「意識空間内分裂者が読むドストエフスキー」連載1〜8までを読んだ感想

「文芸批評論」受講生のレポートを紹介します。
意識空間内分裂者が読むドストエフスキー 連載8回までを読んで
武田美穂
意識空間内分裂者が読むドストエフスキーというタイトルの連載なのに、意識空間内分裂者についての説明が連載3回目にして初めて語られたことと、山城むつみの「ドストエフスキー」から思いつくままにと書かれているのに、山城むつみさんの著書について書かれているのはたった二行と引用だけというのが面白いと思いました。

連載の特に罪と罰について書かれているところを重点的に読みました。が、これを読んでも先生が何をおっしゃりたいのかはいまいちわかりませんでした。罪と罰の解釈は、先生が文芸批評論の授業の中でお話ししてくださったことと内容が重なる部分があったので、改めて文字で読み、授業の言葉だけでは理解できなかった部分を、こういう風に読めるのかと納得しながら読みました。しかし、先生が何をおっしゃりたいのか、特に意識空間内分裂者についての説明諸々は、これを読んだだけでは理解できませんでした。ですので、意識空間内分裂者についての感想ではなく、この連載と、先生が今まで授業でお話してくださったことを中心に感想を書きたいと思います。
この連載を読んでと、先生の授業を受けた率直な感想は、先生のお話は、絵の具を垂らしてストローで吹く、ドリッピングのようだなと思いました。色々な方向に吹き飛ぶけれど、先生の核心的な部分は色濃く、飛んだ話に流されない。という印象を受けました。

罪と罰を読んでいたときは特に思わなかったのですが、先生のお話しを聞いているうちに、先生がおっしゃる通り、罪と罰は「書かれていない部分」が本当に多いと思いました。罪と罰に書かれていることは、ほんの一部分にすぎず、そして表面だけであると認識しました。
先生は罪と罰について、ドストエフスキーが「語っていない部分」特に性的関係について書かれていることが多かったように見受けました。それは罪と罰で性的関係が描かれる場面がなかったということと、先生の罪と罰の解釈には性的関係が重要であったからだと思いました。
ソーニャの下着の話が出て来たときは驚きましたが、確かに、この物語からはソーニャが娼婦である事実の他は、どんな格好でどんな人とどんな風に…何も書かれていないということに気付かされました。
先生のお話ですと、性的関係を中心に話が進んでいるような気がしてしまうのですが、当時はこんなに体資本な世の中だったのでしょうか。女性が働ける世の中ではないとは思うのですが、体を売る商売に就かなくても、体を売らなければ生きて行けないような世の中なのでしょうか。

罪と罰では実際には書かれていない先生の解釈だけで進む物語があったら面白そうだなと思いました。まずロジオンの生い立ちから始まり、ペテルブルクに出て来るまで、その後は主にプリヘーリヤとドゥーニャに焦点を当て、その後はリザヴェータとソーニャの話など、一つのお話にできるくらい、先生の解釈は広範囲であり、奥が深いと思いました。
1年間授業を受けさせていただいて、先生は今まで知らなかった小説の読み方や捉え方をされていてとても勉強になりました。1年間ありがとうございました。

「人の中に潜むもの」と「デスノート
原佳乃子 

 「空間意識内分裂者が読むドストエフスキー」第一回連載から第八回連載までを拝見させていただきました。一通り読み終えた後、自分の中に残っているキーワード的なものは「人の中に潜むもの」「デスノート」でした。
 「人の中に潜むもの」と言うキーワードが思い浮かんだのはロジオンの家族における考察からでした。ドゥーニャやプリヘーリヤが魔性の女だとか、ロジオンの打算的な部分とかそういった人間の汚い部分といいますか、負の部分を見ると“人間は誰しも悪魔的な面を持っているのだな”と思いました。表面だけでは人の裏なんてわかりません。しかし、あえてそういう部分の考察を見ると私は本の中の人物たちが急に現実味を帯びてくるように思うのです。様々な本の中の人物はやはりどこか現実とは違う異世界の話として捉えている部分があります。いくら現実の設定を本に練り込んでも“違和感”は拭いきれません。その理由は多分、本の中の人物たちがあまり現実的ではないからなのではないかと思います。書かれているのは表面だけの人物像。はっきり言うと、人間のドロドロした感情や汚い部分が見えないのです。そういった人間臭さが私は本の中の人物に現実味を持たせるのだと思います。全てが全て、現実味を持った方がいいと言う訳ではないです。もちろん現実離れした設定で、まるで夢のような本も好きです。しかし、こういう類の本はそういった裏の部分を考察することでますます面白くなると個人的には思っています。汚い部分ももちろん誰しも持っているもので、それをロジオンたちが示してくれました。ソーニャにおいては“人間にも天使のような面がある”と言う事を示された気がします。それが偽善かあるいは本物かどうかはわかりませんが、この考察から人間は相反する二つの側面が必ずあるものなのかなと思いました。
 「デスノート」と言うキーワードはブログを読んでいる中でロジオンがやはり夜神月と同じなのだと思ってしまった事から思い浮かびました。頭脳明晰、容姿端麗、正義を信じ自分の自信を信じる青年。ロジオンもそうだが、夜神月もいい性格しているなと思った。偽善者ぶっているというか、善良な市民を演じていおいて裏では人を殺める殺人者。夜神月も充分ドロドロした汚い部分があって面白いなと私は感じました。イケメンで頭が良くて性格もいい、そんな完璧な人間いるわけがないですし、そんな人間に興味なんてわきません。人を惹きつける何かはきっと汚い部分があるからこそ生まれるものだと思います。ロジオンも夜神月も性格がよかったらまず人を殺したりはしない、そうすると物語が展開しないしつまらない。だから読んでいる人を惹きつけるには人間のドロドロした汚さが必要なのだと思います。本と人間の汚い部分は切っても切れないものなのではないかと考えさせられました。自分が思ったことや先生の考察を思い出しながら、卒業までに「罪と罰」を読めるよう努力したいと思います。

