「日野日出志研究」に向けて鋭意編集中

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清水正の著作   D文学研究会発行本

日野日出志研究」の原稿も揃い、編集も順調に進んでいる。今回は森嶋則子さんの原稿を紹介する。森嶋さんはグラフィックデザイナー原孝夫さんの愛弟子で、原さんなき後、そのデザイン力を継承して活躍している。
日野日出志先生と原孝夫の絆
森嶋則子

日野日出志先生と森嶋則子さん。「とある居酒屋・八剣伝にて」。

原稿・装丁依頼のOKを頂く。2010/11/12 

とある江古田の居酒屋さんで清水正先生、日野日出志先生とご一緒させていただいた時、デザインの打ち合わせかと思いきや本書『日野日出志研究』への寄稿、と思わぬ展開になってしまいました。錚々たる作家陣の中においてそれは有難くもとても恐れ多いことです。戸惑う私に
「だからね、原ちゃんとのことを交えながら書いてくれればいいよ。それなら書けるでしょ」と清水先生。
 ん? どこかで聞いたシチュエーション……そう、原(私の上司であり日芸の先輩・2009年逝去)が日藝文芸学科の講師になりゼミまで受け持つことになった経緯は、やはり飲み屋さんで清水先生の巧みな話術に嵌り、酔っぱらったあげく……(この件は2003年度の原ゼミ『序章』のあとがきをぜひ!)…当時、自己嫌悪でひどく落ち込んでいた原を思い出しながらも、「ふんふん、原さんと日野先生のこと…ですね…」と、結局私もしっかりその気にさせられていたのです。原さんがいれば……という場面は多々ありますが、特に今回は思います。日野先生は原にとって特別な存在であるからです。
 虫プロ商事発行『COM』の「ぐら・こん」で日野先生は初代東京支部長、原は初代九州支部長。その後原は一九九四年発足のマンガジャパン(代表世話人石ノ森章太郎)事務局長に就任し、日野先生との再会を果たします。
 早くに自立し、常に長男的・家長的存在であった原にとって日野先生は、唯一甘えられる、そして尊敬する”兄貴“であったのです。原さんは旅立ってしまいましたが、記念すべき本書に、初めて自分の作りたいものを自由に作ることが出来たという、原孝夫切手コレクション「萬(よろず)絵巻の画工たち2」(二〇〇七年発行)特別付録[本の横顔]に原が綴り遺した日野先生の横顔を紹介させていただきます。
         * * * 
三十六年前、中学三年の夏休み”ぐら・こん支部長集会“出席のため、二度目の上京をした。本来なら招待してくれた「虫プロ商事」のある池袋に直行するところであるが、東京駅から電話を掛けた先は、日野日出志宅だった。——上京の理由と身分を伝え、とにかくお会いしたい! と、電車の乗り継ぎを教わり、ご自宅に向かったのである。
——という訳で、ボクの人生で”動いている初めての漫画家“は、日野先生となった。
どのくらいいたのかは覚えていないが、整然と片付けられ、壁に日本刀が飾られた綺麗な部屋で、スーツ姿の日野さんが、人生観を一生懸命話してくれた記憶がある。思い描いていた「漫画家像」とはまるで違ったが、なんか素敵な”兄貴分“という感じだった。
翌年、漫画家になる! と誓って上京したが、二年目(高校二年春)に挫折。以来、漫画界とは無縁の日々を送るが、ずっと気になる漫画家さんとして、単行本を見つける度に買い込み「あぁ 日野先生、元気かな。また会ってみたいなぁ」という存在だった。再会が叶うのは、二十二年後、マンガジャパン設立の時だった。
「おお原くん。俺も老けたが、すっかりおじさんになっちゃって…」と、頭を見て言われた。普段ならムッとするはずだが、そんなことより”覚えてくれていた“事が無性に嬉しかった。「ところでなんであの時、俺んとこ来たの?」と聞かれたが、この答えは、記憶の糸をどう紡いでも…ボクの中でも謎である。あれから十四年——
マンガジャパン事務局長時代、その後の私的なお付き合い、いつもこの”兄貴分“は側にいてくれ、どんなお願いも聞いてくれる。歳を重ねるにつけ、あの日の行動が不思議さを増し、運命というものをしみじみ考える日々を送っている。
作らせて貰った本は一冊しかないが、たくさんの旅やイベントで、いつも一緒だったし、三年前からは、ボクの母校・日藝で同じ日に授業を持ち、毎週のように縁をしている日野先生! 生涯のお付き合いをよろしくお願いします。
そういえば、
漫画家の顔以外に、スポーツチャンバラでオーストラリアにも招待され、さらには、抜刀道・三段。様斬・四段。無双直伝英心流・四段。全日本居合道連盟・四段を持つ日野兄貴。——日本刀が壁にある訳である…。
         * * * 
 私が初めて先生にお会いしたのもマンガジャパンでの世話人会でした。その時の、作品とは真逆の精悍な出で立ちと澄んだ瞳はとても印象的で、当時、事務局スタッフの噂と話題の的でもありました。
 例に漏れず愛や恋や蝶よ花よの少女マンガ大好き少女(気が遠〜くなる程昔のこと!!)だった私は、虫が大の苦手、血も怖い、ホラーも……。先生の代表作でもある「蔵六の奇病」を何時の時点で読むに至ったのかがどうしても思い出せないでいるけれど、原さんに出会った頃は既に知っていたから、恐らく三十年程前にはなるでしょうか。
 それから幾度となく繰り返し読み返し……。
 なぜか妙に惹き付けられていくのです。”39ページ“のその作品は変わらずそこにあるのに、読む度に心に留まる一コマが違います。カメに変身した蔵六が沼に沈む瞬間の暗い穴のような目から流れる血の涙だったり、ある時は夢の中で、涙しながらも他の村人と同じように槍を突きつけようとする母の姿だったり……。
 きっとこれからもまた形を変え惹き付けられていくのです。まるで底なし沼のように、永遠に。