猫蔵の日野日出志論(連載8)

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清水正の著作   D文学研究会発行本
猫蔵の日野日出志論(連載8)
『幻色の孤島』論(第八回)

猫蔵著『日野日出志体験』(D文学研究会)の栞より
四畳半の部屋で

 見開き15ページ。
 「以来、私は毎日こうして手紙を書いては、何千いや何万通となく紙飛行機を飛ばしているのです」。
書物机に向かい、そんな文面を書き連ねていた青年の一室へと場面は転換する。「ふーっ やっと かきおわった」と呟き、青年は畳の上に仰向けになる。部屋は、四畳半の広さである。
天井から部屋を見下ろしている語り手の視点と、仰向けになり天井を見上げた青年の視線とが交差する。描かれた青年の顔は、『幻色の孤島』の男の顔と、どこか面影が重なる。その瞳はやはり、大きさが左右で不揃いの黒点として描かれている。
右ページ4コマ目、仰向けに寝転がった青年と畳張りのその部屋を、語り手の眼差しは俯瞰して見ている。びっしりと執拗に描き込まれた畳の筋目がひときわ際立っており、一方、その畳の上に横たわっている青年といえば、その髪の毛も、着ている服も色ヌキで、あまりに希薄な印象を受ける。例の瞳を除き、青年の存在そのものが、どこか所在なげである。青年の傍らに無造作に転がった小型ラジオが、陽気なディスクジョッキーの声を流しはじめる。どうやらもう、夜も更けた時間らしい。執筆活動の傍ら、空にしたとみえる一升瓶と、やはり無雑作に開け広げられた本が、長い間、彼が書物机に向かっていたことを窺わせる。
やがて、青年は身を起こすと、机の上の原稿を飛行機の形に折りはじめる。それから「ブーン」と口に出しては笑い、「それ」の掛け声とともに紙飛行機を勢いよく飛ばす。青年の背景は黒いベタ塗りで、口を半開きにして笑っている青年の全身は、あいかわらず色ヌキで描かれている。

見開き16ページ。
二階にある自室の開け放たれた窓から、夜の空へと向かって紙飛行機を飛ばす青年の姿が、見開きページを用いて描かれている。窓辺に佇む青年と、その手元を離れた紙飛行機だけが、夜の帳が下りて黒味がかった画面全体のなか、白く浮かび上がっている。その白さも、意志の強さを帯びた純白というよりは、周囲の黒に溶け込むことなくとり残されてしまった白、純白ではないにも拘らず、妙に脳裏に焼きついて離れない色といった様を呈している。
 この見開きページに効果音はない。青年の手を離れ、夜の空を滑空する紙飛行機。これが、『幻色の孤島』本編の主人公の男が飛ばしたそれのように、夜風に乗って、海を越えて見えなくなるまで飛んでいったかどうかは定かではない。ただ、先ほどまで青年の顔に張り付いていた気違いじみた笑顔が、この見開き絵においては消え失せている。口を真一文字に結び、波打った前髪を額に張り付け、まん丸く見開かれた目の周りには、黒い影が縁取られている。その瞳は、空飛ぶ紙飛行機を凝視しているようにも、あるいは読者自身を凝視しているようにも見える。
 いずれにせよ、このコマ絵においてすべての音が消失してしまった原因は、やはりこの青年の視線によるところが大きい。“目は口ほどにものを言う”という状況があるが、まさにこのコマ絵では、青年の眼差しによって、すべての音が沈黙を余儀なくされている。
 この絵を見て実感できたことが、もうひとつある。明確な色彩による存在の鮮やかさ、そして、音による存在の自己主張が省かれてなお、この見開きから確かに実感でき得るものとは、やはり、視線の過剰さを除いて他にはない。前章にて、映像作品『血肉の華』を論じた際、まず確固たる立脚点として、この作品が鑑賞者に、<剥き出しのベクトル>の力強き意思を実感させる事実を指摘した。<剥き出しのベクトル>については、画面に映し出された血や肉のもつ色や臭いといったリアリティ以上に、この作品そのものが、一貫して欠くことのなかった根幹であった。この見開きからもまた、それに相通じる力強さ、もしくは執拗さの持続を読みとることができる。
 漫画全編を通じて、主人公の男、および終盤に登場した青年が、その丸く見開かれた目をつむる箇所が一度も描かれなかったように、これら人物の視線は、瞬きによって途切れることはない。絶えず不断の理性が、まるでビデオカメラのレンズのように機能し続けている。やはり、この持続は、単に“意志”の成せる業とというよりも、“意思”という言葉による説明の方がしっくりとくる。
 不断なる注視はすなわち、けっして途切れることのない理性の持続を意味している。これは、呪われた力強さと言ってもいい。眠りや死やSEXのエクスタシーによってさえも、けっして遮られることのない、自意識の監獄である。
 恐ろしいことに、この見開きのページには一切、そんな青年の自意識を絡めとり、大いなる安眠へと導いてくれる結末を予感させる建造物や風景は、描かれていない。青年の自意識を投影した紙飛行機は、同じような平屋が立ち並ぶ変わり映えしない景色の上を、どこまでも等速に飛翔していく印象を与える。それでもなお、この紙飛行機がある種の力強さと執拗さを内包している事実は見過ごせない。
 ここ見開き16ページは、前述の見開き13ページを彷彿とさせる。なぜなら、見開き16ページにおいて描かれた風景の平べったい均一感や、紙飛行機の行く手を遮る文字通り突出した建造物の見当たらなさは、先の見開き13ページにおける光景、男の目の前に立ち並んだ宗教的建造物の一切が、すべからく色褪せ、ショーウィンドウに並んだデコレーションケーキのように沈黙してしまった絵を喚起させるからである。見開き13ページにおいては、見開き16ページに比べ、例の“どろろん どんどろ”という太鼓の音が墨字によって描き込まれているものの、ここでもまた、太鼓の音を除いた町の喧騒一切が消失しており、男の自意識の化身ともいえる雲に紛れ込んだ巨大な目玉が、視界に入るすべての特権的なものを無化し、すべからく風景のひとつへと沈黙せしめてしまっている。古今東西の神々とて例外ではないのだ。

