ZED論再録(連載4)
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清水正の著作 D文学研究会発行本 グッドプロフェッサー
「ZED」を観る(連載16)「Souvenir Program」を読む(その14)
(初出「D文学通信」1213号・2009年08月20日)
「ZED」の舞台に幕はなく、劇場に入った時からすでに、ショーは始まっていると言ってもいい。まさにサーカス小屋の発想に基づいている。
劇場内での喫煙、録音、撮影はご遠慮ください、と歩きながら注意する女性の係員からして、その衣装はすでに演劇的なデザインと色彩がほどこされている。言わば彼女たちは舞台上の演技者と観客の中間地帯に配置された、ショー「ZED」のスタッフの一員と言える。
席に座ってまず眼を見張るのは半球体の〈地球儀〉と、舞台上空につり上げられた巨大な白テントである。この白テントは劇場全体を包み込む役目から解放されて、壮大な劇場に何か意味ありげに大きな波をうって吊るされている。
サーカスにおける白テントは、外部の日常世界を閉ざし、入場者を夢と冒険の世界へと誘うための防壁であり、雨風を遮る壁と天井の役割を果たしている。いったん、白テントの中へと入り込めば、そこには薄暗い〈母胎〉のような、妙に懐かしい感じのする空間が広がっている。照明の当てかた次第では、舞台の人物は大きな影絵となって内側の白テント(スクリーン)に映し出される。
ショーマンたちは、現実の世界では、まず起こりそうもない意外な出来事を、ショック死しない程度にいかに見せるか、ということもいつも考えている。薄い一枚の白テントをめくって、サーカス小屋に入った観客が求めているのは、日常を逸脱した物や事との生々しい出会いであり、体験である。そこにいる時間に、観客が日常を思い起こすようでは、すでに興行は失敗である。
クリエイターやアーティストは、観客すべてが背負い、引きずっている〈日常〉をすっぱりと切り捨て、瞬時に〈夢と冒険〉のファンタジーの時空へと連れ去らなければならない。そのためにさまざまな演出上の工夫があり、厳しい日々の習練がある。「ZED」がショーとして成功しているのは、インスピレーションを重要視するクリエイターたちのヴィジョンと、アーティストたちの高度で華麗な演技力が存分に舞台上に反映されている結果である。
二人のクラウンが書物の中に墜落した後、すぐに彼らのシルエットが舞台背後の白テントに浮かびあがる。クラウンは劇場内〈現実〉から、突然、予期せぬ墜落によって〈現実〉の向こう側の世界、まさに〈夢と冒険〉のファンタジーの世界へと旅立ったのである。ここで観客は、「ZED」の舞台が実に複雑な構造を持っているかを感じる。
クラウンは、道化的な存在として、中央に迫り出している円形舞台と観客席を自在に動き回っている。「ZED」で観客をいじくることが許されているのは、この二人のクラウンのみで、ほかのアーティストたちは〈夢と冒険〉のファンタジー世界からの逸脱は許されていない。彼らに許されているのは、高度で華麗な演技のみで観客の内的世界に入り込むことだけである。
円形舞台を中央に据えて、その背後に三段に及ぶ通路のような廊下舞台があり、そこでも、歌手が登場して独唱したり、バンド演奏があったり、アーティストたちの演技が披露されたりする。観客は、二つの眼で複数の豪華な演技場面を見なければならない。よくよく注意深く眼を凝らしていても、見逃してしまう場面も多い。劇場内で展開される演技演奏場面(さらに観客の反応など)を十台以上のカメラで撮影して〈映像作品〉に再構築すれば、いったい何本の作品が出来上がることであろうか。
セット・デザイナーのフランソワ・セガンが古代の天文観測儀アストロラーベに大きなインスピレーションを得たこと、また「舞台をあたかも映画の一画面のように埋め尽くしたい」と考えたことは重要である。古代の人々は満天の空に明滅する無数の星々を眺めながら、壮大な物語を作り上げた。星々は地上に生きる人間の想像・創造力を鍛え上げた。現実の世界で起こる様々な出来事の喜怒哀楽を星々の配置や動き、光の強さなどに託して運命的な物語を生み出していったのである。
