婚したようなもので、幸福な家庭を築きあげようなどという気持ちはまったくなかった。妻も妻で、幼いミーチャの面倒も見ずに、神学校での教師と駆け落ちしてしまう。『カラマーゾフの兄弟』の作者は、アデライーダと教師とが駆け落ちに至るまでの経緯を具体的に語ることをしない。読者はアデライーダの駆け落ち相手の名前も年齢も家族関係も知らない。二人がどこで出会い、何をきっかけにして親密な関係になったのか、アは幼い我が子を捨ててまでどうして駆け落ちする気になったのか。何一つ知らされることはない。アデライーダはやがてペテルブルクのさる建物の屋根裏部屋で死ぬが、その死因に関しては飢えのためとかチフスであったとか、作者にあるまじき報告をしてすませている。『カラマーゾフの兄弟』の作者はある時は全能の神のごとき立場から、またある時は一取材者のごとき様相をもって作品を書き進めている。読者は中途半端な情報をもとにしてこの作品の中身を解読していくほかはない。フョードルは駆け落ちした妻の死を知ることになるが、情報社会の今日においてすら蒸発者を発見することがきわめて困難なのに、どうしてフョードルはその情報を入手することができたのかが最大の疑問として残る。もしかしたらフョードルは妻の駆け落ち情報も予め知っていて、専門の尾行者を張り付け、二人の動向を逐一知らせていたのではないかと思うほどである。フョードルという男、それぐらいのことはしかねない。何かも知っていて、おどけて見せるのがフョードルである。自分が殺されることさえ知っていて、淫蕩三昧に明け暮れていたとも思う。
 フョードルはイヴァンとアリョーシャに神の存在について尋ね、神の存在を信ずるというアリョーシャではなく、神の存在を信じないというイヴァンに賛同する。この場面でわたしが注目するのは、フョードルがアリョーシャを「わたしの天使」(мой ангел)と呼んでいることである。神を信じ、ゾシマ長老に師事しようとするアリョーシャを、神を信じないフョードルが「わたしの天使」と呼んでいること、この一点にこだわれば、フョードルもまたアリョーシャを通して神に繋がっていることになる。まさに、信仰者と無神論者を羊羹を切断するように腑分けすることはできない。ドストエフスキーの〈無神論者〉は神の存在そのものを否定しているのではなく、神の創造した世界の不条理性を激しく痛ましくは告発する者たちである。彼らは神に背を見せながら、その神から離れ切ることのできない者たち、神に反逆しながら神と共にある者たちである。イヴァンの言葉で換言するなら、彼らは「神がなければすべてが許される」と思っているのではなく、「神が存在するからこそすべてが許されている」と思っているのである。反逆も抗議も悲嘆も憤怒も〈神の存在〉を前提にしているのであって、ドストエフスキーの〈無神論者たち〉は例外なくヨブの血を継承している。反逆し続けるヨブ、殺人を犯すヨブ、少女陵辱をするヨブ、発狂するヨブ、自殺するヨブ、はてしなくおどけ続けるヨブが、ドストエフスキーが描いた〈無神論者〉であり、彼らの内部に食い入った〈信仰〉が消え去ることはないのである。
 「ヨブ記」や「創世記」を読んで、興味深く思うのは全能の神が自らが創造した人間に全幅の信頼を置いていないことである。指示し命令したことに人間が忠実であるかどうかを常に監視し、違反した場合には厳しく罰せずにはおれない、その狭量な性格は〈全能の神〉にまったく似つかわしくないものである。エヴァとアダムが〈悪魔〉の誘惑に乗って禁断の木の実を食することを〈全能の神〉が予め知らないわけはない。にもかかわらず、この〈神〉は試したり唆したりせずにはおれない。文学作品を読むように解読すれば、人間を唆す〈悪魔〉とは〈神〉の別の姿にしか思えない。「創世記」の〈悪魔〉は〈神〉の核心に通じている。