ZED論を再録(1)

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今月二十一日、共同研究の忘年会を兼ねた集まりが目白の入江であったが、最初に観たシルク・ド・ソレイユの「ZED」の印象が衝撃的で、昨年の夏休みは毎日五枚以上の批評を書き続けた。思いをたっぷり込めたためか、その後に観たものに対してさっぱり批評衝動が起こらない。「清水正研究室」のブログに三十九回にわたって連載したものを何回かにまとめて再録しておく。

今年最後の共同研究会
「ZED」を観る(連載①)
(初出「D文学通信」1198号・2009年08月03日)

 2009年08月03日(金曜)の二時、舞浜駅改札出口に共同研究のメンバーの内六人が集まった。「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」で「ZED」を観るためである。
 今回の研究のテーマは「総合芸術としての舞台表現の可能性」で、研究代表者は演劇学科の戸田宗宏教授である。
 二時半に劇場に入り指定の席につく。大きな劇場で観客は二千人を収容できる。中央前面に円形の舞台があり、その天井には巨大な半円球の〈地球儀〉が吊るされている。白い大きなテントがその〈地球儀〉の背景に波をつくって吊るされている。まさに、サーカスのテント小屋の内部を彷彿とさせる。この劇場が、サーカスのテント小屋から発想されていることは、すぐに分かる。