時たま、思いついたように見上げる東京の夜空に、壮大で運命的な物語を喚起させるエネルギーは放たれていないが、古代の夜空はまさに宇宙大の劇場であり、仰ぎ見る者の想像力に神秘的な力を与えるものだった。自然が作りだす、スケールの大きな劇場と、そのドラマに神秘と畏怖を感じた者のみが、星々から創造のインスピレーションを与えられるである。
「ZED」を観る(連載17) 「Souvenir Program」を読む(その15)
(初出「D文学通信」1214号・2009年08月21日)
クリエイターたちと観客(批評家)が主体的に交わること、このことを「ZED」は改めて衝撃的に考えさせてくれた作品であった。
「ZED」の舞台をどう見るか。観客の固定化された〈視点〉は観客の数だけある。しかも観客一人ひとりが、舞台上に展開されるパフォーマンスの微妙に異なったところを見ていることは容易に想像できる。
〈地球儀〉の底から青い衣装の女神が舞い降りた時、観客の眼差しは女神の顔、女神の衣装、女神の姿全体、そのどこを重点的に見ているのか。人間の眼差しは瞬間的に移動して、それらすべてを視野に入れながら、自分の気になる部分へと向けられる。わたしなどは女神を吊るしているロープの強度や、〈地球儀〉内部で動き回っているスタッフの姿も気になった。純粋に一観客としてショーを楽しもうとする気持ちはあるが、舞台を通してそれを作る側の演出意図や、セット、衣装、スタッフたちの動きなども気になる。
「ZED」は盛り沢山の御馳走をテーブル一杯に広げて置いてある。否、テーブルの背後にも、中空にも置いてある。この御馳走をいっぺんに食べ尽くすことはできない。観ることを何回も重ねながら〈食べる〉ことを満喫しようとする者があり、わたしのように執拗に批評を展開することで味わい尽くそうとする者がある。
わたしは中央舞台の演技に魅了されながらも、背後の廊下舞台に登場するアーティストたちの演技も見落とすまいと細心の注意を払いつづけた。「ZED」のクリエイターたちは、複数の舞台を自在に駆使する演出法で観客の眼差しを多方面に向けさせる。舞台の脇役一人ひとりが、独自の主体性を獲得して〈主人公〉を張っている。主人公ゼッドのもうひとりの影の〈ゼッド〉がさりげなく全速力で廊下舞台を横切ったり、逆さまに歩いて通りすぎる女性演技者がいたりと、舞台には様々な工夫が成されていて、一瞬たりとも眼がはなせない。
わたしが劇場に足を運んでいつも思うことは、移動観客席の設置である。一列全席が速度を変えながら、右に左に、あるいは中央舞台であれば一周するのもいい。さらに上下運動や空中飛翔ができれば最高である。しかも、物理的にコンピューター機器でマニュアル通りに操作されるのではなく、観客の独自の判断で自分の席が自在に操作することができたら、こんなに愉快なことはないと考えてしまう。
文芸批評の場合は、テキストに関して自在に再構築することができる。しかも時間的制約はない。演劇やショーの場合は、上演時間の制約を脱することはできないが、文芸批評の場合は評家の都合でどうにでもなる。一頁読むのに何時間かけてもいいし、テキストにどんな照明をあててもいい。後ろから読んでも、中途から読んでもいい。こういった自在な読みをショー「ZED」に適用するとならば一度観終わってから、今、わたしが展開しているような様々な角度から照明を当てて検証するしかない。
もし、観客席を自在に操作できれば、製作者側が意図したショーを観客が主体的に再構築することが可能となる。これは観ることを想像・創造的に再構築しようとするわたしの願望の一つである。が、これを実現するためには膨大な予算を必要とするだろうし、ショーを観客の主体の側に立っても楽しもうとする人々が増えないことには多くの困難を伴うであろう。
移動観客席は現実的には容易に実現することがないであろうから、わたしは自分の想像の世界で様々な方向へ、さまざまな速度で、何台もの内的〈カメラ〉を飛ばすしかない。フランソワ・セガンは舞台を映画の一場面のように埋め尽くしているから、さしずめわたしは映画監督、撮影監督になったつもりで、〈カメラ〉を自在に飛ばし、固定し、編集することができる。