 西暦二〇〇一年の九月十一日、同時多発テロに見舞われたアメリカ・ニューヨーク市では、事件の起きたある瞬間、一切の騒音が消え、あの喧騒に包まれた街じゅうが水を打ったように静まり返ったとの報告を耳にしたことがある。この見開き13ページにおいても同様に、広義の意味での信仰を見失った瞬間、人間は沈黙へと陥る傾向にあるらしい。ニューヨークの例が、果たして主観的な意味においてそう感じられたということなのか、それとも客観的な事実であったのかは分からない。ただ、少なくとも表面上は、神による加護を信じて疑わなかった街が、一瞬にして悪意と恐怖の現実をつき付けられたことによって、神が無化されてしまった瞬間があったことを留意したい。
 見開き13ページ、苦心して壁を乗り越えた男の眼前に広がっていたのは、力強い深遠なる文明などではなく、あまりにも平坦で、すべてが均質な価値でしかない町並みであった。男もまたここで、信仰するべき対象を見失ったのである。
 日野日出志が紡ぎ出す作品世界は、一般に、古き日本の牧歌的なものや、家族や血縁を描いたものが多いといわれるが、その嗜癖においては、それらさえもけっして信じることのできない、自意識の過剰さが見てとれる。ただ、それでもなお、ここに描かれた男自身は、その理性の鮮明さに反し、絶えず信じるに足りるものを見つけようとしているところに、男自身の“個”、そして“我”の部分を見出しうる。

 見開き17(最終)ページ。
 この見開きページの左側は、また別の作品の扉絵となっており、実質『幻色の孤島』は右ページのみである。男か、もしくは青年が飛ばしたと思しき紙飛行機が、暗闇のなか、徐々に向きを変え、読者自身の方へと飛んでくる。その脇には、“どんどろ どろろん”という墨文字が、紙飛行機と同じ白ヌキの色によって描かれている。まだ見果てぬ遠いふるさとへの、期待感を抱かせる音である。前ページ、紙飛行機を夜の闇へと向かって飛ばす男の顔は、固くこわばっていた。だが、ここ最終ページに描かれた紙飛行機は、いまだふるさとへの到達を諦めてはいない執拗さを帯びている。『蔵六の奇病』の物語が、主人公・蔵六がすでに死の淵にあると思しき段階を経てなお執拗に紡ぎ出されたように、ここでもまた、生や死、可能や不可能を度外視して、作品そのものの執拗なまでの脈動が示されている。
 先に、見開き13ページの絵と、911アメリ同時多発テロ・ハイジャックされた旅客機が高層ビルに突っ込むビジョンとの通底について言及した。このとき、思いがけず、みずからが信じるものの不在を突きつけられた人びとは、沈黙に陥らざるを得なかった。これはあくまで私の仮説なのだが、見開き13ページから感じとれる沈黙と、同時多発テロにおいてもたらされた沈黙とは、どこかで重なり合う。信じるものを失った事実を直視することは、この上ない苦痛である。ゆえに、ある者は憎悪の激情に身を任せ、ある者は生活の糧を得ることに身をやつすことによってその苦痛の回避を試みたという手段の差異こそあるものの、これらの沈黙は、恐るべき自由の前で立ち往生してしまった人間の沈黙、いうなれば“仮面”を選びとる以前の、素顔のままの人間に突きつけられた沈黙という点で同じである。
 あるいは、911に前後して、ほぼ同時期に、映像作品『血肉の華』(ギニーピッグ・シリーズ)をはじめとする日野作品(漫画、映像)が、欧米圏で相次いで再リリース・再評価を受けたことの背景には、欧米圏に住む人々の内面において、信じるべきものの喪失の危機が、意識的であれ無意識的であれ、潜在的に強く感じられていたことが一因としてあるように思えてならない。欧米におけるこの評価があくまで、“日野日出志”という作家のブランドに対するものではなく、その作品自体が帯びたあるなにものかに対する共鳴であったという点もまた、私自身シンパシーを覚えるところである。
 結論を急ぐことよりもまず、腰を据え、日野日出志の作品を読み解いていくことからはじめたい。なかでも『幻色の孤島』はやはり、日野作品のなかにおいても、欠くことのできない鍵となる作品であった。