日野日出志賞のレポート三本決定

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本

今年度「雑誌研究」の機関誌は『日野日出志研究』を作成する。日野先生に「雑誌研究」「マンガ論」の夏期課題レポートを読んでもらい、その中から三本のレポートを日野日出志と決定した。昨日8日、日野先生から受賞レポートに関するサイン入りのコメントを受け取った。今回は受賞レポート三本のうち吉田奈々さんのものを紹介する。
日野日出志賞・受賞者
吉田奈々(「雑誌研究」受講者・映画学科四年)
 日野日出志の漫画『蔵六の奇病』を読んで

小沼 和(「マンガ論」受講者・演劇学科二年)
 『蔵六の奇病』と私〜人間とは何か〜

久保川きよみ(「雑誌研究」受講者・演劇学科四年)
 「怪奇! 死人少女」を読む

この日は江古田の中華店「同心房」で飲み会。私は宝島社「このマンガがすごい」のアンケートに答えて落合尚之罪と罰』、広尾末広『芋虫』、山口貴由シグルイ』、井上雄彦バカボンド』、上野顕太郎さよならもいわずに』の五作品を推薦した。
飲むほどにテンションがあがり、日野漫画と佐近寺漫画の特質をめぐってもりあがった。自作について語り続ける日野先生とほとんど笑顔で応えている左近寺先生の対照が面白い。「線の日野漫画に対する面の左近寺漫画」ということで熱弁をふるっていると、わたしが座っていた椅子がとつぜん壊れて尻もちをつくハプニングがあったが、幸いにしてケガひとつしなかった。尻もちをつきながらもデジカメだけは手放さず、面白い数々の写真を撮ることができた。
日野日出志  左近寺諒  清水正  山崎行太郎


シグルイ」を手にする日野日出志先生

さよならもいわずに」を手にする左近寺諒先生

「同心房」の前で記念写真

日野日出志賞・受賞レポート(その①)

日野日出志の漫画 『蔵六の奇病』を読んで
〜『蔵六の奇病』と『おとなしい日本人』〜 〜『蔵六の奇病』
吉田奈々映画学科4年  

 私は、人に比べて、漫画を多くは読まない方だ。むしろ、ほとんど読まない人間だ。活字離れをしているが、漫画に比べたらまだ小説の方が読む機会は多い。だからといって、私は、物語離れをしている訳ではなく、映画を見る機会はとても多い。物語は大好きだ。

 今回、雑誌研究の授業で、日野日出志の『蔵六の奇病』を読んだ。
前回の、蛭子能収の強烈な漫画『愛の嵐』について、久々の漫画でありながら、またもや、蛭子能収とは違った意味で、記憶に残る強烈な漫画だった。

 『蔵六の奇病』について、まず、第一に思ったことは、「映画みたいだった!」ということだ。映画が大好きな私だからかもしれないが、この漫画を読んで、一本短編映画を見た気持ちになった。それだけ、物語が濃厚で、深かったのかもしれない。
 何より、映画みたいだと思ったきっかけも、私が、以前見たオムニバス映画『セプテンバー11』の中の一編、今村昌平監督の『おとなしい日本人』という短編映画に似ていたからかもしれない。
 この映画は、10分程度の短い作品なのだが、描かれている内容は、とても深く、見応えのある短編映画だ。
 『蔵六の奇病』との類似点は、村、追い出される主人公、母親、家族、主人公の身体的変化などだ。
 『おとなしい日本人』の粗筋は、戦争により、心を失い、ヘビとなって帰って来た一人の男が、ヘビになってしまった為、昔のように、家族や、村の人々と生活ができず、かつ、理解してもらうこともできず、村から追い出され、山へと一人去っていくという話だ。
 この映画のラストは、村の人々が、山へと、ヘビとなった主人公を探しに行くが、見つからず、主人公の妻だけが、ヘビのように、水の中へと入り、消えていく主人公を見つけるというラストだ。
ラスト、蔵六と同じように、ヘビとなった主人公は、消えていく。
人々から見捨てられた主人公は、理解されることもなく、おとなしく、悲しみを残して、この世界から消えていく。
 粗筋をみても、『おとなしい日本人』は、『蔵六の奇病』と類似点が多いことが分かる。
 『おとなしい日本人』と合わせて、『蔵六の奇病』を読んでいくのも面白いだろう。
 『おとなしい日本人』は、テーマを“戦争”としぼって描いている。戦争によって、“人間”を失い、ヘビになってしまった主人公を通して、聖戦なんかありはしない!というメッセージを大きく伝えている。
 一方、『蔵六の奇病』は、何をテーマにしているのだろうか?『おとなしい日本人』に比べて、明らかなテーマは分からないが、『おとなしい日本人』で描かれた、昔の日本らしい、村との関係、つまりは、村の人々との対立、団結などを含め、“人間”についても、『蔵六の奇病』では描いている。そして、“人間”に関して、不条理な問題、社会や、人々に対しての、混沌とした問題など、大きな問題を描いている。
 その中でも、『おとなしい日本人』と異なる点は、「芸術」とは、どのようなものなのか?について描いてる点である。
 『蔵六の奇病』は、大きなテーマを、社会や、戦争など、そういった問題に絞るのではなく、「芸術」という一風変わったテーマにしている。そこが、他の物語とは違う、魅力だった。