 サーカス小屋は日常の地平に突如現れる巨大な見世物小屋であり、異空間である。ここでは日常の世界を構成している秩序とは異なった時空が現出する。もちろん異空間とは言っても、日常を構成し秩序だてているすべてを解放しているわけではない。そこではいっさいの犯罪は認められていない。この異空間では、この時空へと参入してきた人々が、日常の生活においては味わうことのできない魂の躍動を共有させてくれる。
 舞台と観客席を自在に動き回ることを許された者は二人の道化で、彼らは観客に言葉を投げかけたり、その身体に触れたりしながら、笑いや軽い衝撃を与えつつ、徐々に観客全体を、中心部の舞台へと誘っていく。彼らの発する言葉が何語であるかは問題ではない。彼らの滑稽な動きや軽い挑発的な仕種が、世界共通語としての伝達力を存分に発揮している。道化の仕種にすぐに反応するのは子供や若い女性たちである。彼らの笑い声は、観客の緊張を解き、劇場全体を和やかな親和的なものに変えていく。
この劇場で最も注目すべきは天井から吊り下げられた巨大な〈地球儀〉であろう。わたしは今、ここで〈地球儀〉という言葉を使っているが、それは観劇した後で購入したガイドブックにそう書かれていたからであって、この劇場に入ったばかりの頃から、わたしはこの巨大な半円球の物体を様々な象徴的な意味を担ったものとして見ていた。わたしは今回、何の下準備もなく、いきなりこの「ZED」を観た。従って、このショーに対する先入観は何もない。観終わって、この「ZED」に関する批評衝動に襲われたので、今こうして書きすすめている。
サーカスにおいては地上の円形舞台に様々な動物たちが登場する。犬や猫など日常の世界においても親しい小動物から、熊、ライオン、象など、動物園にでも出掛けなければめったにお目に掛かることのできない、巨大で危険な動物たちが舞台狭しと動きまわる。動物と人間が一体となり、限られた円形舞台上で観客をハッとさせるような芸を展開する。ここには動物と人間の共存という、まさに現実ではかなわない、一種のユートピア空間が現出する。
 しかし、ユートピアが現実には存在しないという意味であるように、サーカス小屋での〈ユートピア〉もまた、それは動物を管理し、支配する人間の優越意識が前提となった虚構の幻想舞台でしかない。「シルク・ドゥ・ソレイユ」は舞台に動物を登場させることはしていない。そこに登場するのは、一芸に秀でたアスリートたちである。地上の舞台では、綱や棒やトランポリンを駆使してアスリートたちが身体運動の限りをつくして飛び、跳ね、旋回しながら各種、得意な芸を演じてみせる。各種の曲芸やスポーツを芸術的な〈見世物〉に昇華したと言えばいいのだろうか。
「ZED」において突出しているのは、それが〈地球儀〉と〈地上の舞台〉の中間、すなわち空中を中心舞台に据えていることであろう。サーカスにおける最大の出し物は空中ブランコである。飛び手が空中高く舞い飛ぶ、次の瞬間、受け手が絶妙なタイミングで飛び手を両腕に受け止める。この空中ブランコを下から見上げるように観ていたかつての観客にとっては、いつ落下するかも知れないその危険度に極度の緊張を強いられたことであろう。今は演技者のすべてが安全綱を身につけているようであるから、そういった緊張を感じることはないが、しかしその分、かなり高度な演技力を要求されることにもなっている。観客の刺激を求める欲求は限りなく、その欲求に主催者側がどこまで応えるかということも新たな問題となってこよう。
 「ZED」においても空中ブランコは独立した演目の一つで、観客の目を釘付けにしていた。ところで「ZED」の特徴は、空中ショーの最大演目というべき空中ブランコのみを重要視していないことである。舞台開始からまもなくして、とつぜん〈地球儀〉の中心部から青いドレスに身を包んだ女性が落下するように舞い降りて来たシーンは圧巻であった。
 この劇場において観客の目にさらされているのは、〈地球儀〉と〈地上の舞台〉、さらに両者の中間地帯に存在する〈空中〉の舞台であるが、実は〈地上の舞台〉の底には見えざる奈落の舞台があり、〈地球儀〉の内部時空(天空)とが存在している。二人の道化が、大きな書物の中にもぐり込んで姿を消した時、彼らは奈落と天空の両世界を交通する存在と化し、われわれ観客を一瞬のうちにファンタジーの世界へと誘ったのである。劇場の入口でチケットの半券を受け取り、劇場内部に入り込んでいた観客は、ここで日常世界を繋ぐ扉を完全に閉じられ、〈地球儀〉の天空から舞い降りた女神と衝撃的に出会うことになる。
女神は空中にとどまり、ほとんど動かないままにその存在感をアピールしている。次に青と赤の衣装に身を包んだ二人の天使が天界から舞い降りて、空中でスピード感あふれる美しい舞いを舞いつづける。世界は地上の世界のみにあらず、両目を見開き、目に見えない美しいものを感じようとする魂には、とつぜん天界の窓が開き、女神が舞い降り、天使が美しい舞いを踊ってそのすばらしい世界を見せるのだ。日常の論理が支配する、劇場の外の世界においては誰一人、この美しい女神の現出に立ち会うことはできず、天使の舞いを目にすることもできない。
 わたしは半巻を握りしめたまま、意識の片隅に劇場の外の世界をおいたまま、眼前の女神の美しさに心奪われる。批評家の眼差しとは因果なもので、女神が舞い降りて来たすばらしい光景を目にしつつ、あの巨大な、鉄の塊のような、見ようによっては限りなく怪しいオーラを発している〈地球儀〉の方が気になって仕方がない。この〈地球儀〉こそが、「ZED」の中心人物、否、中心存在のような感じで迫ってくる。
 わたしの感覚のなかでは、〈地上の舞台〉の底にある奈落に落ちた者はやがて、否、瞬時に〈地球儀〉の内部世界、すなわち天界へと参入できる。奈落と天界は、観客の目に見えないところで繋がっている。しかし、これは仏教の輪廻転生、ニーチェ永遠回帰の時間論に親しんできたわたしにしみついた世界解釈であって、この「ZED」を構成演出したひとは〈奈落〉は奈落、〈天界〉は天界というあくまでも垂直軸的な考え方を持っているのかもしれない。


「ZED」を観る(連載②)
(初出「D文学通信」1199号・2009年08月04日)

 わたしは「ZED」を観ながら宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』との共通性を想っていた。女神や天使が舞い降りてくる〈地球儀〉は、カムパネルラが指さす〈石炭袋〉(コールサック)を想起させる。カムパネルラはその深くて暗い穴の向こう側にみんなが集まっている〈天上の世界〉があると言う。しかしジョバンニはいくら目をこすって見ても、〈石炭袋〉の闇しか見えない。「ZED」の観客が〈地球儀〉の頑丈そうな鋼鉄製の外側しか見えないように。