罪と罰』の純潔について
 山野目 麗
 “チーハヤ・ソーニャ“という言葉はもう何度、文芸批評論の授業で飛び交ったことだろう。今回、清水正ブログの連載記事をテキストとする課題が出ていなければ、私はずっと黙っておくつもりであったが、そのチャンスを与えられた。
 私の考えでは、ソーニャは春を売って金を稼ぐ以前に、間違いなく処女を喪失しているはずである。考えられる点は、どう考えても売春の手際が良すぎるのだ。
ソーニャは母から冷たく突き放された言われ方をされながら、その日のうちにショールをかぶり外に出て、たた3時間ほどで銀貨30ルーブルを手にすぐに帰ってきている。
はっきり言おう。もしも当日、処女膜が破れていたとしたら、そんなに早く帰ってこれるわけがないのである。
そもそも家から出て、たったの3時間。行為にかかった時間をどんなに短くても2時間弱と想定しよう。ただ動物のように繋がるだけならば短時間で容易ではあるが、人間のSEXはどんなに不自然な間柄だとしても、会話から始まるはずだ。緊張をほぐすためにしばし男女は話す。不意に我慢しかねた男の手がソーニャの唇、もしくは頬に触れる。ソーニャも覚悟を決め、脱がされていく。
そして、行為の時間を差し引いた後、銀貨を受け取るなどの取引が行われて、かつ自宅との行き帰りの往復時間が1時間以内というのは、どう考えても短すぎる。そもそも処女であったとしたのなら、行為の前後に強い不安や激しい羞恥が身体を覆い、しばらくその場から動けなかったはずである。
以上のことから、ソーニャは処女であるにしては、すべての想像しうる作業を、淡々とこなしすぎているのだ。
また、私はソーニャの非処女説と併せて、ラスコーリニコフの持っていたであろう下卑た期待こそが彼女を辱めている正体なのではないかと思う。マルメラードフによる話で、一種「幻」のように不幸で可憐な娘の姿を思い浮かべたラスコーリニコフの脳内で、果たしてソーニャは何を着ていただろうか。おそらく、男が「身体を売っている不幸な娘」というワードを他人から聞かされた際、思い浮かぶ娘の姿はどう考えても裸体のはずなのである。ラスコーリニコフは、こうした最も人間くさい下卑た感情を潜ませていたのではないか。
これまで色々と語ってはきたが、正直な話、ソーニャに処女膜が貼ってあろうがなかろうが、もはやこのドストエフスキーの大鍋のなかにおいては何の差し障りもない些細なことだろう。ラスコーリニコフの男性としての欲望があったとしても、それは善悪すべてが溶け込まれたドストエフスキーの世界観において、なんら恥ではないのだから。

