日野日出志賞二編発表

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日野日出志賞・受賞者
吉田奈々(「雑誌研究」受講者・映画学科四年) 日野日出志の漫画『蔵六の奇病』を読んで

小沼 和(「マンガ論」受講者・演劇学科二年) 『蔵六の奇病』と私〜人間とは何か〜

久保川きよみ(「雑誌研究」受講者・演劇学科四年) 「怪奇! 死人少女」を読む

すでに吉田奈々さんの受賞レポートは発表ずみ、今回は小沼和さんと久保川きよみさんの受賞レポートを紹介します。

日野日出志賞・受賞レポート(その②)

『蔵六の奇病』と私 〜人間とは何か〜
小沼 和(演劇学科二年)

『蔵六の奇病』。日野日出志氏作のマンガである。ジャンルとしては、「実存ホラーマンガ」というものになる。その実存ホラーマンガとは、「人間とは何か」をテーマにし、それをホラーとして描くものである。私は、普段マンガを読むことが多い方だと思っているが、この類のマンガは読んだことがない。ホラーはホラーでも、そこに何か大きなメッセージが隠されているというものは、ここ最近のマンガで見られないのではないだろうか。それはホラーに限ったことではない。最近のマンガは、「読者に考えさせる」ということがあまりない。ただただ、「伝えたいことを、わかりやすく色付けまでして提示する」方向なのだ。確かにそこまですれば、読者は「これが言いたいのね」と、嫌でもわかる。だがそれが、必ずしも良いことであるとは限らない。それはこの『蔵六の奇病』を読んで感じたことである。このマンガで徹底されているのは「重要なことほど、あたかも重要ではないように描いている」ということだ。もしかしたら、読んでいても通り過ぎてしまうかもしれない。それはそれで仕方ない。だがもしその重要なことを通り過ぎることなく、また掴み取って考え、一つでも自分の中に何か落ちてきたならば、それは『蔵六の奇病』が読者に伝えたいこととしての一つの形になるだろう。ここまで長々と『蔵六の奇病』と他のマンガの違いについて書いたが、今回述べたいのはそのことではない。前述したが、実存ホラーマンガのテーマは「人間とは何か」である。人間。それは『蔵六の奇病』に出てくる蔵六や家族、村人たちであるし、もちろん私たちを指してもいる。紙の中の人物と、実在する私たち読者。今ここで述べるのは、『蔵六の奇病』を読んだことによる、私たち人間の有様についての一個人の見解である。
 人間は、第一印象で好き嫌いを決める傾向がある。物語冒頭での蔵六は、顔に七色のでき物のある男である。この時点ではまだ嫌悪するほどのものでもない。「七色」であることに関しては、良く言って珍しい、逆を言えばやはり不気味ではある。それでも、読み始めで私は気分を害することはなかった。それよりも気になったのは、蔵六の内面と言うべきか、その純粋さだ。蔵六は何よりも絵を描くことが好きであることが、マンガ全体から伝わってくる。実の兄から貶されようと、村人たちにからかわれ苛められようと、「絵を描くこと」だけはやめなかった。それどころか、七色のでき物が全身に広がり、村から追い出され、でき物による体の変調に苦しめられても、絶対にやめなかった。それはもはや好きなどというレベルではない。蔵六の生きがい、いや執念と言ってもいいだろう。その執念は、自分の体を傷つけでき物から膿を出しその膿で絵を描く姿によって、自分がどうなろうと関係ない、ただ絵が描ければそれでいいということを体現している。その執念を目の当たりにしたとき、私は真面目な話、引いた。ここまでしてどうなるというのかと。いくら絵を描くことが好きだからと言っても、それは自分が在ってこそのもので、自分を蔑ろにしてまで優先すべきことではないだろうと思ったのだ。このままでは確実に死んでしまう。死んでしまったら絵を描くことなんてできなくなるのだ。それでもいいのだろうか。
ここまで考え、ふと思った。もしかしたら、蔵六は自分の生が残り少ないことを感じていたのではないか、と。もしくは、絵を描くために生き、絵を描くことによって死に向かっていこうとしているのではないか。それは奇病によるさまざまな苦しみに屈して死ぬのではなく、一つの執念を抱き貫き通すことによって行き着いた場所が死であるという、ある種幸せな結末を掴もうとしているように思える。なぜ「幸せな結末」なのか。私自身もそうやって一生を終えたいと思っているからである。蔵六は絵があるように、私には演劇がある。蔵六が絵を描くように、私は舞台で演技をする。それは私にとって何よりも楽しいことであり、またかげがえのないものである。