神に禁じられているとして、エデンの園の中央に生えている木の実を食べようとしないエバに向かって、この悪魔は「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と言う。人間の誘惑の仕方としては最高級のものである。傲慢な人間は神以上のものとなることを願っているのだ。ところで、「創世記」を文学作品と同じように見れば、当然〈神〉と〈悪魔〉や〈エバ〉と〈アダム〉は登場人物の一人となる。すると「創世記」の作者こそが〈神〉と〈悪魔〉の創造者ということになる。いったい、「創世記」の作者はこの世界を創世した〈全能の神〉を徹底して相対化しておきながら、その〈全能〉をどのように信仰したというのだろうか。「大審問官の劇詩」で、老大審問官の前で常に沈黙を守り、最後にこの大審問官にそっと接吻したキリストを描いたイヴァンは〈無神論者〉の姿勢を崩さず狂気の淵へと落ちていった。はたして「創世記」の作者はどのような運命をたどったのであろうか。「ヨブ記」を読み通して、まず思ったのは、このテキストが何層もの地層を抱え込んでいるということであった。素朴に何の疑問もなく神を信仰していたヨブの物語、ここには神に対する懐疑は微塵も入り込んでいない。いわば神とヨブのあいだには目に見えない絶対信頼の絆が成立している。ところが、この神と人との絆に罅を入れようとするものが現れる。そのものとは悪魔である。が、この悪魔は単独でヨブを懲らしめることはしない。悪魔は神に相談を持ちかけるかたちで、ヨブの信仰が絶対ではないことを言い、ヨブに災いをもたらす許可を神から前もってもらっておく。ここに悪魔の狡知を見る前に、神の無意識的な次元でのヨブに対する猜疑を見ることもできよう。悪魔は神のこの〈猜疑〉につけ込んで、神へと接触し、親密な関係を取り結んで、神を唆したと見ることができるが、同時にまず最初に神こそが悪魔を近くに呼んで、彼の猜疑を晴らすための仕事を指図したとも見える。いずれにしても神と悪魔は一心同体で、彼らを同時に見れば、まさに双面神の肖像となる。ヨブは子供、家畜のすべてを失っても、神への信仰をなくすことはなかった。が、悪魔はなおもヨブの信仰に絶対性を認めない。悪魔は再び神に提言し、今度はヨブ自身に災いをもたらすことにする。わたしたちは、ヨブへの試みが悪魔の独断で決行されたのではないこと、あくまでも神の認可のもとになされた試みであることを失念してはならない。ヨブは全身、皮膚病におかされ、その痒みに日夜のたうち回り、ついに神へ向けて反逆の牙を剥くようになる。ヨブの反逆は深い悲嘆と憤怒を抱え込んだ魂の叫びであり祈りである。信頼していたものが、その信頼に応えるものであって欲しいという嘆願と呪いにまで達した祈りである。ヨブが、結果として悪魔の言う通りになってしまったことは、ヨブの中に自覚されざる神への猜疑が潜んでいたことを示していよう。が、同時に、ヨブのこの悲嘆と憤怒こそが、神に対する大いなる信仰の証ともなっていよう。血と涙で呪ううちにこそ、神への熱烈なる思いがこもっているとも言えるのだ。イヴァンは自らの発狂をもってして、神との関係を深めている。フョードルは淫蕩三昧な生活に溺れ続けることで神との絆を断ち切ろうとはしない。フョードルが二番目の妻にしたソフィアの彼を見るまなざしは、彼の魂を鋭い刃で切りつける。フョードルは、マルメラードフの言う〈ものに感ずる心〉をロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの百倍以上も備えていたと言っても決して大げさではない。女二人を斧で殺害して〈罪〉の意識に襲われることもなく、復活の曙光に輝いてしまったロジオンよりも、淫蕩三昧に生き続けて殺害されたフョードルの、その罪深き人生の底なしの魂の宙空に戦慄を覚える。