 私見によれば、カムパネルラは川に溺れてすぐにジョバンニのいる列車に乗り込んで来たのではない。カムパネルラはすでに一度、〈石炭袋〉を通過して美しい〈天上の世界〉に到達した者であり、再び〈石炭袋〉を通過してジョバンニの列車に乗り込んで来たのである。その目的は、ジョバンニに美しい、みんなが集まっている本当の〈天上の世界〉の存在を示すためにである。が、未だジョバンニはその〈天上の世界〉を見ることができないままに、再び地上の世界へと帰還してこざるを得なかった。
 「ZED」における二人の道化は大きな書物の中に身をもぐりこませ、〈地上の舞台〉から奈落へと落ちていった。しかし、この〈奈落〉は〈地球儀〉の奥に存在する〈天上の世界〉へと通じているように思える。〈地上の舞台〉(中央の円形舞台と周囲に設けられた舞台)における様々な芸当、舞踏、空中舞踊、映像、演奏が渾然一体となって世界は一つのユートピア時空が現出する。天と地の融合にとどまらず、それは見えざる地下世界と天上世界をも繋いで世界は丸く一つの理想を現出している。
 劇場の外に一歩出れば、宗教や民族やイデオロギーの違いによる戦争、紛争は依然として続いている。せめて、ここ「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」内では、何のいさかいもない平和で幸福な世界の実現を思う存分堪能してください、ということであろうか。
 わたしは幼い頃からファンタジーの世界に完全に耽溺することはできない。美しい幻想的な世界を堪能することはできても、自分が現実の世界に生きていることを忘れることはない。限定された、地上世界の一隅に人工的に作られたディズニーランド内に劇場「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」は建てられている。
 世界の優秀なアスリートを集め、日々の厳しい訓練を積み重ね、観客の目を楽しませ、心を躍動させる舞台を作り上げることは決して生易しいことではない。観客の大多数はこの異空間の劇場に壮大な仕掛けによるショーを楽しむために集まってくる。娯楽、エンターテインメントとしてのショーの第一の役割は、観客を楽しませることにあり、深く考えさせたり、ショックを与えることにはない。
 コンピューターで管理支配された〈地球儀〉の作動によって、演技者は空中に舞い降り、舞い上がり、天と地とを自在に浮遊する。演技者の高度な演技にも圧倒されるが、わたしはそれ以上に〈地球儀〉の存在と、それを管理支配するコンピューターの存在に圧倒された。
 実は、ショーを観おわって、わたしたち六人は演劇学科卒業生で、今年から演劇学科の非常勤講師を勤めている中村太郎氏のガイドで舞台裏を案内してもらった。七階から見下ろす〈地上の舞台〉にはすでに黒服の係員数名が巨大な白いテントを広げ、次の舞台に向けての準備作業にかかっている。観客席通路を清掃する者も何人か見える。
 観客席から見上げていた〈地球儀〉は、水平の眼差しで捕らえることができる。何百、何千という金属製の柱や棒で構築された〈地球儀〉は、それ自体が一種の不気味な生物のようにも見える。コンピューター管理室(指令室)は四階にあり、そこには若い技師たちがコンピューター画面を前にして静かに座っている。
 巨大な〈地球儀〉はこの司令室から完璧に統御され、もし万が一の事故が起きた場合はすべての作動をストップさせる装置が壁に付けてあった。中村氏の説明を聞きながら、わたしたちは次に〈地上の舞台〉の底にあたる奈落へと案内された。ここでも、黒服のスタッフたちがてきぱきと自分の仕事をこなしていた。舞台で使われる衣装や小道具、道化たちがもぐり込んで奈落へと姿を消した〈書物〉も置いてあった。
 トレーニング室の扉を開けるとそこには、一番若いという十六才の少年からベテランらしいひとまでが、真剣に練習に励んでいた。日々の訓練がいかに大事かということをまざまざと見せつけられた思いであった。衣装室にはここでデザインされた様々な衣装が所狭しと飾られていた。短い時間であったので、スタッフたちと言葉を交わすことなく通りすぎたが、やはりどんなに設備が複雑になり、コンピューター化が進んでも、舞台の主役は人間なのだという思いを強くした。
 スタッフ専用の出り口を出て、忙しいなか、快くガイド役を引き受けてくれた中村氏と記念写真を撮る。外に出て、ガイドブックを買いそびれたことに気づき、再び係員の許可を得て劇場内の売店で「Souvenir Program」を購入した。


「ZED」を観る(連載③)  「Souvenir Program」を読む(その①)
(初出「D文学通信」1200号・2009年08月06日)
 
