意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載1)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載1)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに

山城むつみの『ドストエフスキー』は二週間をかけて熟読した。近頃、一気に読んでみようという本がなかったので、それなりに刺激的なものだったのだろう。読み終わったのは十二月十三日で、すでに十日以上たってしまったので、記憶もおぼろなところがあるが、まずは率直な感想だけを述べておこう。
2010年12月26日・熱海にて山崎行太郎さんと文芸GG放談。
山城の本は小林秀雄森有正の批評の真髄を継承するものらしい。特に、小林の文体の影響を強く受けているらしく、随所に、おやこれは小林の言い方だよな、と感じるものがあった。わたしが小林秀雄ドストエフスキー論を熱心に、真剣に読んだのは十九、二十歳の頃で、それだけに影響も深く受けたのだろうが、やがて小林の批評の文体が鼻につくようになった。「さらば小林秀雄」これがわたしの素直な思いであった。小林はドストエフスキー研究をライフワークにしようと考えていた時期もあったようだが、彼のドストエフスキー論には「貧しき人々」「分身」「プロハルチン氏」「主婦」「ポルズンコフ」などの初期作品、またシベリア時代の「おじさんの夢」「ステパンチコヴォ村とその住人」などの中期作品に関する批評もない。わたしはドストエフスキーの全作品を対象にしてドストエフスキー論を展開しようとしていたので、もはや小林秀雄の批評は過去のものとなっていたのである。三十歳になって初めてレニングラードを訪れ、ドストエフスキーの墓の前に立って、なんか得たいの知れないエネルギーをもらって帰国し、丸三年をかけて『罪と罰』論を書いた時にも、小林秀雄の『罪と罰』論を読み返したが、別にこれと言って得るものはなかった。当時、もっとも刺激的だったのは江川卓が「新潮」に連載していた「謎解き『罪と罰』」であった。わたしは、江川卓ドストエフスキー論に触れるまで、ドストエフスキーは翻訳で十分に理解できるものだと思っていた。わたしが最初に読んだドストエフスキーの作品は新潮文庫米川正夫訳「地下生活者の手記」で、この本がわたしの一生を決定づけた。『罪と罰』も最初は米川正夫訳で読んだ。いわばわたしのドストエフスキー体験は米川正夫ドストエフスキー体験であった。江川卓の『罪と罰』論はロシア語の言葉一つ一つを丁寧にあたって、作品の秘密に肉薄していくスリリングな面白さがあった。テキストを神話学的な広がりのなかで読み解いていくそのダイナミックさにもわくわくした。江川卓は、それまで深刻に読み継がれてきたドストエフスキーの作品を、笑顔で読むことを可能にした。江川卓の謎解きは、おもしろおかしいドストエフスキーを多くの読者の前に提示することになった。わたしは、ドストエフスキーをさまざまな角度から見ていこうという思いがあるので、江川卓の謎解きシリーズをたいへん面白く読んだ。わたしは江川の謎解きを十分考慮してわたし自身の『罪と罰』論を書いた。ただし、江川の謎解きの〈謎〉に関しては、いわばそれはパズル次元の謎、すなわち予め解ける謎という思いがあった。謎は言葉が迷うと書く。神秘とは神が秘め隠したもので、被造物としての人間はどんなに努力してもその神秘を解き明かすことはできない。芸術家や哲学者、批評家は謎や神秘に直面することはできるが、それを解くことはできない。江川の謎解きは見事に解ける〈謎〉を解き明かしているところに魅力がある。江川は解けない謎に直面してしかめ面をしている批評家や哲学者を横目に、おもしろおかしいドストエフスキーの世界を満喫しようとしている。
