意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載2)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載2)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正

十二月二十六日。熱海「ラ ビスタ」にて。文芸GG放談。
イリューシャ少年はスメルジャコフに唆されて針の入ったパンをジューチカという腹をすかした犬に食べさせる。ジューチカはきゃんきゃん悲鳴をあげ、きりきり舞いして駆け出す。イリューシャはその姿を見て衝撃を受ける。イリューシャに告白されたコーリャ・クラソートキンはその衝撃を良心の呵責からくる〈仔牛的感傷〉と見なしてイリューシャを鍛え直そうとする。この場面をとりあげて山城は森有正の分析を引用する。山城が『ドストエーフスキー覚書』から引用した箇所をそのまま引いておく。

  これは究極の実存の問題であって、言葉でなぜか説明できないと思うが、あえて分析してみると、それは決してイリューシャの優しい性質の問題ではない。優しい人ほど念の入った残酷を行なう可能性があるのである。問題は、「駆けながら鳴いている犬」そのものにある。イリューシャは「駆けながら鳴いているヂューチカ」を見たのである。それだけである。かわいそうであるとか、「良心の呵責」であるとかいうのは、それの後からつけた主観的な反映にすぎない。良心の問題ではなくて存在の問題なのである。「駆けながら鳴いているヂューチカを見たイリューシャ」の存在そのものが激しく分裂し、崩壊したのである。それは崩壊態に停止している存在である。苦悩の意味はそれである。それは、愛を絶望的に喪失しつつある存在そのものである。なぜイリューシャにだけそれがおこって、スメルジャコーフにはおこらないのか。私は、それは「邂逅」だったのだ、としか言えない。イリューシャは「駆けながら鳴いているヂューチカ」に邂逅したのである。だからそれがおこったのである。

イリューシャ少年におけるジューチカとの〈邂逅〉は究極の実存の問題であると森有正は言う。それはそのまま認めるとしても、それでもって何かが解決したわけではない。山城は森有正の言葉を引用し、コーリャが連れてきたジューチカが本物のジューチカだろうと、ジューチカにそっくりのほかの犬だろうとそのこと自体はあまり問題ではないという。イリューシャが〈ジューチカ〉と邂逅し、そのことでイリューシャが救われたということが重要だと言う。ところで、わたしはこういった言い方がもはやだめである。わたしは何回読んでも、コーリャが芸を仕込んで連れてきたペレズヴォンが、針入りの柔らかいパンを食べてきゃんきゃん鳴きながら駆け去ったジューチカとは思えない。針を仕込まれたパンを食べたジューチカは苦しみの果てに息を引き取ったとしか思えない。コーリャ・クラソートキンというこの妙にませた口をきく子供に子供らしい純粋を感じないし、芸を仕込んで〈ジューチカ〉に仕立て、イリューシャの前に連れてくるこの子供のやり方に嫌悪をおぼえる。嘘は嘘であって、嘘か真かを問わない〈邂逅〉なぞ、邂逅とは言えないだろう。巧妙な嘘の積み重ねで本当に魂が救われるであろうか。わたしは初めて『カラマーゾフの兄弟』を読んだ四十年前の昔から、この作品の後半部はあまりにも急ぎすぎているなと感じている。アリョーシャは兄のドミートリイに正直に語っているように、彼の内部にも悪魔は潜んでおり、淫湯なカラマーゾフの血は紛れもなく流れている。描かれた限りでのアリョーシャは未だ、高潔な素顔のような仮面を被ったまま子供たちに対しているが、そのままですまないことは自明であろう。

アリョーシャの信仰が揺らいだのは、師事するゾシマ長老が死んですぐに悪臭を放ったことにある。清廉潔白な高層は死んでも香しい匂いを発すると信じられていたのに、ゾシマはアリョーシャの期待を裏切った。アリョーシャは酒を口にし、ラキーチンに誘われるままにグルーシェンカの家を訪れる。アリョーシャはこの時、最も信仰から遠く離れて、堕落の途を突き進んでいた。が、アリョーシャはあばずれ女だと思っていたグルーシェンカの純粋な心を発見し、再び信仰の道へと引き返すことになる。あばずれ女の純粋性と言えば、それはすでに『白痴』のナスターシャ・フィリポヴナに体現されていた。