生きがいである。それがもし、病気を患ったためにできなくなってしまったら、もしくはできなくなろうとしていたら。それを素直に受け止めることが私にできるだろうか。いや、できない。きっと、何が何でも舞台に立って、演技しようとするだろう。誰に止められようと、情熱を超え執念となり、我が人生をその執念の炎で燃やし尽くそうとするだろう。おかしいと言われても構わない。そうしなければ気が済まないのだ。「死ぬなら舞台の上で死にたい」。よく役者の方たちが口にする言葉だが、本当にそれができたらどれだけ素敵だろう。舞台に立ち演技をし続け行き着いた場所が死であった。そうなれたら、役者として「幸せな結末」だ。蔵六も、それと同じだったのではないだろうか。そしてそれは、蔵六のなれの果てからもうかがえる。あれほど醜いと言われ続けた七色のでき物だらけの体は、とても綺麗な七色の輝きを放つ亀となった。それは、蔵六の何にも屈しない「純粋な執念」の形である。とても綺麗で、確かにそこに在るということを色濃く感じさせる。その亀が流した涙が意味するところは読者の数だけ解釈があるだろうが、その綺麗で悲しげな涙に、蔵六の本心が詰まっているように思う。絵を描くことの執念は堅いものであったが、やはり蔵六も人間であり、人の子である。村人たちや家族への思いは複雑なものがある。きっと、蔑ろにされながらも心のどこかでは信じたかったのではないだろうか。いつか村人たちも理解して迎えに来てくれるのではないかと。おっかぁにまた会えるのではないかと。でも結局、最期にみた姿は村人たちが自分を殺そうとする姿だった。本当の孤独を、死に際に味わうことはどれほどつらいだろう。今を生きている私には想像しかできない。いや、想像することも難しい。「孤独」、それを一粒の涙で表現しているように感じ、切なくなった。
ここまで蔵六に目を向けて述べてきたが、ここからは村人たちに視点を置きたい。もし蔵六を「純粋」と言うならば、村人たちは「邪念」と言える。蔵六が頭も弱く、七色のでき物があるという、自分たちとは少し違う存在であることを村人たちは受け入れられず、陰口や意地悪によって一線を引いていたことは、悪意として受け取られても仕方ない。それを読者が「なんて人たちだ」と嫌悪することも、また当たり前のことである。だが、それは本当にこのマンガの中だけのことなのだろうか。仮に蔵六のような存在が現実に存在したとして、その人物が身近にいたとして、私たちは村人たちのような態度をとらないと言い切れるのだろうか。一般論として答えを出すのならば、答えはノーだ。人間の心理は、「周囲と同一でありたい」というものがある。そこから集団心理として、どんなに悪いことだとしても周囲に同じことを思っていたり行動している人間がいると、「自分もしたっていいんだ。だって、皆やってるし。」と、自分を正当化して行動する。それを繰り返すとだんだん「悪いことをしている」という意識が麻痺し、ついには「悪くない、これは正しいことをしている、して当たり前」という方向にいく。それは極論だ、そんなことはない、と言われるかもしれない。だが、実際このマンガの村人たちはそうであると言える。頭が弱く、七色のでき物ができる病を患っている蔵六は、自分たちとは違う存在。もっと言えば、村全体の禍の元となりうる存在。自分たちの安全を確保するためには、蔵六を追い出すしかない。いやそれじゃ足りない、殺さなくては。そう、自分たちが生きるためには、人ひとり殺すことは悪いことではない、仕方のないことだ……と。人間は元々ある程度のモラルを持っている。だがそれは砂上の城である。口ではどんな綺麗事も言える。だがそれをいざ自分に置き換え考えた時に、本当にその通りにいられるのか。不完全な生き物である私たち人間は、このマンガの村人たちを批判できるほど出来た者ではない。昔いじめを経験したことがある私自身、もしこのマンガのような状況下にいたら、きっと自分の身体・精神の安全を得るために村人たちと同じ行動をとると思う。「悪いことだ」と思いながら、だんだん感覚が麻痺してなんとも思わなくなるのではと、怖く思う。
『蔵六の奇病』。実存ホラーマンガ。ただのマンガと思うか、そこに秘められたメッセージを探し得るか、それは読者次第である。だが、今回このマンガを通して「人間とは何か」を自分なりに考え、更にそれを自分にフィードバックさせられたことは、なかなか有意義なことであった。まだ「人間とは何か」についての答えは出ていないが、今後も考えていきたい。そう思わせてくれたこの『蔵六の奇病』、そして日野日出志氏に感謝の気持ちを捧げ、結びとしたい。