ドストエフスキーの面白さは、ドストエフスキーの深刻の随を味わってはじめてわかるものだが、江川の謎解きはあくまでも水平的な次元を淀みなくすべっていく。ここのところをどう評価するかで、江川の謎解きの評価は違ってくる。江川の〈謎解き〉は単なる謎解きで、本来的な謎、どんなに追求しようが決して解けないような謎に向かっていないという見方もできる。しかし、わたしは同時に江川の〈謎解き〉を徹底して踏襲して、その領域においても戯れきってしまおうという気持ちであった。思い出すのはヴァレリーの「テスト氏」の言葉である。「言葉とは深い谷の間にかけられた薄い板のようなもので、そこを急いで軽やかに歩いていたものは知っていたのだ、途中で立ち止まると、その重みでたちまち板は壊れ、ひとは奈落の底へと落ちていくのだということとを」。記憶で書いているので間違えているかも知れないが、このヴァレリーの言葉は、言葉の秘密に肉薄している。言語の秘密を言語を駆使して解き明かせるなどと思っている言語学者は二流、三流であって、言語の秘密に肉薄すればするほど言語の破壊現場を生きなければならない。言語の秘密をまともに、いっさいの妥協なく覗こうとすれば、狂気が覗き返すことになる。わたしは、ドストエフスキーの作品をテキストにして、軽やかに〈謎解き〉を展開している江川に、ヴァレリーの言う〈板の上〉を軽やかに渡っていくひとたちの姿を重ねていた。

わたしが初めて江川卓に会ったのは今から四十年前、早稲田の大熊会館でドストエーフスキイの会の総会が行われた時であった。わたしは処女作『ドストエフスキー体験』(一九七0年一月、清山書房)を刊行したばかりで、体重四十三キロ時代のことであった。この席でわたしは小沼文彦、新谷敬三郎、木下豊房、水野忠夫などのロシア文学者と知り合うことになった。この席で江川卓はわたしの著作を一冊購入してくれた。二度目に江川卓と会ったのは、わたしが日芸の文芸学科で専任講師をしていた時で、文芸学科の特別講義で『罪と罰』について語ってもらった。ちなみにこの日は大学院の特別講義に小沼文彦を呼んで『カラマーゾフノの兄弟』を講義してもらった。講義の後、研究室で雑談し、それから場所を江古田の居酒屋「和田屋」の二階に移して、ビールを飲み交わしながらドストエフスキーをめぐる座談会が開かれた。司会はわたしが務めたが、いちばんしゃべっていたのがわたしである。このときの模様は、当時わたしが編集長をしていた「江古田文学」(一九八七年五月)に「鼎談 ドストエフスキーの現在」と銘打って掲載した。この鼎談は二〇〇八年一月に「ドストエフスキー曼陀羅」の別冊としても刊行した。

鼎談した当時、江川卓は新潮社から『謎とき「罪と罰」』を、わたしは創林社から『ドストエフスキー罪と罰」の世界』を上梓したばかりで、『罪と罰』を中心としたドストエフスキーに関する座談は、アルコールがほどよくまわるにつれ、六畳ほどの部屋は熱気に包まれた。筑摩書房から個人訳ドストエフスキー全集を刊行し、世界的にも知名度の高かった小沼文彦、『罪と罰』の謎解きでドストエフスキー愛好者の注目を集めていた江川卓、この二人が心を開いてドストエフスキーを語るのは実はこの席が初めてであった。


トルストイドストエフスキーは生前一度として会うことはなかった。トルストイの作品『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を高く評価していたドストエフスキーであったが、トルストイは『死の家の記録』を評価するにとどまっていた。ドストエフスキーにしてみれば四歳年下のトルストイに不満もあったろうが、しかしトルストイが死ぬ直前まで読んでいたのが『カラマーゾフの兄弟』であったことは、興味深い。座談の席で、小沼文彦がトルストイドストエフスキーが生前一度も会わなかった話を持ち出したのは、江川卓を意識していたからであろう。二人ともにドストエフスキー研究に対する自負があって、結果としてお互いに声をかけあうこともなかったのであろう。江川卓が『カラマーゾフの兄弟』の続編を自分で書きたいと言った時、小沼文彦は「後は自分が生きればいいんですよ」と言った。格の違いを見せつけるような言い方であったが、小沼文彦はよくこういう言い方をした。一番端的に出たのは、江川卓が『罪と罰』の主人公ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのイニシャル(РРР)を悪魔の数字666だと指摘したことに関して「そんなことはいちいち言わなくてもドストエフスキーを読んでいる者は分かっていたと思うんですよね」と言った時である。