猫蔵の日野日出志論(連載6)

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清水正の著作   D文学研究会発行本
猫蔵の日野日出志論(連載6)
『幻色の孤島』論(第六回)


猫蔵の処女出版
13ページ。
この作品においてもっとも印象深いページをひとつ挙げるとするならば、私は迷わずここを選ぶだろう。ついに、壁の向こう側の世界に、男は到達する。小高い塀の上、ボロボロの服を身に纏い、先が千切れた左腕を剥き出した男。その眼下には、憧れ続けてきた世界が広がっている。高層ビル、煙突、寺社、キリスト教会、イスラームのモスク、そして、電信柱と平屋の家がひしめき合った町並み。そう、ここはわれわれがよく見慣れた、現代日本の凡庸な風景そのものだった。
ただ、一風変わっているのは、ふと空を見上げると、空に浮かんだ雲に紛れて、一個の巨大な目玉と膝を抱えた胎児とが、ぼんやりと浮かび上がっている部分である。地上と雲との狭間には、無数の鳥が飛んでいる。
これまで、『幻色の孤島』の世界が、物語の語り手の肉眼を通じて表れ出たものであるという前提のもと、論を進めてきた。すると必然として、実際の風景と男自身の感性とがない交ぜになったものとして、この光景は生み出されている。作者・日野はかつて、彼の作品にたびたび描かれる<空の巨大な目>について、かつて読んだ芥川龍之介の本の挿絵に感銘を受け、モチーフとしたことを明らかにしている。では、その感銘とは、そもそもどのような心理に根差しているのだろうか。
改めて、見開き13ページを見る。まず感じるのは、雑然としていながら、一切の特権的なものが廃されているがゆえに返ってあまりにも無機質な町並みが与える、不安である。先ほどまで壁の外側から想像されていた、もっと土俗的で雄雄しい文明のイメージは、消え失せてしまった。そのかわり沸き起こってくるのは、これだけ多くの建造物が犇めき合っているにもかかわらず、それらがなにかを満たしている印象からは程遠い感覚である。満ち足りているどころか、どこか中心が欠落した退廃さすら感じさせる。その理由は、墨によって描かれた“どんどろ どろろん”という太鼓の音の不気味さに拠るところばかりではあるまい。