 「ZED」を観て、久しぶりに精神の高揚を感じた。演劇でも映画でも、観終わった時点で批評衝動にかられれば、ガイドブックやパンフレットは必ず購入することにしている。基本的な資料として必要だからである。しかし今回は「Souvenir Program」を隅から隅まで熟読した。写真も豊富で、雑誌構成そのものが「ZED」のショーを彷彿とさせる。

 まずは表紙から見ていこう。中央にデザイン文字化された「ZED」、その右下に小さくTMの文字が刻印されている。「ZED」の下に「CIRQUE DU SOLEIL」とある。画面上部には主人公ゼッドの顔が大きくクローズアップされ、斜に構えた顔つきで彼を見る者の目を射抜くような瞳で見つめる。この両目はまるで見る者に謎をかけているような怪しい魔力を潜めている。眉は極端に細くもなく太くもなく、少年剣士のように凛々しく描かれ、目の回りはあたかも歌舞伎の隈取を真似ているかのように描かれている。
 眉も目の縁取も、黒ではなく濃い青で描かれ、頭部は薄い青のシルクが巻かれているようにデザインされている。ここにはデザイン化されたアルファベット文字や黄道十二宮の架空生物たちが銀河宇宙を輪舞しているかのように描かれている。上も下もない、混沌の時空を踊る文字(創作文字)と生物たちは、にもかかわらず銀河宇宙での上昇、落下、浮遊の輪舞を存在の限りを尽くして悦楽しているようにも感じられる。
 画面下部にこの青の帯状の流れは美しいS字形を描いて「ZED」の文字の中心を通過する。「ZED」文字の中心に位置するEはその内部に地球のような球体(地球儀)を抱え込んでいる。青の帯状の流れはこの球体を通過する瞬間に発光化し、その姿を消して球体を鮮やかに浮上させる。やがて帯状の流れはその色を青から金色に変えてさらに大きく下部へと流れていく。この青から白、白から金色へと色を変えて流れる帯の流れを全体的に俯瞰すると、それは「ZED」のデザイン化された「E」の文字と重なる。
 ここで再びゼッドの顔を見れば、カレはまるでスフィンクスのような挑発的な眼差しをおくっていることに気づく。この表紙の謎を解けるものなら解いてみな、といったちょっとおどけた表情にも見えるが、同時に魔的な邪悪なるものの表情とも重なってくる。世界を、宇宙を司る、〈一にして全の双神のカミ〉の表向きの顔、人間の姿をして「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」の「ZED」の舞台へと姿を現したゼッドは、自在に舞台を駆け回り、天と地を、天上界と地下界をも繋ぐ超越的な力を備えた道化なのである。
 ゼッドという名前を賦与された大いなる道化は、二十一世紀の日本に現出したイエス・キリストなのかもしれない。しかし、この「シアター東京」に現出した〈キリスト〉に非難、中傷はなく、逮捕も裁きもなく、六時間に及ぶ十字架上での苦難もなければ、三日後の死からの復活もない。ショー「ZED」に、そういった受難と復活のストーリー性がないのに、観客の一人であるわたしに、主人公ゼットを現代世界に現れたキリストを想わせる或る何かがあることは確かである。
 画面中央のデザイン文字「ZED」の線幅を広げていけば、やがてショー「ZED」の舞台(劇場内部)が眼前に開けてくる。絶え間なく生成流動する無限の宇宙が、ここ「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」において、その凝縮された〈ショー舞台〉として開花する。一枚の表紙デザインにショー「ZED」のヴィジョンとコンテンツが余すところなく塗り込められている。
 三たび、ゼッドの両目を覗き込むと、そこには宇宙船から地球を見たものの瞳があった。宇宙の彼方から地球を見るゼッドの眼差しで、デザイン文字「ZED」の〈窓〉を開けてみなさい、そこにはすばらしい世界、慈愛と友愛と、夢と冒険心に溢れた光景(ショー)が展開されていますよ、というわけだ。
 ショーのタイトルとなっている「ZED」とはいったい何を意味しているのだろうか。イギリス英語アルファベットの最後の文字〈Z〉と見た場合、それは〈最後〉を意味する。最初の文字〈A〉から二十六番目の文字である。しかし〈Z〉は単なる〈終わり〉を意味しているのではなく、新たな始まりとしての〈A〉を予告する最後の文字にも見える。「ZED」の主人公ゼッドは〈終わり〉であり〈始まり〉であり、〈死〉と〈生〉の間を自在に往環できる存在なのではなかろうか。
 「Souvenir Program」に浮上するゼッドの眼差しは挑発的であるが、しかしそれは同時に愛嬌のある、慈愛に満ちたものでもある。ゼッドは彼を見る者に謎をかけるスフィンクスであり、挑発し誘惑する魔性と、寛容で慈愛に溢れた道化の相貌を合わせ持った多分に両義的な存在である。
 〈Z〉という文字を右から横へ引っ繰り返せば、あるいは鏡で覗き込めば、その形は限りなく表紙の右天上から曲線を描いて左下部へと流れ込む帯状の形と重なる。表の世界に裏の世界が張りついていると言ってもいい。ゼッドは白い神性を帯びた聖なる存在として表紙上にその姿を表しているが、その裏に黒い邪性を帯びた悪魔的な相貌を隠し持っている。白と黒の世界を、その対極的な世界の境界域を遊び戯れながら往環する道化師こそがゼッドのように思える。