「ZED」を観る(連載18)「Souvenir Program」を読む(その16)
(初出「D文学通信」1215号・2009年08月22日)
今回は衣装デザイナーのルネ・アプリルの言葉に耳を傾けてみたい。
「ZED」の衣装は、フランソワ・ジラールのビジュアル世界にふさわしい「線」の統一性と純粋性を目指しました。私は、感じる力と直感を大切に多くの仕事をしてきました。
わたしがこの文章を読んで快く思うのは、彼女もまた〈感じる力〉と〈直感〉を大切にしていることである。『罪と罰』の読者なら、酔漢マルメラードフがラスコーリニコフに向かって言った「わたしはあなたをものに感ずる心をもったお方とお見受けしたので話しかけたのです」を思い起こすだろう。
ドストエフスキーの文学において重要視されたのはサストラダーニィエ(сострадание=同情・憐憫)とスラドストラースティエ(сладострастие=淫蕩・情欲)である。「ZED」が人間の本質に迫るという根源的なテーマを抱えている以上は、この二つが舞台上で表現されていなければならないことになる。
さてルネ・アプリルの言う〈フランソワ・ジラールのビジュアル世界にふさわしい「線」の統一性と純粋性〉という言葉をどう理解したらいいのだろうか。
まずは「ZED」のビジュアル世界から考えてみよう。眼前に開かれた世界に眼をやれば、観客席に迫り出した中央の円形舞台の床模様がすでに宇宙全体を象徴するかのような青を基調にして、神秘的な深さと拡がりを感じさせ、天空から吊るされた黒で統一された〈地球儀〉は浮揚感と重力を感じさせる。〈地球儀〉の上部を覆う白いテント布、中央舞台と背後の廊下舞台、そして中空を独自の生き物のよう舞いながらスボットライトを浴びせる何本もの青いライトポール、それらが〈青〉(女神と天使の衣装)、〈赤〉(天使の衣装、ジャグリングの衣装と火)、〈白〉(ゼッド、フライング・トラピスの衣装)、〈黄〉(バトンの衣装)、〈赤と白〉(バンキンの衣装)、〈黒〉(〈地球儀〉と舞台背景)などのアーティストたちの色彩と交錯しながら「ZED」独自の〈ビジュアル世界〉を作り上げている。
フランソワ・ジラールのビジュアル世界にふさわしい「線」の統一性とはどういうことか。ジラールがイメージする〈線〉とは何なのか。まず第一に「ZED」に特質的な〈線〉は地(及び奈落)と天とを貫く垂直軸としての〈縦線〉である。第二に中空を舞う天使やフライング・トラピスにおけるアーティストの曲線的な柔らかい飛行線である。この〈縦線〉と〈横線〉が宇宙大に拡がりを見せた時、初めてジラールのビジュアル世界にふさわしい「線」の統一性が実現されたことなる。
すべての星々はただ一つの例外もなく、すべて円運動を展開している。それは太陽とて銀河宇宙全体を視野に入れれば同じことである。しかし、ジラールが曲線を描く〈横線〉に甘んじられなかったところに、彼の垂直的な志向性が顕になる。〈横線〉は世界の生成流転する自然の世界を顕し、〈縦線〉は自然運行を支配統治する神の働きの象徴性そのものである。女神は曲線を描いて中央舞台へと舞い降りてはならない。女神の動きは天から地へ、地から天へと垂直的な動きを示すことでその〈神〉的崇高さを顕さなければならない。ジラールは世界が垂直軸と水平軸からなっていることを知っており、この両線が交わるところに〈夢と冒険〉のショー舞台を設定した。
ジラールはどこにいる。神の後ろ姿が見える地点に視点を据えているのか。もしそうでなければショー「ZED」は失敗に終わっだろう。ジラールの眼差しが天と地を繋ぐ円還運動をとらえていなければ、「ZED」は単なる娯楽としてのショーの次元にとどまったであろう。ことの真実は今のところ不明だとしても、わたしの眼に「ZED」は、天と地を貫く垂直軸を抱え込んだ途方もなく大きな円還的時空を現出しているように感じた。
ジラールの〈純粋性〉とは一言で言えば邪がないということである。劇場に集まってきた観客を存分に楽しませたいという、その思いが他の何よりも優先する精神と言ってもいい。経営的利益や、権力志向が優先した〈舞台〉が観客の魂を振るわせることはない。ルネ・アプリルが衣装担当のクリエイターとしてジラールの〈「線〉の統一性と純粋性〉を目指したいと語ったことは、彼女がジラールが目指すヴィジョンを同じ位置から見ていたということのひとつの証である。