このときはさすがにカチンときた。わたしの知る限り、РРР=666(悪魔の数字)と指摘した者はいない。この発見によって『罪と罰』の読みは大きく広がった。わたしは発見は発見として素直に認めるのが研究者のあるべき姿と思っているので、小沼文彦の言い方はよくないと思った。小沼文彦の書いているドストエフスキーに関するエッセイや解説に、『罪と罰』の主人公の名前に関するコメントはない。わたしは小沼文彦の発する言葉に小悪魔的なおふざけ(わたしは〈小股すくい〉と名付けていた)があることを常々感じていた。片方の手でほめながら、同時にもう一方の手は足をすくうように動いている。江川卓が発見したРРР=666を、そんなことはみんな知っていたなどという言い方には嫉妬の感情が混じっているようで決して愉快ではない。わたしは思ったことは口にするタイプなので、発見は発見として素直に認めた上で話しを続けましょうと発言した。ところで江川卓だが、彼の顔もわたしには実に興味深かった。いつも笑っているような表情で、前歯がすきっ歯になっていることもあって、彼の笑顔は眼前にあるものすべてを笑っているように見えてしまう。知的好奇心旺盛な、虚無をそれとなくうちに抱えているピエロのように見える。
江川卓と話をしていると、ドストエフスキーは限りなくおもしろおかしくなるのだが、しかしそれはわたしが二十歳前後の時代に刻印されたドストエフスキーとは何か違ったものになっているという思いも拭いきれない。垂直的な感情、殺意にまでたかまった激しい憎悪、声に出せば胸が張り裂けてしまう悲嘆と憤怒、飛び上がり駆け出すしかない歓喜、一言で言えばカラマーゾフ的な力、そのヨブ的な、ディオニュソス的な混沌の代わりに、知的にアポロン的に端正に整理されたものが水平的に列挙されている、という思いである。わたしは限りなく、果てしなく広がる水平の平原に、天と地を貫く垂直軸を差し込み、円環の紐を大きく緩やかに結ぶことを願っている。
一九九八年十一月三十日に小沼文彦が亡くなった。二〇〇一年七月四日に江川卓が亡くなった。「新潮」に「謎とき『悪霊』」を連載し、完結することなく逝ってしまった。当時、わたしはすでに『悪霊』論を三冊刊行し、これ以上のものを書けるものなら書いてみろ、といった気持ちでいた。
わたしが『カラマーゾフの兄弟』論を「江古田文学」に連載したのは34号(一九九八年一月)からで、48号(二00一年十月)に連載第12回を載せて、以来長い中断をしている。一九八九年に『宮沢賢治ドストエフスキー』を刊行してから、五十歳になるまでの十年間、わたしは宮沢賢治の童話を批評し続けた。日本の作家で初めて魂を激しく揺さぶられたのが宮沢賢治であった。『銀河鉄道の夜』を読んだときの衝撃は忘れられない。〈『銀河鉄道の夜』と『カラマーゾフの兄弟』における死と復活の秘儀〉が、わたしの最初の宮沢賢治論『宮沢賢治ドストエフスキー』のテーマである。このテーマは一生のテーマで、このテーマをめぐって、今後のわたしのドストエフスキー論は書きすすめられていくことになろう。
カラマーゾフの兄弟』論が中断している最大の理由は、〈復活〉の問題にある。復活ということをどのようにとらえたらいいのか。不信のトマスは、イエスの復活に立ち会った弟子がそれを伝えた時「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と語る。八日後、イエスは弟子たちが集まっていた家に入ってきてトマスに言う「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。トマスはイエスに答えて言う「わが主よ、わが主よ」と。イエスはトマスに言う「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と。引用は「ヨハネによる福音書」第20章に依る。この場面は何度読み返してもすっきりしない。何か喉元に引っかかるものがあって飲み込みきれない。まず、トマスの不信があまりにもあっさりと撤回されてしまったことが納得いかない。なぜトマスはとつぜん現れた得体の知れない男の掌の釘あとに指を差し込まなかったのか。なぜ、槍で刺された脇腹の穴に、自らの手を差し込んでみなかったのか。不信の徹底とはそういったものではないのか。それとも、トマスは家の中に男が現れたその時に、すでにその男が復活したイエスであることを認識していたのであろうか。
