荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載9)


偏愛的漫画家論(連載9)
神田森莉
1Q94ホラー漫画に何が起こったか?(その②)

荒岡 保志漫画評論家

神田森莉の作品を手にする荒岡保志。我孫子ドトールにて。 撮影・清水正
「血まみれの夏休み」で突出する神田森莉の個性の一つは、何と言ってもその絵柄そのものにある。

少女漫画で育ち、レディース・コミックでデビューするという経歴からも分かる通り、その絵柄は女流漫画家に似て、特別影響を受けた漫画家というのは思い浮かばないが、強いて言えば「イブの息子たち」、「エロイカより愛をこめて」の大御所「青池保子」が挙がるだろうか。美男、美女は魚顔と言っていいほど面長で、切れ長の目は冷ややか、睫毛はやたら長く、しかも下睫毛のみという顔立ちである。
勿論、一世を風靡した「青池保子」に影響を受けた女流漫画家は少なくない。ただ、男性漫画家ではかなり少ない、というより皆無なのではないか、と思う。

当時の少女漫画のレベルは少年漫画に比べてかなり高く、多くの男性ファンを魅了したことは事実である。
ポーの一族」の萩尾望都、「綿の国星」の大島弓子、「風と木の詩」の竹宮惠子など、多くの男性ファンというより、ファンの性別を問わない漫画家が多かったのだが、そのほとんどは小学館白泉社系列の少女漫画誌を中心に活動していた。
ここで思うのは、神田森莉は、「少女フレンド」、「なかよし」などの講談社系列の漫画誌を愛読していたのではないか、ということだ。
もしそうだと仮定すると、これも結構珍しい。勿論、「少女フレンド」にも「手塚治虫」、「楳図かすお」などの大御所漫画家が作品を発表していた時期もあったが、神田森莉が愛読していた頃はすっかりベタの少女漫画誌であったはずだ。幼少の頃に、祖母からもらった少女漫画誌を読んだことにより少女漫画育ちになるという神田森莉だが、これは一種の摺り込みに近かったのだろう、それこそそのまま、何の疑問もなく少女漫画を読み続け、成人を迎えてレディース・コミックに移行したわけだ。まるで普通の女の子のように。

やや横道に逸れたが、絵柄の魅力というと、その妙に外したようなデッサン力にもある。
それは、横顔に、ポーズに、アクションに、あらゆるコマに覗かせる。正直、神田森莉は、そんなに画力のある漫画家ではない。ただ、この絶妙に外したデッサンが反ってリアリズムを生む、そんな迫力があるのだ。
これは天性の才能である。

そして、もう一つの個性、それは「スーパースプラッター」とでも表現しようか。

ほとんどの神田森莉漫画に、幽霊、亡霊、怪物などの超常現象の類は現れない。
ホラー漫画とは言え、神田森莉の描く恐怖の本質は人間そのものであり、その見せ方がホラーなだけである。言うなれば、「スプラッター」と呼んだ方がしっくり行く。それも、また、ホラー映画に横行するスプラッターとは一線を引く。ただの血塗れ漫画と侮るなかれ、神田森莉こそホラー漫画に君臨する「スーパースプラッター」漫画家なのだ。

「血まみれの夏休み」でも、背中の皮を剥がされ、背骨を折られる少女が出てくるが、びっしりとフジツボの生える岩で背中をおろし、徐々に筋肉組織が露出し、やがて背骨が現れるのだが、もう法医学などまるっきり無視して乗りに乗ってしまっている神田森莉の姿が見えるようだ。おろされた少女の肉片はまるで焼肉店の「ユッケ」である。
そして、少女は叫ぶ、「痛い、痛い!」と。神田漫画の被害者は、「助けて!」とか「許して!」とか、決して助けを乞わない。ただ、「痛い!」と叫んで死の瞬間を待つばかりである。神田漫画は復讐がテーマになっているストーリーが多く、やはり「いじめっ子には死を」という意味に於いても、最期まで「痛み」を感じて死んでもらわないと満足しないのだろう。この辺りにも、神田森莉の、実は蛇のような執念深さが垣間見える。カルト漫画家評論家の「唐沢俊一」が、神田森莉を「ストレス解消漫画家」と呼ぶのも頷ける。

ここから、神田森莉の、地獄の作品を、単行本の発行に沿って検証して行こう。

まずは、記念すべき処女作品集「怪奇カエル姫」、1994年10月ぶんか社より発行、ホラー漫画の重大事件と言っていい。

収録作品は、ホラー漫画家デビュー作「血まみれの夏休み」、単行本タイトルの「怪奇カエル姫」など、1993年から1994年にかけて「ホラーM」に発表された6作品である。勿論、ここで全作品を批評することは儘ならないので、代表作と考えられる作品について語らせて頂く。