 『蔵六の奇病』の「芸術」について述べていこう。
 蔵六を見ていると、「芸術」とは、人に理解されることが難しいもので、芸術の制作過程は、とてつもなく苦しく、死をも感じさせる。また、痛みや、苦しみがなければ、芸術はできないのだとも示している。
 私たちが、芸術作品を見る時、完成されたものを見るのが普通だ。制作過程を見ることはないし、未完のものよりも、完成されたものを見る。完成されたものを見て、芸術を鑑賞したり、批評したりする。芸術とは、完成したものに対して、与えられる言葉なのかもしれない。しかし、その芸術を作るには、死と隣り合わせになるくらい、とてつもない痛みや、苦労を伴うということが、この漫画から分かる。蔵六は、痛み、苦しみに耐えて、芸術を完成させた。最後にカメになるのも、汚さを乗り越えた、一瞬の美しさである。芸術とは、一瞬の美しさだけだ。その一瞬を生むには、何倍もの苦しさしかない。この漫画も、書かれるまでには、相当の苦しみがあるに違いない。作者のそうした思いも、苦しみも、この漫画の中で表現されているのだろう。
 また、芸術が、人には、なかなか理解されないということもこの漫画は示している。主人公の蔵六は、頭が弱いし、おかしな行動ばかりだし、人に理解されていない。しかも、吹き出物ができ、人から軽蔑され、避けられる。さらに、村から追い出されることまでなってしまう。誰も、蔵六を理解しようとはしない。母親でさえ、理解しようとするも、理解することを止められてしまうほどである。このことから、芸術とは、理解されず制作し続け、いつかやっと、一瞬だけ、認めてもらうことができるか、そうでないかくらいのものだということも言っている。それは、私の見解だが、作者が、この漫画を書いた、苦しい漫画家時代、漫画も、芸術として認められることが、難しいと感じたことも反映されているのだと思った。
 しかし、そのことから、この漫画は、苦しみだけではなく、希望も描いている。マイナスな考え方ではなく、批評も、プラスに考えれば、人々から理解されなくても、自分を信じて、芸術を続ければ、いつかは、一瞬だが、認めてもらい、人々に感情を沸き立たせることができるかもしれないということだ。『蔵六の奇病』のラストは、こういった希望を描いている。
 芸術とは、苦しいものだと提示し、どれだけ、一瞬にかけれるかだ。蔵六は、自分の身体、心、人生、すべてを芸術にかけた。それは、賞賛すべきことであり、だからこそ、芸術を完成させることができたのだと思う。また、蔵六がカメになったというのも、とても意味があることだと思う。血の涙を流すカメ。カメは、理解されなかったこと、信頼している母親に見捨てられたこと、村の人々から追い出されたことなど、すべてを悲しんでいる。しかし、カメになったということは、どこかで、ずっと長生きしていくということでもあると私は思った。つまりは、理解されなかった芸術でも、人生、すべてをかけた芸術は、ずっと、カメの長い命のように、長く一瞬を輝き続けるということでもある。蔵六という人間は、芸術を完成させる為に、朽ち果ててしまった。しかし、蔵六の心、感情は、カメになり、芸術を残し、生き続けていく。だからこそ、カメになったのだと思った。

まとめ
 『蔵六の奇病』は、ファンタジー的な物語要素もあり、奇怪漫画としての要素も持ち、かつ、問題提起をする、深い意味を持った漫画でもある。日野日出志という漫画家は、物語の中に、深い感情や、人間の疑問など、奥深い「何か」を描く漫画家だと分かった。深い「何か」を描くためには、ジャンルは関係ない。日野日出志の漫画は、奇怪で、気持ち悪くて、嫌遠されることもあると思うが、その、気持ち悪さこそが、人間の深い「何か」を描く為には必要なものだと思った。つまりは、人間は、汚いものなのである。その汚いものの奥深さを、まだ、人間たちは、どう表せばいいか分からないし、その汚さがどういうものなのかも分かっていない。だからこそ、作家や、表現者たちは、汚さを追求し、漫画なら、物語と、画で表現する。また、汚さを追求することによって、人間の美しさも見つけようとしている。人間とは何か、まだまだ分からないからこそ、表現し、追求し、このような物語が生まれていくのだと思った。