「ZED」を観る(連載④)「Souvenir Program」を読む(その②)
(初出「D文学通信」1201号・2009年08月08日)

 表紙を開くと左頁に青のドレスを身に纏った女神が闇の空中に大きく翼を広げている。闇黒の世界の天空からとつぜん現出した女神のイメージは、黒から誕生した青として受け止められたのであろうか。髪、顔、胸の部分は照明によって白く輝いている。

 右頁には白い衣装を纏ったゼッドが大きく両手を広げ右足を高くあげて倒れるような恰好で映っている。女神の登場にわざと驚いて、ひょうきんな恰好をしているようにも見えるし、女神の存在に圧倒されている図にも見える。ゼッドの舞台上での行動は多分に大げさで、相手を崇拝しているかに見えて、かぎりなくおちょくっているようにも見える。
 まさにゼッドは世界を、宇宙を、天と地の狭間である宙中を絶え間なく動き回っているが、それによって彼は対極の世界を結びつける同時に、その行為自体を自らおどけて見せている。
 ゼッドはタロットの〈愚者〉から連想されて作りだされたキャラであるが、まさに彼は〈0〉(ゼロ)としてあらゆる時空に存在し、同時にどこにも存在しない存在としての道化、流浪者としての性格を賦与されている。彼は今、この「Souvenir Program」の第三頁(表紙を一頁目として数える)では全身を真っ白な衣装に包んで、その純粋無垢性、聖性をシンボリックに強調しているが、本来二義的多義的な存在である彼は、ひっくり返ったその一瞬において真っ黒に変容する可能性を備えた存在でもある。
 ショー「ZED」において彼が真っ黒な衣装に衣替えして、その秘められた悪魔的な貌を露にすることはなかったが、彼が闇に同化してその姿を舞台上から消した場面があったことも確かである。ゼッドは観る者の想像力の世界でその姿を自在に変える。あらゆる時空に〈風〉(タロットの〈愚者〉は四大元素の〈風〉を意味する)となって身をまかせ、気儘に或る一定の限られた〈時空〉、たとえば「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」の劇場に現れて、すべてのアーティストの演技の場に立会い、ちょっかいをかけ、誘惑し、誘惑される、道化の戯れを演じ尽くして、観客の眼前から消えて行く。
 ゼッドは、ショー「ZED」の舞台全体を様々な視点から観尽くそうとする観客の貪欲な願望を、ただ一人舞台上で体現した存在でもある。観客は限定され、固定された客席から自分の両目を通して、華やかで、スピーディな、舞台中央の、宙空の、背後舞台の演技を観なければならない。限定された視点から、ショー「ZED」の全貌を把握することは不可能である。
 つまり、このショーはあらゆる位置に配置された無数の眼差しを必要とする。そればかりではない、生で演奏される音楽、音響、背後に隠れたスタッフたちの息づかい、観客たちのさまざまな反応の声を聞く無数の耳が必要とされる。
 ゼッドは神になりたいという野心を抱いた観客の代理者として、演技者に寄り添い、同化し、惑わし、惑わされる極めて人間的な欲望をあらわにしながら、舞台を駆け回り、ロープに飛びつき、空中に舞い、舞台の袖へと姿を消す。すばやく、大胆に登場と退却を繰り返しながら、ゼッドは自在にその姿を観客に印象づける。
 聖性と魔性を潜めた宇宙の大いなる道化は、白い衣装に身を包み、高度な技術を身につけたアーティストたちの華麗で洗練された演技に立会い、励まし、同調し、真剣な眼差しを注ぎながら、同時に観客を含めたすべての者たちをおちょくり、戯れる、ショー舞台の漂流者(旅人)でもある。
 ゼッドは表舞台のアーティストたちや観客のみならず、舞台を支える多くのスタッフたち、演出構成家の内部にまで自在に進入退出する自在な精神の動きそのものとしての〈ゼロ〉(0)であり、自身を含めたすべてのものを抱擁する〈オー〉(〇)でもある。
 こういった超越的な存在であるゼッドを一演技者として舞台に登場させた演出・構成家の考えをぜひ聞きたいものである。