「怪奇カエル姫」、1994年、「ホラーM」vol.4に発表。神田森莉、処女作品集のタイトルになる神田漫画炸裂の秀作である。

主人公「オチコ」は絶望的ないじめられっ子で、いじめっ子にコンパスで額を刺されたり、無理やりガマガエルを食わされたりしていた。
神田森莉の描くいじめっ子たちであるが、大抵は長身でグラマラスな「青池保子」風美女で、大抵は美女同士で群れをなす。さすがは少女漫画育ち、というところだろう、美女同士が群れをなすという行動は少女漫画の中にしか存在しない。逆にいじめられっ子は、チャーミングではあるが小柄で丸顔である。後述するが、この事は、一つはコンプレックス、もう一つはサディズムの現われである。
そして、神田漫画のいじめぶりだが、これはもう洒落にならない。
コンパスで顔中を刺す場面でも、突っつくというレベルではなく、しっかりと刺している、当然だが顔中血まみれになる。水道のホースを外れないように咥えさせ、放水し、眼球は飛び出、腹は裂けんばかりであるが、それでも容赦はしない。「自殺しろ、自殺!」と、何かにつけていじめっ子はオチコをいたぶる。「女子高生コンクリート詰め殺人事件」、「酒鬼薔薇事件」などを彷彿とする未成年の暴走振りを感じさせるが、やはりこれからの復讐劇を盛り上げるためには、これぐらいの強力ないじめが必要だったのだろう。

オチコにも逃げ場はあった。一つは、オチコがいじめを受けている時に一度だけ助けてくれた「池野くん」である。長身でハンサムだが、酷い不良でクラスメイトから一目置かれる存在である。池野くんはオチコに言う、「自分もいじめられっ子だったが、自分の身は自分で守ることを学んだ。いじめには暴力で対抗しろ」と。
そしてもう一つは、「カエル姫物語」という童話の絵本で、魔法によりカエルになったお姫様を、王子様が魔女から救ってくれる物語である。「池野くんはオチコの王子様」だとオチコは考えるようになる。
度重なるいじめに会うオチコだが、それを見る池野くんは決して手を差し伸べない。「いじめに勝つには、自分の力で戦わなければだめだ」と、池野くんも本当は助けてあげたいのを耐えているのだった。
そんなある日、いじめっ子に、大切にしていた「カエル姫物語」の絵本を破られ、オチコの精神は破壊さる。精神の箍が外れたオチコは、急に「ゲコゲコッ」と鳴き、まるでカエルのように飛び跳ねる。
オチコの入院先を訪ねる池野くんは、病室でカエルのように飛び跳ねるオチコを見て後悔する、「いじめには自分の力で対抗するしかないと思っていた、でも、オチコみたいに自分で戦う力がない人もいる」と。池野くんは、オチコを好きになっていたことに気がつくのだった。

そして、復讐劇は幕を開ける。
病院を脱走したオチコが、いきなり教室に現れ、教壇の上で飛び跳ね池野くんに向かって叫ぶのだ、「王子さま、フクシュー、フクシュー!」と。
「オチコガエルだ!」と爆笑するクラスメイトたちだが、そこで池野くんは「聞き入れた!」と立ち上がる。
そして、いじめを見て見ぬふりをして来た教師の頭をクロスボウで打ち抜き、いじめを見ても笑っていたクラスメイト全員も、ある者は目を、またある者は喉をクロスボウで打ち抜き、仕留める。いじめっ子たちの一人はサバイバルナイフで頭から真っ二つに割られ、また一人は、そのグラマラスな胸を裂かれる。そして池野くんは、いじめっ子のボスの腹を裂き、溢れ出る内臓を、飛びついたオチコが咥え、腸は勿論、心臓、肺に至るまで一気に引きずり出してしまう。相変わらず法医学を無視した根拠のない描写である。
池野くんは逮捕され、オチコは病室に戻る。
病室で、オチコは嬉々として「フクシューセイコー」と飛び跳ねる。そして、「オチコはカエル姫」と満足そうに繰り返し、「漸くオチコは幸せになった」、というハッピー・エンドを迎える。

「血まみれの夏休み」と比較すると、かなり神田森莉らしさが露出してきたという所感はある。それは、「スプラッター」と「コミック」の融合とでも言おうか、「ギャグ」の要素がかなり濃くなっていることにある。
山上たつひこ」が「がきデカ」を発表して以来、ギャグ漫画の表現方法が随分変わってきた。それは、ギャグは大仰に、間は短く、読者の意表を突く見せ方が主流になってきたということであるが、このことは「スプラッター」にも当て嵌まる。意外かと思われるかも知れないが、「ギャグ」と「スプラッター」は実に相性がいいのだ。
荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。