ドストエフスキーの描く女のなかには、身は汚れていても、その精神は高潔を保っている女が登場する。代表的なのは『罪と罰』のソーニャである。ソーニャは淫売婦として生活の糧を得ている女であるが、イエスがキリストであることを文字通り信じているキリスト者である。『罪と罰』ではもう一人、ロジオンによって殺されたリザヴェータもまたそういった女の一人である。彼女は分離派に属する鞭身派に属していたと言われる女だが、この派の信徒たちは秘密の会合において性的に奔放な儀式を執り行っていた。作中、リザヴェータはしょっちゅう妊娠していたと報告されている。ドストエフスキーはスヴィドリガイロフの子供やリザヴェータの子供たちについてはいっさい具体的に触れない。ここではリザヴェータに話を限定するが、彼女がしょっちゅう妊娠していたのは、彼女が性的にだらしのない女であったというよりは、やはり彼女が鞭身派に属していて、性的に奔放な儀式に参加していたその結果と見たほうが納得がいく。おそらくその秘密の儀式に参加していた男性信徒と交わることは〈キリスト〉と交わるのだという考えに基づいていたのであろう。ドストエフスキーはいっさい、こういった秘密の儀式の具体に触れていないので推測の域を出ないのであるが、リザヴェータは男性信徒との性的交わりを罪深いことと考えていた可能性は薄い。むしろ、儀式によって生まれてきた子供たちは、すべて〈キリストの子〉と見なされ、この派のひとたちによって大事に育てられていたのではなかろうか。

罪と罰』は実質、わずか一週間ほどの物語であるが、描かれていない場面は途法もなく広く深い。わたしはすでに何度も指摘しているが、とにかく性的領域に関してはほとんどすべてが濃い霧に覆われている。『罪と罰』の読者は淫売婦ソーニャのただ一人の客も知らないし、その稼業のただ一こまも知らされることはない。ただし三十年も四十年も『罪と罰』を読み続けていると、描かれていないそういった場面が逆によく見えてしまうということがある。

ロジオンはリャザン県ザライスクの田舎から二十歳の時に首都ぺテルブルクへとやってきた。ペテルブルク大学法学部に入学するためである。一八六二年当時のペテルブルク大学法学部入学がどれくらいの倍率であったのか、その確かな情報を知ることはできない。が、早くに夫をなくし、女手一つで二人の子供を育て上げた母親プリヘーリヤが息子を首都の大学へ入学させるにあたっては、大いなる期待を寄せていたに違いない。当時、貴族の師弟たちの多くはリツェイ(лицей=中・高等貴族学校)に入学した。ペテルブルク大学はどんな階級・身分の者でも試験に受かりさえすれば入学できた。女子は大学に入ることはできなかったが、男子には大学の門は広く開かれていた。貧しい家の、庶民の子供・ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフにもペテルブルク大学の門は開かれていたのである。当時、ペテルブルク大学を卒業したからと言って、将来の生活が約束されていたわけではないが、しかしそのエリート度から言えば、我が国の東大法学部に匹敵するか、それ以上であったかもしれない。

母親のプリヘーリヤは年金百二十ルーブリと、その他のこまごまとした仕事を請け負って息子ロジオンを首都ペテルブルクの大学へと入学させた。それもこれも、二百年の由緒あるラスコーリニコフ家の再建のためである。ロジオンはラスコーリニコフ家の嫡男として没落したラスコーリニコフ家を再建しなければならない使命をこの母親から授かっていた。『罪と罰』でロジオンの幼少年時代のことは触れられていない。ロジオンにどんな遊び友達がいたのかいっさい触れられていない。野心を抱いた教育ママに育てられてロジオンが、小さい頃から勉強させられていたことは容易に想像がつく。