日野日出志賞・受賞レポート(その③)

「怪奇!死人少女」を読む 
久保川きよみ(演劇学科四年)


タイトルが一番怖そうだったのでこの作品を読み始めた所、ホラーとは違った怖さに驚くことになりました。宮崎駿さんのアニメを見た時に、アニメーションの底力を見せ付けられたように、漫画の可能性を見せられたような気持ちでした。漫画はアニメーションと違い、作品が観客に与える時間が限られていません。10分で読みおわる人もいれば、30分かけて読む人もいるでしょう。深く読めば何時間もかかるかもしれません。また漫画は絵画と違い、作者は漫画に登場する絵を絵画ほどこだわって書いていません。絵画のように美しい絵は漫画に求められていないので、単純な絵でも素晴らしい作品はいまだに人々から愛され続けています。
この「怪奇!死人少女」は、漫画ばかり読んでいるとばかになると言っている世の親に見せ付けたい漫画作品でありました。
読んでいる時、小学生の時に死ぬのが怖くて泣いた夜のことを思い出しました。今は、いつか死ぬのが怖くないといったら嘘になりますが、そのいつかの日の事を考えないようにしている自分もいるのか、生きる事になれてしまったのか、死を恐れて泣くことはなくなりました。さらに私は、小学生六年生になっても家族がいない所でお泊まりすると夜さみしくて泣いていました。そんな時は決まって、いつもいるのが当たり前のお母さんとお父さんとお姉ちゃんと犬の大切さを感じて泣くのですが、私なしで家族が進んでいくのも悲しかった気がします。今は男の家に何週間いても、さみしくて泣くなることはなくなりました。さみしいと思うより先にセックスして寝てしまうからかもしれませんが、生きる事になれてしまったかもしれません。読みながらそんな事を考えました。
さて、主人公の少女は身体検査の日に体重を気にして食事を抜きます。「一食ぐらい抜いたって死にゃあしないわよ」と、この食事を抜くという、思春期の少女なら有りがちな行動はよく考えると「生」に逆らった行動であることに気付きます。食事、私達が普段食べているものの全てがそもそもは「生」でした。しかし私達の血肉になり巡るため「死」した生命であった事も事実なのです。
巡る事を拒んだ彼女に訪れたのは、体が死んでいくという「巡り」の急加速でした。
降り続ける雨と崩れていくてるてる坊主が印象的でした。太陽と雨、陽と陰、期待を込めて生まれたてるてる坊主と、雨に打たれ続けるてるてる坊主、そして始と終。この時はまだ終わりもまた始まりであるという予兆を感じさせない巧さがあると思います。
その後、腐っていく彼女をグロテスクだと思いました。私の考えるグロテスクとは、「異様、奇怪な」という意味よりも「動物、自然、そして人間の真の姿」であり、だからこそ「理解(説明)できない恐怖」ととらえています。だから生まれてきた赤ちゃんをグロテスクだと思いますし、人間が構成される生々しい工程を笑顔で喜び見守る人達に狂気すら感じてしまう事もあります。死んでいく少女を家族が見守る姿にはそれと似た狂気を感じました。家族という絆が本来なら目を背けたくなる事でも最後まで向かい合う愛に似た力を与えていたと思いますし、妹が姉を見捨てないシーンでは、この家族が作り上げてきた家族の信頼が本物であった事を感じさせます。

