意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載10)

意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載10)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正


文芸GG放談 熱海「ラ ビスタ」にて。2010.12.26 山崎行太郎清水正
 スヴィドリガイロフはペテルブルクに来ると、若い娘と婚約して、娘の親たちを喜ばせる。何と言っても、スヴィドリガイロフの持っている財産がものを言う。娘もまんざらではない。恋愛、性愛に金の力がどれほど食い入っていくものなのか。誇り高いドゥーニャ、スヴィドリガイロフの申し出さえ拒んだドゥーニャですら、ルージンとの婚約という〈打算〉には屈している。ドストエフスキーは人間の関係において〈金〉がいかに大きな役割をはたしているかを徹底的に描いた小説家だが、男と女の性愛に関しては具体的に生々しく描くことはなかった。性愛の場面は表層舞台の奥の奥に設定され、行間の〈無〉をのぞき込むことのできない読者にはまったく見えない工夫を凝らしている。
 わたしはきれいごとの次元でドストエフスキーを読んでわかったような顔はしたくないので、描かれざる性愛の場面や性的内緒ごとにまで想像力を駆使したいと思っている。『カラマーゾフの兄弟』はアリョーシャを囲んだ子供たちによる「カラマーゾフ万歳」の唱和で幕を下ろしている。この「カラマーゾフ万歳」をアリョーシャ・カラマーゾフ万歳とのみ受け取るわけにはいかない。「カラマーゾフ」の中にはイヴァンも、ドミートリイも、フョードルも、そしてわたしの解釈によれば、フョードルがスネギリョフの妻を寝取ってその結果誕生してきたイリューシャも存在する。カラマーゾフ家の人々まで言えば、フョードルの最初の妻でドミートリイの母アデライーダ、フョードルの二番目の妻でイヴァンとアリョーシャの母ソフィヤも含まれることになる。「カラマーゾフ万歳」とは、わたしの耳には全世界肯定の声、ニーチェの言葉で言えば大いなるディオニュソス的肯定の声に聞こえる。そしてこの大いなる肯定の声は、だからこそ何の解決にもならないということなのだ。罪も科もない幼い子供たちが残酷な仕打ちを受けているようなこの世界に踏みとどまりたくないというイヴァンの言葉は、神の創造した世界に対する異議申し立てであり、狂気を代償にした反抗なのである。わたしは『カラマーゾフの兄弟』を最初に読んだときから、イヴァンの「事実にとどまるほかはない」という言葉に共感を覚えた。この言葉はフッサールが創始した現象学の真髄を穿っている。現象学の絶望が体感できない者には、イヴァンの生の声は聞こえないだろう。

「三十歳になったら杯を床にたたきつけるんだ」の言葉も脳裡に刻印された。二十歳の頃のわたしにとっては、三十歳というのは一つの区切りであったし、三十歳まで生きれば十分という気持ちもあったのだろうか。不条理に満ちた世界に生きて〈真実〉を求めること自体の空しさを感じていた。そんなわたしも還暦を過ぎて、ドストエフスキーよりも長生きしてしまった。ドストエフスキーを読み続けても、結局、この世界に対する解答を得ることはできない。
 イヴァン・カラマーゾフは発狂してしまったが、もし彼が二十歳の時に『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたら発狂せずにすんでいたかもしれない。イヴァンは〈父親殺し〉に関して、スメルジャコフにはっきりと「あなたが殺したんですよ」と言われるまで、父殺しの張本人が自分自身であるという認識は持てなかった。イヴァンは「大審問官の劇詩」を書き上げるほどの知性と創作力を備えた青年でありながら、自分の無意識の領野に関しては無知であった。『分身』のゴリャートキンが自身の深層に潜む卑劣な〈我〉の存在に気づくことなく、その〈我〉(分身)の出現に立ち会うしかなかったような事態にイヴァンもまた直面する。精神病理学で言う自己像幻視である。当の本人の意識にとっては不気味な得体の知れない〈他者〉の出現であるが、彼本人の意識下の意識はそれもまた自分の〈肖像〉であることを知っている。だからこそ、いきなり、出現して来たものに不気味さを感じる。もしそれが、自分とは関係のない〈他者〉であれば、不気味を感じることはないであろう。それが、まさに自分がどんなことがあっても認めたくない、深層意識下に抑圧したものであるからこそ、その予期せぬ出現に、自己破綻的な驚愕と不気味を感じるのである。

 ドミートリイ・カラマーゾフの言うように、人間の心は広すぎるほどに広く、そこでは悪魔と神が永遠の、決着のつかない闘いを演じている。その闘いが壮絶さを極めれば、自己主体自体が壊滅の危機に追い込まれる。イヴァンは聡明な青年であったにもかかわらず、自らの心の深層に潜むものにねり対して無防備であり続けた。スメルジャコフの眼前に〈針の入った柔らかいパン〉を置きながら、その行為の意味することを認識できないでいた。ここでわたしの言う〈柔らかいパン〉とは〈神がなければすべては許されている〉という思想であり、〈針〉とは〈父親フョードルを殺す斧〉である。スメルジャコフは、乞食女リザヴェータがフョードルの屋敷に忍び込み、その風呂場で産み落とした子供であった。スメルジャコフは、淫蕩で女好きなフョードルの子供ではないかという噂が流れたが、当のフョードルはそれを認めなかった。しかし、〈悪臭を放つ〉という意味の動詞スメルジェーチ(смердеть)からスメルジャコフという名前をつけたのはフョードルであった。日本語に直せば臭太郎とか臭男と名付けられたさスメルジャコフは下男グリゴーリイに育てられて成人した。同じカラマーゾフの血を受け継いでいるかも知れないスメルジャコフは、にもかかわらずカラマーゾフ家の下男として仕えなければならなかった。いわば、彼はジューチカと同じ飢えた番犬であり、出生の秘密に関していつも空吠えしている〈犬〉であった。この〈犬〉がイヴァンという主人に仕え、〈神がなければすべてが許されている〉という、イヴァンの与えた柔らかいパンを口にしてしまったのである。フョードルを実際に殺したのはスメルジャコフであるが、それを命じたのは主人イヴァンであったということだ。イリューシャはきゃんきゃん鳴いて駈け去ったジューチカのことを思って苦しむ。イヴァンはスメルジャコフに父殺しの真相を聞いて苦悩の淵へ突き落とされ、しまいには〈悪魔〉の出現に立ち会うことになる。