「ZED」を観る(連載19) 「Souvenir Program」を読む(その17)
(初出「D文学通信」1216号・2009年08月23日)
衣装とアーティストの身体が調和し、華麗でスピーディな迫力ある演技を可能にしたこと、これは衣装デザイナー、ルネ・アプリルの大いなる功績と言えよう。
ルネ・アプリルは次のようにも語っていた。
衣装にある遊び心は、決して茶化しているわけではありません。私は観客を遙かな時代へ連れだしてくれるような作品が好きですが、その時代を忠実に再現することよりも、それをどう解釈していくかということに重点をおいています。
この言葉もわたしの心を快くさせる。ルネ・アプリルは衣装をデザインするにあたって〈遊び心〉を存分に発揮している。彼女が目指しているのは〈再現〉ではなく、独創的な〈解釈〉である。演出家から提示された根本的なヴィジョンを了解し、インスピレーションを共有したクリエイターに求められるのは、その専門領域での独創的な〈解釈〉である。
彼女が作りだした〈青〉〈赤〉〈黄〉〈白〉〈黒〉を基調とした大胆で簡潔なデザインは、照明を当てられた時にも、そうでない時にも、独自の輝きをもって観客の眼に焼きついた。その衣装は確かに今、この現実ではない「遙かな時代」へと連れだすと同時に、ルネ・アブリルの想像裡で生まれた現代的な感覚を存分に盛り込んだものとなっている。
「ZED」のアーティストたちの動きはスピート感に溢れており、衣装はその速度に耐えられる素材とデザインが要求される。衣装はアーティストたちの演技をいささかでも阻害するものであってはならないし、照明が当たった時に、観客の眼にあざやかに印象づけられる色彩と形でなければならない。「ZED」はアーティストたちのスーパー演技の迫力もさることながら、彼らが身につけた衣装もまた独自の〈主体性〉を存分に発揮していた。「ZED」は世界各国の超一流のアーティストたちによるファッション・ショーのごとき舞台であったことも確かなのである。
縦線と横線、さらに二つの線が曲線となって〈縦〉と〈横〉の融合が図られている。二つの世界を一つに結びつけるという「ZED」の根本ヴィジョンが衣装に鮮やかに反映されている。演出家のインスピレーションに沿いつつ、独自のアイデアを衣装にまとめあげたルネ・アプリルの独創性は見事に結実している。
「ZED」を観る(連載20) 「ZED」とボスの絵画世界 「Souvenir Program」を読む(その18)
(初出「D文学通信」1217号・2009年08月24日)
ショー 「ゼッド」の世界と奇怪な幻想画家ボスの世界が重なり合う
「Souvenir Program」の33頁(ノンブルが打ってないので表紙を1頁と数える)に「天と地を表す「ゼッド」の衣装」に次のように書かれている。
「ゼッド」の衣装は、タロット、イタリアン・ルネッサンス、レオナルド・ダヴィンチの世界、ヒエロニムス・ボスとラフェエロの絵画の世界から影響を受けています。
「ゼッド」では、物語の核となる天と地という二つの世界が衣装や色調にも大きくかかわっており、地の世界は、イタリアン・ルネッサンスを思い起こさせる黄土色、赤、鮮やかなターコイズ、ゴールド、ヴェネツィアン・ブルーを基調としています。
150 着を超える「ゼッド」の衣装すべてにおいて、そのシルエットは一貫した世界観と純粋性で統一されています。遊び心溢れる衣装は、見るものを遙か遠い時代へと誘ってくれます。メークアップ・デザインもまた登場人物たちの人間性を強く印象づけているのです。
「ZED」は御馳走満載の舞台であり、衣装もその例外ではない。タロットからラファエロの絵画にまで、その影響を受けているというのであるから、聞いているだけで目眩が起きそうである。わたしは特に、ヒエロニムス・ボスの影響に注目したい。わたしは十代の昔からボスやブリューゲルの絵画に何かはっきりとは口に出して言えない不思議な魅力を感じていた。