姉が徐々に死んでいく様子は、生きていく上でついた人間の垢が1つ1つはがれていき無垢に近づいていく様で、日が経つ程に穏やかで純粋で愛に満ちていく様は、まるで胎児に還っていくように見えました。

考えれば考える程に、1つの命が生まれるその瞬間も、1つの命が停止するその瞬間も、神秘なのだと思いました。
彼女はまた万物の一部に溶けていきます。七色の粉は、家族にしか見えない幻であり、生きながら死んだ人間を最後まで見守った家族達への小さな希望なのだと思います。それは作者自身が死を見て、死を知り、死を感じ、それでも死を問い詰めた時に、自分の中に残った希望そのものなのではないでしょうか。
私は、七色の粉が流れていくシーンでは「千の風になって」が思い浮かびました。それは死を目の当たりにした時に、死が無であるという絶望から救われるために作られた都合の良い解釈のようにも思いました。しかし、どこまでも続く空の表情や季節と共に移る草花の彩り、人間が手をのばしても決して真似することはできない日常の色々を見ていると、存在することの素晴らしさと、川が流れて海になり蒸発し雨なり植物を育て…そんな風に我々もまた自然の一部であり、全てに宿る魂が循環していくような気を感じることがあって、それは本能に近いような気もします。
私達は地球という場所で起こる奇跡になれてしまい、五感に鈍感になり、感謝すら忘れて生きてしまっていないでしょうか。この家族はこの後、お姉ちゃんが巡る全てのもの感謝して生きていくことでしょう。そこまでしないと人間はもう気付くことすらできないのか、とお尻をたたかれたような気持ちになりました。日常の些細な事や、小さな花の命や、当たり前の殺生を、人間だけが考える事ができるのはなぜでしょう。あれもこれも欲しい、あれもこれもしなくちゃいけない、人間はとても忙しい生き物です。しかし人間として生きる限り分からなくてはいけない事があるとしたら…私は、谷川俊太郎さんの生きるという詩を思い出しました。「生きているということ、いま生きているということ…」

この日野先生という方は、漫画を通して余りにも大きなメッセージを発信しておられるのだと思います。ホラーは、人間の興味をくすぐり非日常を見せてくれる1つのエンターテイメントでもありますが、ホラーでないと伝えられない事があると考えたことはありませんでした。異世界だからこそ、人間の生々しさを直に表現し、人間や生物の究極の形を見せることができる。そういったものを表現する時に、ホラーという形が用いられるのはやむを得ない事なのかもしれません。
人間が汚く、悲しく、さみしい生き物であることを問い詰めればホラーであり、ホラーの中に存在する小さな希望を人はただの希望とは思えないはずです。それを表現する作品の完成度の高さを、読めば読むほど各所に感じました。
さて、最後になりますが私は本当に怖がりで、稲川淳二とか梅津かずおなんていうおじさんのせいでいまだにトイレに行くのが怖くなったり、お風呂でシャンプーする間も目をつぶれなくなったり、夜夢見が悪くて目が覚めたり…等の被害を受けています。そんな中で、日野先生というおじさんは異色で、作品がよい意味で後味が良いというか夜のトイレも怖くなりません。その代わり何回もプレイバックしてきて考えざる得なくなり結局眠れないのですが、私はこの日野先生という方に表現者として大変興味がわきました。今は第一段階なので、誰の横槍もなく作品を自分で解釈してみて、第二段階として清水先生の著書でより深く考察してみたいと考えています。なので、現時点で第一段階の文章を提出したことをお許しください。残りの夏休みも日野先生の作品を消化しつつ芸術活動に励むつもりです。全作品を読み終えたあとに清水先生の作品でさらなる発見できることを楽しみにしています。