猫蔵の日野日出志論(連載7)

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清水正の著作   D文学研究会発行本
猫蔵の日野日出志論(連載7)
『幻色の孤島』論(第七回)

猫蔵著『日野日出志体験』(D文学研究会)の栞より
 見開き14ページ。
 結局、男は壁のなかの住人たちに紛れて、乞食をして暮らすよりなかった。「ことばが通じない」ためだと男自身は独白しているが、明晰な彼の自意識が、住人たちのうちに完全に溶け込むことを拒んだためである。なぜなら、右ページ4コマ目、物乞いになり路上に座り込んだ男の目の前を歩いている町の住人たちがすべて、顔につけた仮面を除いて裸であるのに対し、男自身といえば、いまだ、もはやボロボロに擦り切れた上下の服を身に付けたままだからである。乞食という地位は、男自身が選びとった結果であるように思えて仕方ない。男は素顔を仮面で隠してはいるものの、ここの住人たちのように裸をさらけ出すことに抵抗を抱いている。脱がざる洋服とは、かつて男自身が所属していた世界の名残であり、あれほど壁のなかの世界に憧れていたにもかかわらず、捨ておけなかった過去の習慣だ。これが、文字通り隔たりとなって、男自身と住人たちとの齟齬を生んでいる。
 それでも、ここでの物乞いは、あの巨大な門の外の生活に比べればよほど楽であった。“ゴーッ カタタン コトトン”という音を傍らに、男がもたれ掛かった壁は、陸橋の一部であろうか。もしそうであるとするならば、その上を走っている鉄道のなかには、何百、何千という、仮面をつけた裸の人間たちがひしめき合っていることだろう。一見すると、仮面というものが無機質な印象を与えるが、彼らが皆、裸であるという点が、どこか動物じみた感じを与える。動物といえば、本作ではこれまで、壁の外における動物同士の弱肉強食の争いがたびたび描かれてきた。一瞬、それらが野蛮な野獣同士の争いであり、ここ壁の内側においては無関係な出来事であるかのように思えたが、それは誤りであった。忘れてならないのは、奇形者や老人、病人を壁の外側へと捨て、彼らを動物の餌食にさせているという点において、壁の内側の世界もまた、弱肉強食という原理は忠実に適用されているという事実である。
 もし、鉄道のなかに乗り合わせた何百、何千人という人間たちが、ふとした弾みでその仮面を外してしまったとしたらどうだろう。彼らはおそらく、めいめい動物のように勝手気ままに振舞いはじめ、壁の外側の世界となにひとつ変わらない弱肉強食の様相を呈しはじめることだろう。仮面の人間たちとは、壁の外側にいたあの動物たちが、とり急ぎ凡庸な仮面でその本性を覆い隠しただけのものに過ぎないのである。
 見開き6ページ右、5コマ目、人懐かしさのあまり駆け寄った主人公の男に対し、住人たちは無情にも弓矢を放ち追い払ったことを思い出す。この時点においてはまだ仮面を身につけていなかった男とは、住人たちの目からすれば、すっ裸で駆け寄ってきた変人か、文明の通じない野蛮人として映ったに違いない。ここは、たとえ全裸であったとしても、仮面さえつけていれば、人間としてみなしてくれる世界なのだから。
 しかし、男の物乞いとしての生活も長くは続かなかった。島の風土と生活が肌に合わず、男のからだはふたたび弱りはじめ、このままではまた門の外に捨てられてしまうに違いなかった。
 そして、なんとかこの孤島からの脱出を願う男は、毎日ぼんやりと塀の外を見て過ごすようになった。やがて、男はある方法を思いつく。それは、この島についての説明と救助を求める文を書いた紙を紙飛行機にし、海の向こうへと飛ばすことであった。紙飛行機は島の気流に乗って、海の向こうを見えなくなるまで飛んでいく。
 左ページ5コマ目。
「きっと あの海のむこうに わたしのふるさとが あるにちがいない」という男の独白。その背後には、飛んでいる紙飛行機と、噴煙を上げる一峰の山がそびえ立っている。それは、富士山のようにも見える。ならば、ここはやはり日本ということになる。これまで日本の外側を徘徊し、ついには憧れであったその内側へと入り込んだものの、馴染むことができず、海の向こうの“ふるさと”を慕情している男がいる。