日野日出志賞を選考する日野先生。2010年10月1日清水研究室にて。
この見開きに描かれた町並みには、ありとあらゆる宗教的建造物が、混在しあっている。この絵に「混沌」という題名をつけることもできよう。ただし、この混沌からは、アミニズム的な豊かな交じり合いは感じとれない。ただ、日ごろ宗教的戒律に縛られ、それを煩わしいと感じている人にとってみれば、これが一見、自由と豊かさを内包した町並みに見えないこともないだろう。しかし、忘れてならないのは、これが、中心となるものを喪失しありとあらゆる宗教の神々が均一に地ならしされた不毛に繋がっている事実である。
確かに、門の外に建立されていた男女の石像は、雄雄しく威圧的ではあったものの、熱を帯びていた。反面、ここに描かれた町並みは、様々なものが入り混じっているにもかかわらず、寒々しく、それでいて息苦しい。
この感覚は、以前どこかで感じたことがあると思ったら、冒頭に掲げられた「扉絵」の男の瞳であった。あの扉絵において、たった一点、男の瞳だけが、周囲の潤いからは隔たった、異質な部分であった。あの男の眼差しの先に、見開き13ページに描かれた町並みが広がっていたとすれば合点がいく。空に紛れ込んだ目とは、男自身のものであるように感じられる。
ここでは、洋の東西を問わず、ありとあらゆる神々の宗教が、土に根差しおのずから生きているというよりも、ショーウィンドウのガラスケースに陳列された精巧なミニチュアのように横たわっている。描かれた町並みのなかに、突出したものはなにひとつとして存在していない。見ようによっては、前出の見開き9ページ目において描かれた“地獄図”よりもはるかに地獄めいた風景に見えなくもない。
この箇所を他の日野漫画と比較し、例えば前述した『蔵六の奇病』においては、この見開きページがもたらす印象と似た箇所が登場してきた覚えがない。グロテスクで狂気じみていながらも、常にその根底からは“熱っぽさ”が感じられた。日野作品を評する際に用いられる「怪奇と叙情」という言葉のうち、“叙情”の、とくに“情”部分に篭った熱っぽさが、悪夢を見せられた悪寒と絡まっていつも存在していた。
しかし、ここにはそれがない。むしろ、あれだけの夥しい血と肉を描きながらも、それらの質感はまったく感じられず、それどころか、乾いた眼差しを絶えず視聴者に意識させずにはいられなかった映像作品『血肉の華』との通底が感じられる。後に『血肉の華』を生み出すに繋がる萌芽が、このコマ絵のなかにはある。「怪奇と叙情」と評され、『蔵六の奇病』を代表作とする日野作品が抱え込んだ、もうひとつの嗜癖のようなものが、ここには隠されている。
十二歳で『血肉の華』を鑑賞した後、私の脳裏にはいつしか<朽ち果てゆく死体>のビジョンがイメージされるようになった。ただ、その死体は、泥の上で朽ちてゆくわけではなかった。土ではなく、アスファルトの上であった。死体が朽ち果ててゆく場所は、泥の地面ではなく、けっして地面とは相容れない、アスファルトの上に他ならなかった。アスファルトにこそ、必然性が感じられたのだ。時には、その死体の意識に私自身の意識を仮託させ、アスファルトの上で干からびてゆく飢えと渇きを夢想した。ここにおいてもまた、『血肉の華』が私にもたらしたものは、血や肉の生々しさなどではなく、満たされざる渇きであった。
いま一度、見開き13ページに目を向ける。読者を背にし、男が立っている。彼が立っている壁の上の歩道を境に、向かって左側、男の眼下には、これまで目にしてきた外側の世界とは一変し、鉄筋コンクリートによって建てられた高層ビルが立ち並んでいる。一枚の壁を挟んで、<木・石・土>の世界だったものが、一瞬にして<コンクリート>の世界へと変貌を遂げている。まるで、瞬時のうちに、時間や空間さえもが変質してしまったようだ。絵に注目すると、内側の世界にも木立らしきものは描かれている。だが、乱立する建物の間に挟まれてひっそりと佇むそれらは、外の世界において描かれていた圧倒的な質感をもった植物群とは似ても似つかない。まるで映画のカキワリのようだ。
男の他に人影らしきものは一切見当たらず、空を黒いシルエットの鳥の群れが羽ばたいている。まるで、町全体が大きな墓石のようである。足場の歩道の上に伸びた男自身の黒い影。男の、はだしの足が痛々しい。絵全体を遠目に眺めれば、かつての『血肉の華』鑑賞以来、私の脳裏に喚起されてきた<アスファルトの上の死体>のビジョンと重なる。
コンクリートによる占有率が七割を占める景色のなかにおいて、奇妙に捻じ曲がった影を足もとに張り付けた男の生身は、アスファルトの地面の上にへばりついた、動物の骸を思わせる。男の眼前に広がる風景は、地上と空だ。その狭間を、黒く塗られた鳥が飛び交う。地上には、コンクリートの建造物がひしめき合っている。教会やモスク、日本風の寺院さえも、高層ビルと均一な着色がなされ、まったく大差がない。一方、空にも安息はない。空には、男自身を注視する巨大な単眼がある。
空に目玉があるということは、男自身が、空との一体化を拒まれているということに等しい。いや、拒まれているというのではなく、明晰すぎる男自身の意識が、空(天)との合一を妨げているのだ。地上に描かれた宗教的建造物の数々は、この疑心に満ちた目玉と空を覆う雲によって、はじめから神に通じることを禁じられている。それら建造物の群れは、その特権を奪われ、地上に沈黙するしかない。<アスファルトの上の死体>とは、泥に塗れて地へと還ることも、また、天に上り神の救済に浴すことも適わない、永劫に滅せざる死体である。扉絵に描かれた男の眼差しは、“乾き”を帯びていた。男の眼差しを、“狂気”という言葉で表すのは容易い。だが、どこまでいっても狂気にすら陥ることのできない理性の持ち主は、どこまでもひたひたと背後からついてくる理性の亡霊を、片時も忘れることはできまい。そこには、狂気の熱中すらからも遠く隔てられた、肉の孤島が残されるばかりだ。
 SEXも宗教も、それに熱中し得たものにのみ、豊かな悦楽をもたらす。“法悦”という言葉も示す通り、両者にはエクスタシーが伴っている。
 ただ、男根のシンボルである片腕を喪失した男は、均一な色で塗り固められた建物の群れの前で、留まり続けるより他にない。この男ははじめから、神を信じることなどできやしなかった。また、男のからだはもはや、アレルギーという拒否反応によって、土の恵みを一切受けつけようとはしない。この男はまさに、天からも地からも見放された<アスファルトの上の死体>なのである。
 天への入城をみずから拒みながらも、いまだ空を仰ぎ続けている男がいる。無垢なるもの(天)との合体を願いながらも、無垢ではありえない姿をさらけ出す男自身の姿は対照的である。このコントラストは、『蔵六の奇病』においてより鮮やかだった。蔵六は、「ほんものそっくり」の色を用いて絵を描いてみたいと望みながらも、絵の具を手に入れることは叶わなかった。しかし、やがてみずからのからだにできた醜い“できもの”を傷つけ、そこから吹き出たウミを使って絵を描きはじめる。美を求める者は、その美からもっとも遠く隔てられた者であり、次第にその落差が激しく、露わになっていく。
 日野日出志が手がける作品がその根底に備えたこのベクトルは、作品自体が“物語”という体裁に忠実であるか否かに関わらず、力強い原動力となって作品全体を突き動かす。私にもたらされた<アスファルトの上の死体>というビジョンにおいても同様に、“死体”は空への昇天と浄化を望みながらも、刻一刻と朽ち果てていくがゆえに、その醜くて有機的な本質を、硬いアスファルトの上にさらけ出し続ける。そして、浅ましいみずからが天にもっとも相応しくないものであることを明らかにしながらも、それでもなお、天を想い続けるのである。
猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。本名・栗原隆浩