「ZED」を観る(連載⑤)「Souvenir Program」を読む(その③)
(初出「D文学通信」1202号・2009年08月09日)

 プログラムに印刷された「躍動する詩の中へ─」には次のように書かれている。

  銅と真鍮でできた複雑なアストロラーベ(天体観測儀)。想像上の宇宙に埋もれ、さまざまな声と影とが棲むその世界で、孤独な主人公Zed(ゼッド)は、成長と発見の旅に出る。天と地の狭間で宙吊りになっているこの謎に満ちた世界をさまよううちに、ゼッドは、偉大なる女神ニュイやシャーマン、スフィンクスサテュロスなど、奇想天外で躍動感に満ちたさまざまなキャラクターに遭遇する。
 全身白の衣装を身にまとい、ピエロにも似たこの詮索好きなキャラクターは、一体何者なのだろう。彼は、私であり、あなたである。ゼッドは、鏡をかざして私たちの本当の姿をそこに映し出し、人間のあらゆる側面と。人間がもつすべての知恵と愚かさとを、すべての強さと弱さという形で表現する。
 人間の経験の神髄を謳い上げるこの叙情的な冒険物語の中で、以前は調和のなかった二つの世界が、ゼッドを通じて、再び一つになるのだ。
 変化を引き起こす西風が、二つの世界の間を吹き抜けた時、私たちの心の奥深くで声がいざなう・・「友よ、生きることを恐れるな」と。

 ゼッドの存在性格の端的で的を射たすばらしい説明である。このガイド自体が一つの輝く〈詩〉(Poem)になっている。この文章を書いたひとは、おそらくショー「ZED」の内容(コンセプト)をよく把握した演出家であり、批評家である。
 詩と批評は厚さのない一枚の紙の裏と表の関係にある
 詩を理解しない批評はないし、批評を理解しない詩もない。