 海の向こうのふるさととは、果たして実在するのであろうか。壁の内側の世界へとやって来る前も、男はここに、懐かしさを覚えていた。だが、いざ辿り着いてみれば、男自身が無条件にみずからを重ね合わせることのできる場所からは、程遠かった。男はまた、その理性によって一体化を妨げられたのである。
 扉絵に描かれた男の顔が仮面を被っていなかったように、男は仮面を被り続けることを、本当の意味においては望んではいない。男のいう“ふるさと”とは、少なくとも、仮面を被る必要のない場所であるに違いないのだ。
 みずからがまだ足を踏み入れたことのない場所に、懐かしさと親しみを覚えるということがある。たとえば日野日出志の場合、それが<満州>ということになる。昭和二十一年、日野は旧満州国チチハルにて生を受けた。父親は満州鉄道の職員であり、当時は大陸にて、引揚者の残務処理に携わっていた。当然ながら、生まれたばかりだった日野に、その頃の記憶はない。同年の秋、一家は日本へと引き揚げるのだが、物心ついた後にその事実を自覚し、少なからずショックを受けたという。その時点では当然、すでに満州という国は世界地図のなかからは消えており、日野自身、そこを“ふるさと”として実感したことは一度もないと、私に対して語ったことがあった。しかしながら、“ふるさと”としての実感に欠けていたとしても、満州という存在が、日野の内部で占めていた大きさは無視できまい。
 <満州>が、なまじ実体をもっていなかったがために、それが空間としてではなく、むしろ美意識や心の源泉として、日野の内部においてその役割を担ってきた可能性は大きい。それは、満州という国に対するアイデンティティというよりも、その満州というものを産み出した日本に対する、人一倍激しい渇望となって、彼を突き動かしてきたように思える。
 日野はまた、幼少の頃、みずからが満州生まれだと知って、戸惑いと共に気恥ずかしさも覚え、そのことを学友たちに知られることを内心恐れたともいう。故郷に対する想いは、一筋縄ではいかない。それでも渇望せざるを得ないのは、人間の性であろうか。
『幻色の孤島』の主人公の男は、みずからのふるさとの記憶を喪失してしまっていた。しかし、喪失してしまったことを忘却してしまったわけではなかった。喪失感は飢餓となり、絶えず男自身のなかに残り続ける。ゆえに、この男が向かおうとしている先には、常に、その失われた“ふるさと”の幻影が二重写しになっている。
ただし、ここでいう幻影とは、かつて見た光景の残滓というよりも、理想の“ふるさと”に投影された、男自身の願望として読みとれる。なぜなら本編中において、たとえ断片的にであっても、失われた男の記憶が立ち返ってきた描写は皆無であったから。男のいう“ふるさと”とは、実在した場所の記憶ではなく、男自身の理想や美が結晶となったものである。
高い壁の内側から見ていた分においては、壁の内側の世界は、少なくとも力強い印象を与え、あの男女像が仮面をつけていなかったことからも分かるように、素顔のままで生きていくことを可能だと思わせた。それらは、対外的には、男の渇望を存分に刺激した。
壁の外側において、野生の食物を一切受け付けなくなった男が唯一、口にすることができたものは、人肉であった。門の外側に追い立てられた人間という意味において、みずからと境遇のよく似た、破棄された人びとの死肉であった。そして、その人肉食いが人目を忍んでなされるべき行為であることを、男自身充分に自覚していた。
素顔のまま生きてゆける場所へと至るために、闇に紛れて本来ならば罰せられるべき行為に没頭する男の、不純であり、また同時に純粋なその姿の対比が鮮やかである。いずれにせよ、すでにこの時点で、この男が素顔のまま生きてゆくということはもはや不可能となっている。人肉食いというタブーを犯してしまった男の素顔を許容してくれる社会など皆無に等しいであろうし、なにより男自身の理性が、すでに抱え込んでしまったこの事実を、未来永劫隠蔽しようと企てるからである。男はみずからの手により、素顔で生きていくこと(=ふるさととの合一)の途を閉ざしてしまったといえる。

猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。本名・栗原隆浩