ボスの絵を見ていると、そこに描かれている幻想的で奇怪な世界が、現実の世界とは全く違ったものであるにも係わらず、現実以上のリアリティを持って迫ってくる。じっと見つづけていると、絵の世界に拉致されてしまいそうな妙な感覚を覚える。崇高なものと卑俗なものとが、同じ絵画時空に臆面もなく同居している様はグロテスクでもありユーモラスでもある。そこでは着物を着た者、全裸の者、頭と顔が鳥の者など、また聖者や愚者など、あらゆる人間が露骨に戯画化されデフォルメされている。奇怪で幻想的な幾種類もの生物たちも含めて、彼らはおのおのが独自の存在をしっかりと主張している。
青い海原のような大空を飛ぶ船や魚がおり、全裸の人間を丸飲みする鳥顔の者がある。ボスの絵画では、天国も現実も地獄も、来世も今生も前世も、罪も罰も、崇高なるものも卑猥なるものも、それらすべてが等しい価値を賦与されて描かれている。天へと召されていく者があり、地獄へと墜落する者があり、現世での快楽を貪る者がある。救いを求める者があり、地獄への落下を願う者があり、現世の悦楽に浸る者、絶望する者がある。もはやボスにあっては、人間の内的諸相を絵画で表現する時に、人間は人間の姿を保持できないほどにグロテスクな深淵を抱えもってしまっているとも言えよう。
ボスの絵画世界では海のもの、山のもの、大気のもの、それら異種の生物たちが奇怪な衣装を身にまとって、人間と同等の存在価値を誇示しているかのように見える。ボスは人間中心的な思想に汚染されていない、極めて自由な観点から世界を凝視、ないしは俯瞰していたのではないだろうか。彼の自在な精神の世界では、船で大空を航海することも、人間の頭が鳥であっても、あるいは鳥のからだが人間であってもいっこうにかまわないし、世界全体をシンボリックに体現する円球(卵)が破損していてもかまないのである。
こういった過剰なほどのパロディ精神にとっては、神が悪魔であってもいいし、悪魔がその仮面をとって神の顔(さらなる仮面)をさらけ出してもいい。崇高なるものの裏側に卑俗なるものが張りついており、天国への途は地獄への途でもある。海が空となり、光が闇となる世界では、上は下となり、右は左となり、天国は一回転して地獄へと落ち、そして再び現世を通過して天国を目指すのである。ボスの絵で有名な「天上界への上昇」を執拗に見ていると、あの天空の白い穴が、地獄の穴にも見えてくる。
〈罪〉と〈罰〉さえ極端にパロディ化し、そのグロテスクな時空を遊び戯れていたのがボスであったのではないか。彼の絵を描く情熱は、言わば虚無の情熱と言ってもいい。天と地を結ぶ、神と人間を結ぶ垂直軸を一義的絶対性として信じられない者は、円還的時空で遊び戯れるほかはない。わたしのうちでは、ゼッドがそういった存在として把握されている。ゼッドはボスの絵画世界に自在に入り込み、その中で人間やさまざまな奇怪な生物たちと関わり、戯れ、そしてまたどこかへとその姿を消してしまう〈風〉のような存在なのである。
ボスの描く幻想的な絵画世界はそこに奇怪でグロテスクな、現実の世界のどこにも存在しないような生物や物が描かれていても、その世界は人類が続く限り生きつづける永遠の命を獲得している。このさまざまな人間や奇怪な生物や自然の諸相を描いている者の眼差しはいったいどこにあるのだろうか。
ボスの描く人物や生物やもの、それらのどれにスポットライトを当てて見ても、彼らは十分に〈主役〉をはれる存在として描かれている。世界を創造したのは神であり、その世界を謙虚に描けば、キャンバス上の世界は〈神の世界〉と重なることになる。遠近法で遠くに小さく描かれた人物や自然も、そこに焦点を合わせさえすれば、近くの人物や自然と同等の価値をもって存在していることが分かる。大胆な言い方をすれば、ボスは神の眼差しと同様の偏在する視点を持って、世界を解体し再構築した画家だったのではなかろうか。
ここでショー「ZED」がボスの絵画世界と重なった。演出家ジラールのインスピレーションを共有する衣装デザイナー、ルネ・アプリルのキャスティングによって、ボスの絵画世界から「ZED」の舞台へと新たな衣装に身を包んで舞い降りたキャラクターは二三にとどまらない。彼らは時空を超えて、自らに相応しい舞台に現出し、彼らを見、観察し、魂の躍動を覚える者すべてを幻想的な〈夢と冒険〉の旅に誘いながら、改めて人間の本質に迫ることを促すのである。