わたしが言いたいのはトマスの〈不信〉の内にある〈信仰〉である。イエスの手の釘あとに指を入れ、イエスの脇腹に指を差し込んでかき回してみるほどの〈不信の信〉である。イエスはトマスが〈信ずる者〉になったことを確認した上で「あなたはわたしを見たので信じたのか」と言う。ここで、イエスはさらに手の釘あとに手をさし入れて見よ、とは言わない。トマスは復活したイエスの前に完全にひれ伏してしまっているかのようだ。「見ないで信ずる者は、さいわいである」とイエスは言う。ならば、初めから出て来なければいいのではないか。なぜ、イエスは敢えて不信のトマスの前に現れて来たのか。イエスの言葉によれば「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ということである。イエスは弟子たちが不信の状態にとどまることを許容しない。見なければ信じない弟子の前には、敢えて姿を現し、言葉を発することを厭わないのである。第20章の最後に「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と書かれている。イエスの〈しるし〉が書かれたのは無神論者のためではない、信じない者のためにではないのだ。ソーニャがラスコーリニコフの要請に応えて「ラザロの復活」の場面を朗読したのも、彼が〈信じない者〉から〈信ずる者〉になるため、彼が「イエスの名によって命を得る」ためにであった。ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ、二人の女の頭上に斧を打ちおろして殺害した青年は、最後の最後まで〈罪〉の意識に襲われることなく復活の曙光に輝いた。ラスコーリニコフの傍らにはソーニャ(実体感のある幻=видение)が現れ、河向こうからは突然、神の風ルーアッハが吹き渡ってラスコーリニコフを叩きのめす。この場面に文字通り賛同するとはどういうことか。頭で賛同したところで何も変わりはしない。わたし自身が神の風に打たれ、わたしの傍らにキリストの化身とも言うべき幻=видениеが現れてくるのでなければ、神の存在をめぐる話はすべて〈思弁〉の域を出るものではない。
わたしが小林秀雄の『罪と罰』論で不満なのは、『罪と罰』を読むためにはポルフィーリイのまなざしにたたなければならないと説きながら、同時に「信仰なきことは罪である」というロマ書からの言葉を批評の最後に書いていることである。ポルフィーリイはラスコーリニコフにあなたはいったい何ものなのかと問われて、「私はすっかりおしまいになってしまった男です」と答えている。すっかりおしまいになってしまったポルフィーリイは復活の曙光に輝くことがあるのだろうか。罪意識に襲われることのなかったラスコーリニコフでさえ復活の曙光に輝くことができたのだから、ポルフィーリイにさえその可能性がまったくないとはいえないにしても、ふつうに考えればポルフィーリイはおしまいになってしまったままで生を閉じることになるだろう。この予審判事は作品の中で批評家的役割や預言者の役割を背負っているが、ラスコーリニコフのように復活の曙光に輝くことはない。批評家小林秀雄はどうなのか、ということが問われる。信仰者でない批評家が「信仰なきことは罪である」という言葉で『罪と罰』論の末尾を飾ってしまっていいのだろうか。わたしは二十歳の昔から小林秀雄の『罪と罰』論を読むたびにこのことを思うのである。
山城たつみの『ドストエフスキー』を読むと、彼は小林秀雄ドストエフスキーに関していっさい批判していない。彼の文章にも小林秀雄的なにおいを感じるので、まさに彼は小林秀雄の批評を継承しているのであろう。ところで小林秀雄は晩年、講演で自分はキリスト教がわからないのでドストエフスキー研究を断念したと語っている。山城のドストエフスキー論を読んでいると、彼もまた〈死と復活〉の問題に関して深い関心を抱いているのが感じられる。はたして山城はキリスト者なのか。それとも〈死と復活〉に並々ならぬ関心を持つ批評家にとどまっているのか。