【己も分裂者であるが故】-意識空間内分裂者が読むドストエフスキー感想-
濱田茜葵
●自身の意識空間内分裂者的見解
 私自身、実はここ半年程、自分が何者なのかわからなくなってしまった事がある。それはハッキリとした実態のあるものではなく、漠然とした地に足のついていないような不安であった。私の実態とはなんなのであろう。この疑問に未だに悩まされ続けているのは事実である。家族の前にいる<我>、大学にいる<我>、高校時代の友人といる時の<我>、アルバイト先での<我>……もっと言えば、大学の友人Aといる時の<我>とBといる時の<我>などなど……考えれば考えるほど、私の中の分裂した存在は数えきれない程にいる事をふと悟ったのである。知り合う人間の数が増える程、<我>も無限に浮かび上がってくる。その事を漠然とした不安として感じていた時、ふと気がついてしまった。「では、無数に枝分かれした<我>の根源はどの<我>なのであろうか?」。ようするにそれは、清水先生のブログで言う所の“分裂した様々な<我>を統治する意識(いわば映画における監督のような存在)”を私自身が見失ってしまっていると言う事なのではないか。どんなに考えても、むしろ考えれば考える程、“私の中の統治する<我>”の姿は闇に包まれて行った。むしろそれは悪化の意図を辿り、そちらに思考を奪われていたせいか、私の意識空間内の分裂者達も混乱を始めた。その場に応じた意識の中の<我>を正しく選択できなくなって来たのである。これは私の精神内は大問題の大事件であった。統治している<我>を模索しすぎた故の代償だったのかもしれない。元々統治する<我>は漠然とした物で、意識内でひっそりとしていなければならなかったのに、その実態を探ろうとした<我>(いわゆる反乱者)がその領域に足を踏み入れてしまったからこそ、混乱を招いたのかもしれない。
 先生のブログ内で話されている意識空間内分裂者とは、そう言った意味合いではないかもしれませんが、私のその精神状況もそのような事なのかもしれないと、一種の共鳴するような感情を身勝手にも感じた事もまた事実でした。均衡が崩れて崩壊してしまわない為にも、その精神をストップさせる<我>が区切りをつけ、新たなる統治する<我>を作り出してなんとかそれ以上の侵食を食い止めましたが、今でもふと考える事があります。私の中の統治する<我>はいったいどれなのだろう?と。だが、そこに区別をつけようと言う考えが、そもそもの間違いなのかもしれない。ですが、文献などにおいて、その人物の意識空間内分裂者を紐解いて行くのも、また面白いかもしれません。しかしこの行為は、狂気と背中合わせであると言う事を、私は無視をして考える事はできません。
 「意識空間内分裂者は文字通り意識空間内においては分裂しているわけだが、明晰な意識、演出家としての純粋意識を保持している限りは狂気に陥ることはない。」とブログで仰っていましたが、裏を返せばその明晰な意識が混乱に陥った時に、初めて人は狂気に陥ると言う事です。ですが、バフチンが言うように、ポリフォニック的思考法を身につければ、それら全てが迫害され読者自身が<無>のような、台所で言う所のスポンジのようにならなければいけない。私自身、いくつもの<我>を意識空間内に住まわせているのに、それを一気に排除しよう物なら、いったいどんな末路が待ち受けているのであろうか。それは恐ろしくもあり、しかし並々ならぬ興味を感じずにはいられませんでした。いつ何時でも演じ続けている自意識。「神を信じる」と演じた<我>がいるのならば、演じる前の<我>はいったい何者なのだろうか?いったいどのような思想を持ち合わせて最終的に“演じる”事を選んでいるのか。この答えは、命が尽きて火葬され灰になって海に捲かれた後も、解明されない謎であり、謎のままでなければいけないのかもしれない。

●「罪と罰」における、描かれていない箇所への飽くなき魅力。
 毎度の事ながら、批評家としての清水先生の思考の底深さには圧倒されています。私自身、親だの友人だの教師だの公僕だのに叱咤される際に「挙げ足をとるな」だの「言うならもっとマシな考えをしろ」だの言われますが、清水先生の批評は既に“挙げ足を取る”だなんてオコチャマな思考ではなく、それは既に膨大な“深読みする”と言う領域を通過し、更なる底へと潜り続けているのだと感じます。
 「罪と罰」は授業の一環を機会に個人的に購入して読ませて頂いたのですが、清水先生に出会う前に読んでいたら、素直にそのまま「描かれている事」だけを鵜呑みにしたままで終わっていたのかもしれません。ですが私の場合、清水先生の深読みを少々聞いてから読んだもので(自分でも影響を受けやすい人間だなとは感じます)、読んでいる際に「描かれていない事」までもが見えてくる始末でした。そうなると、自分でもそこから深読みをしてみたくなります。そうする事によって、「罪と罰」の魅力にどんどん魅了されてしまいました。
 ブログを読ませて頂いた事においても刺激を受けました。例えばソーニャ踏み越えのシーンにおけるポーレンカの視点です。確かに、その場にポーレンカがいなかったはずはない。いやむしろいたはずであると考えたくて仕様がない。黙ってその様を見ていたポーレンカは何を思ったろう、それとも、ソーニャへ向けて一言二言言葉を発していたのか、そこで無力な自分を語ったのか、はたまたその裏側で見物者としての存在にホッとする自分を感じていたのか、はたまた、残酷にも無関心に別の事に思いを馳せていたのか……考えれば考える程に答えはでずに、仮説ばかりが積み重なって行くが、そのたびに私は「罪と罰」の底知れない魅力の沼に沈み込んで行ってしまうのです。
 プリヘーリヤはドゥーニャを犠牲にする以前に、すでに自らを犠牲にしていたと言う事。ソーニャの処女喪失の謎。おかまであったかもしれないポリフィーリィ。ふと思ったのですが、異性になるべく去勢をしっかりと終えた人間だったとしたら「私はおしまいになってしまった人間」と言うのでしょうか?望み通りの姿を得ていたなら、心に支える物があったとしても何かしらの希望を見出せるものでは?私の中ではそこから、「もしかしたらポリフィーリィは去勢はしたが手術に失敗して中途半端な物体となってしまったのではないか?」と言う考えも浮かびました。もしそうなら、今だに彼の精神は解離した浮遊状態にあるのかもしれない。
 清水先生のおっしゃる通り「罪と罰」は読み旅に新しい発見を見せてくれます。特に意識空間内分裂者についてもっと知りたい。「分身」も探して読んでみたいと切に思いました。