母親の野望を実現すべく育てられたロジオンは、二十歳になってペテルブルクに着くと、早速、母親離れの行動に出る。当時の学生はハンチングのような学生帽子を被っていたが、ロジオンが購入したのはドイツのツィンメルマン製の山高帽子である。この丸帽子はロジオンの優越を気取ったゆがんだ内心を端的に示している。さらにロジオンは下宿先の娘ナタリヤと婚約した。この娘はからだが曲がっている不具者(урод)で、下宿の女将プラスコーヴィヤにとっては、将来有望なペテルブルク大学法学部の学生が自分の娘に結婚を申し込んでくれたことは幸運に思えたであろう。この女将も未亡人で、チェバーロフという文官七等官で事件屋とも言われる怪しげな男の情婦となっていた。もちろんこんなことをドストエフスキーはいちいち書いていないが、要するにプラスコーヴィヤとチェバーロフはそういう関係を結んでいたのである。尤も、この下宿の女将プラスコーヴィヤはなかなかの発展家で、チェバーロフ一人とそういった関係を取り結んでいたわけではない。彼女はロジオンを探しにに来たラズミーヒンともすぐに肉体関係を結んでいる。この二人の関係を女中のナスターシャは知っているからこそ、ラズミーヒンをさかりのついた〈オス犬〉呼ばわりをしてからかうのである。

二十歳の頃には、『罪と罰』をもっぱら観念的な次元で読んでいたので、この作品に描かれた〈描かれざる性的場面〉などまったく見えなかった。しかしいったん見え始めると、いたるところに〈性的場面〉が埋め込まれていることに気づく。人間も動物であって性的存在であるりから、性的関係を描いていない小説などあり得ない。ましてや『罪と罰』は世界が誇る小説であるから、性的場面が描かれていないはずはなかったのである。

かつてわたしは、ロジオンという青年を、人類の苦悩を一身に背負った文学青年と見なして読んでいた。が、『罪と罰』を読み続けていると、このロジオンがいかに母親の野望の犠牲者であり、軽兆浮薄な、それでいて計算高い見栄っ張りの青年であるかが浮き上がってくる。ロジオンがナタリヤと婚約したのは、彼が彼女の中に永遠の伴侶にふさわしい高潔な何かを見いだしていたと見ることはできる。ロジオンは自分が関心を持っている諸問題に関してナタリヤ相手に熱弁をふるっていたかもしれない。なにしろ、ロジオンがペテルブルクに上京した一八六二年当時は、当初は農奴解放を初めとして雪解け政策を実施していたアレクサンドル二世が急進的な若者たちの革命運動を弾圧するような政策転換を開始した時期にあたっている。元政治犯でニコライ一世によって死刑執行寸前の恐怖劇を味わわされたドストエフスキーにしてみれば、絶対に公にできないような危険な話も、ロジオンはナタリヤ相手にしていたはずなのである。読者は、ロジオンとナタリヤの間で取り交わされたであろう数々の話の何一つ報告されることはない。

ところで、ロジオンはナタリヤに高尚な話の相手だけを求めていたのではない。ナタリヤは、二十歳の青年ロジオンの性的衝動を受け止める対象者でもあった。未亡人プリヘーリヤから仕送りされてくる金で、ドイツの青年紳士気取りで外套や靴や帽子を購入するような、この気取りやは、金のかかるプロの娼婦代わりに、てっとりばやく、しかもただで満足を得ることのできる下宿の娘、だれも相手にしないような不具の女に手を出したのである。『罪と罰』の人物たちは描かれた領域と描かれざる性的な領域の二つを重ね合わして見ていかないと、とんでもないきれいごとになってしまうことになる。

マルメラードフが、夫をなくし、幼い三人の子供を抱えて途方に暮れていたカチェリーナにプロポーズしたことに関しても、彼の彼女に対する同情だけを見ていたのでは、彼らの関係性を見誤ることになる。マルメラードフもまたドストエフスキーの人物たちの例外ではない。彼もまた淫蕩な人々の一人である。マルメラードフは貴族女学校を優秀な成績で卒業した貴婦人(дама)を抱きたかったために結婚したとも言えるのである。