  「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」の劇場内部は宇宙そのものではない。それは古のサーカス小屋を彷彿とさせる、ある種の懐かしさを感じさせる壮大な空間であるが、しかし同時に二千席を越える巨大な観客席を擁する高度な科学技術を駆使した近代建築物であることも確かである。
 初めて劇場内に足を踏み入れて、まず驚かされるのは天井に吊るされた巨大な球形(地球儀)である。この〈地球儀〉が異様なオーラを発しているのは、それが非日常を越えて日常(自然)を逸脱しているように感じられるからであろうか。観客席(わたしが座ったのはレギュラーでGATE3・Jブロック・17列92番)から眺める〈地球儀〉はその球体の下部をさらしているだけで、球体全部をさらしてはいない。
 わたしはすぐに、この〈地球儀〉は空中に浮かぶ〈物体〉ではなく天井から吊るされている、ショー「ZED」のために作られた一つの大きな仕掛け物と認識した。高度な科学技術を駆使して、今、この劇場に据えつけられた巨大な半球体の仕掛け物を、半自然的なものとして感じるからこその異様なオーラなのである。
 二十一世紀における今日の大半の観客は、科学技術に信頼を置いている。巨大な〈地球儀〉がせり出した中央の地上舞台の真上に吊り下げられていても、その落下の恐怖感をまざまざと感じる観客はいない。いてもごく少数であろう。もし、この〈地球儀〉に落下の危険性を感じながらショーを観れば、この〈地球儀〉そのものがサーカス的なハラハラドキドキの最大の効果を発揮することになろう。
 最初の一行目に「銅と真鍮でできた複雑なアストロラーベ(天体観測儀)」とある。いきなり魔術の種明かしをされたような衝撃を受ける。人間は得体の知れないものに不安を感ずる。わたしが、何の先入観もなく劇場に足を踏み入れ、まず驚いたのは巨大な半球体であった。いったいこれは何なのか。浮かんでいるのか、それとも吊るされているのか。この半球体は観客すべての眼差しを釘付けにする圧倒的な存在感をもっている。劇場入口で渡されたバンフレットを読まなければ、謎は深まり、様々な解釈をほどこすことになったであろう。
 舞台全体が〈銅と真鍮でできた複雑なアストロラーベ(天体観測儀)〉であり、中央の球体が〈地球儀〉であると解説されると、その途端に、不安と謎に満ちた劇場が、科学的に計算され構築されたものになる。どんなに〈複雑な天体観測儀〉も、数学と物理を基にした秩序ある構築物であり、そこには観客を不安に陥れる〈謎〉は消失する。この解説家は、壮大で複雑な舞台装置を秘密にしておくことはなかった。むしろ、その真実の姿をさらすことで、この人工物の世界が謎に満ちた世界へと変容することを願っているかのようだ。
 舞台を観終わって、その舞台裏を案内された時、まさに科学技術の粋を集めて構築された〈銅と真鍮でできた複雑なアストロラーベ(天体観測儀)〉そのものが異様な存在に映ったことも事実である。この〈天体観測儀〉は物体であり、この存在そのものが生命を持っているわけではないのに、しかしどう見ても、何か巨大な生き物の骨格をさらしているようにも見える。この〈骨格〉自体が〈生〉と〈死〉を孕んだ一種の近代的な生き物にも見えるのである。
 わたしの席から見たこの人工的な天体観測儀は、半球体の〈地球儀〉を腹と見、長い八本の柱を脚と見ると、異様に大きな蜘蛛の姿に重なる。宇宙を住処に、流浪に流浪をかさねた〈巨大な蜘蛛〉が、今、ここ「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」に現れて、その腹から、女神や天使を生み出す大いなる〈母体・母胎〉となっている。 
 わたしたち観客は、この〈蜘蛛〉の腹から誕生する美しいものに立ち会うだけだが、ゼッドという〈愚者〉が聖性と魔性を備えた両義的存在であったように、この〈巨大な蜘蛛〉もまた、わたしたちに隠した〈魔物〉をも生み出す両義的な存在を感じさせる。
銅と真鍮で構築された複雑な天体観測儀の骨格構造が〈巨大な蜘蛛〉とも見えるところに、この劇場自体が無機と有機の両義性を抱えこんでいると言える。〈巨大な蜘蛛〉の腹(地球儀)から、とつぜん青い衣装の女神が舞い降りた瞬間の衝撃は忘れがたい。
 〈巨大な蜘蛛〉はその内に全宇宙を内包しているというイメージを湧かせる。その腹の中には青の女神と天使、青と赤の天使たちに混じって、黒の魔物も存在するはずだが、彼らは観客の眼前に現れることはなかった。顕れた表舞台の裏に、もう一つの隠れ舞台が存在するように感じたのは決してわたしだけではあるまい。
二つの世界を結びつけて大いなる一つの世界を現出させることが、ゼッドのこの舞台で果たす役割(使命)であるが、二を一に結合できる力を備えたものは、その一を再び破壊する力をも備えている。二が一に結合したまま世界が凍結してしまえば、世界そのものが破綻をきたすことになる。ゼッドは世界の終末と創世をも司る双神の神であり、結合された大いなる一を爆破することで再び生成流動する世界を〈風〉となって流浪する。
 「ZED」の案内者は「想像上の宇宙に埋もれ、さまざまな声と影とが棲むその世界で、孤独な主人公Zed(ゼッド)は、成長と発見の旅に出る」と語った。
 注目すべきは〈想像上の宇宙〉という言葉だ。ゼッドは実在する人物でもなければ霊的存在でもない。ゼッドは〈想像上の宇宙〉に放たれた〈人物〉なのである。「ZED」の制作者、脚本家、構成演出家、そしてこの作品を理解するすべてのスタッフたちとアスリートたちの〈想像上の宇宙〉にゼッドは存在するのでなければならない。一観客であり批評家であるわたしの〈想像上の宇宙〉にもゼッドは自在に出入りする。