マルメラードフは初めからアル中であったのではないた。役所の人員整理の対象となってクビになったマルメラードフは、その日、カチェリーナの〈憐れみ〉(жалость)を受けることができなかった。〈憐れみ〉は単なる精神上のことを言っているのではない。カチェリーナは最初の夫は駆け落ちまでして一緒になった男であるから、後に酒と賭博におぼれ、暴力をふるわれてさえ惚れていた。しかしマルメラードフは、親子心中でもしなければならない窮地におかれていた時に受け入れた男である。カチェリーナは心ならずも生きるために〈踏み越え〉たのである。

誇り高い貴婦人カチェリーナでさえ、生きるために好きでもない男マルメラードフに身を売った。だからこそ、カチェリーナはマルメラードフの実の娘ソーニャに売春を強要できたのである。カチェリーナに肉体の次元で〈憐れみ〉を受けられなかったマルメラードフは、その時から酒瓶に手を出してしまったのである。

性的な事情を考慮しないでドストエフスキーの人物たちを理解することには限界がある。たとえばロジオンの妹ドゥーニャはどうであろうか。テキストの描かれた限りでの表層を読み進めていっても、ドゥーニャという女を理解することはできない。ドゥーニャは魔性の女である。それも母プリヘーリヤと同じ次元で愚かな女であり、魔性の女なのである。ドゥーニャは母の意向を酌んで、愛も尊敬もない、敏腕な弁護士ルージンとの結婚を承知した。ドゥーニャは愚かな母親の打算に与して、兄の気持ちを考慮できなかった。愚かな母と、愚かな妹が、息子のロジオンを、兄のロジオンを犯罪へと追いこんでしまったと言っても過言ではない。

罪と罰』は客観小説の体裁を採っているが、実質はその大半が主人公ロジオンの内面を通して描かれたきわめて一人称的な小説である。従って『罪と罰』の表層をなぞって読む読者にとって息子思いの母親プリヘーリヤや兄のために自分を犠牲にしようとした妹ドゥーニャを〈愚者〉と見る見方は唐突に思えるだろう。しかし、ふつうに考えてさえ、ドゥーニャのような〈自己犠牲〉を要請したり、有り難かったりする兄を尊敬できるだろうか。ドゥーニャがロジオンにしたことは、彼に対する侮辱である。そのことを理解できないドゥーニャは愚者の中の愚者である。もしドゥーニャが真に聡明な女性であれば、ルージンの結婚をすすめたプリヘーリヤの愚を暴き、母の息子を破滅に追いやる打算を完全に撤回させたであろう。描かれた限りでのプリヘーリヤとドゥーニャは、まさにイギリス式の功利主義を全うする打算家であり、要するに神の前にひれ伏しながら、悪魔と契約を交わす卑劣漢なのである。彼女たちの救いようのなさは、彼女たちが自らなした悪魔との契約に気づいていないことである。

ドゥーニャとスヴィドリガイロフの間に性的な関係があったかどうかについて、さまざまな解釈は可能だが、わたしの素直な感想を言えば、なかったはずはない、ということにつきる。五十年輩の淫蕩家スヴィドリガイロフと魔性の美女ドゥーニャとの間に性的関係が存在しなかったはずはない。わたしの見方からすれば、ドゥーニャはスヴィドリガイロフ家に家庭教師と招かれた時、すでに処女であった可能性もない。ドストエフスキーはロジオンだけでなく、ドゥーニャの幼少年時代について少しも触れていない。未亡人に育てられている美しい少年と美しい少女、彼らに何ひとつ浮いた出来事がなかったというほうが不自然である。ドゥーニャに対して村の男たちがどんな眼差しを注いでいたのか。マルファが夫スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係を疑って感情を爆発させ、ドゥーニャを蓋なしの百姓馬車に押し込めて追い出した時、ドゥーニャの家の塀には黒いコールタールが塗られた。ドゥーニャは破廉恥な娘だという、そこに住む村人たちの秘められた声の表明である。単なる濡れ衣とは言い切れないものを感じる。